第六話 別れ
冬休みが明けて数日経った雪の日。事件は起こった。歩夢が自宅のマンションから飛び降りて病院へ緊急搬送された。命に別状はない。自殺未遂と判断され、警察が動くことになった。捜査は内密に進められ、歩夢が飛び降りた事実さえ知らない生徒たちもいる。
学校側からは歩夢の担任と陸上部の顧問にだけ詳細が報告され、歩夢と親しかった生徒を個別で呼び出し、自殺未遂のことは伏せて歩夢の近況を訊きだしていた。当然、その対象に私も含まれている。自殺未遂のことは歩夢のお母さんから知らせを受けて知っていた。
病院へ搬送されたときに彼女の身体が随分と痛めつけられていることも発覚した。自傷行為だとはバレていないみたいだったが、警察はいじめについて学校側へ追及していた。だが、歩夢がいじめられているという事実はない。それらしい証言も出てこないことから、警察は体罰、家庭内暴力などの虐待も視野に入れて捜査を進めていた。
歩夢の両親は警察からの圧と長時間にわたる事情聴取でかなり疲弊しきっていた。歩夢が自傷行為を行っていたことは私以外に誰も知らない。彼女の秘密は私が守ろうと思った。
歩夢が学校へ復帰してくることはなかった。あれから、何度も自殺未遂を重ねているらしかった。歩夢はきっと中毒症状を起こしているのだ。飛びおりは自傷行為の延長。自殺未遂を重ねているのに死んでいないことがそれを如実に表している。歩夢は人がどの高さから落ちれば死ぬのか、どの高さなら気を失わずに痛みを感じられるのか、ぎりぎりのラインを綿密に調べて確かめたのだ。過激で刺激の強い痛みが欲しくなった。そうじゃないと満足できなくなった。周りは大ごとのように騒ぎ立てているけれど、歩夢は自分の欲望を叶えるためにやりたいことを実行しただけなのである。
まあ、打ちどころが悪かったら、死ぬというかなり高いリスクを背負っているけれど。
彼女の自傷行為が加速してどんどん過激なものになっているのは知っていた。
去年の十二月くらいからだ。雪が降って積もれば、凍死になっていくまでの過程を実践しようとする。寒くてストーブをつければ、どうしても知りたいと火傷の熱さを試そうともしていた。話だけ聞いたものは湯船で溺死ごっこをしているとか、首つりと同じ感覚を味わうために首を紐などで絞めているとか、最後には独りごとのように高いところから飛び降りてみたいと呟くのだ。妙に含んだ低い声だった。死にたいのではなく、死に向かう苦痛の過程を愉しみたいだけだ。死ぬほどの痛みがどういうものなのか知りたいだけ。一度やり始めて、その感覚に溺れ抜け出せなくなった。だから、自殺未遂を繰り返している。たったそれだけのことなのだ。
二月の終わり頃、私は歩夢が入院しているという病院へ見舞いにいった。
彼女は今、精神病院へ転院して心のケアを受けている。一月と比べたら自殺未遂はほとんどしなくなり、身体は回復に向かっているらしい。今まで面会謝絶だったが、先週末に解除されたので、歩夢のお母さんに会いにきてほしいと言われた。
歩夢が自殺未遂を繰り返す理由を知っていたからか、自分でも驚くくらい歩夢への心配はなかった。死ぬはずがない。自傷行為を愉しんでいる。歩夢はきっと今、気持ちよくて絶頂で心底幸せだろうと、私は勝手に思い込んでいた。寧ろ、歩夢が自殺未遂でどれ程の快感を味わっているのか、一部始終、観察したいとさえ思っていた。
個室の白い空間にベッドがひとつ、歩夢は上体を起こして読書をしていた。歩夢は私を見るなり顔をほころばせて手招きした。お母さんは席を外している。歩夢のもとへ近づいて軽くキスをする。
『あのね、ここにいたらなにをしてもダメって言われるの。だから、いい子のフリをして退院したら、今度は藤先輩もいっしょにわたしと飛び降りて』
彼女は前よりも痩せていた。懐かしいポニーテールはもう拝めない。髪はばっさり短く切られていた。病院服に身を包んでベッドに座っている。
私は歩夢の提案に答えることはなく『患者みたいだね』と心に思ったことを告げた。歩夢は笑いながら『患者だよ』と一言だけ返した。
それから言葉を一言も交わさず、歩夢は読書を再開した。私は黙ってそれを見つめる。静かで不思議な時間だった。
お母さんが戻ってきて、私は病室を後にした。
卒業式の日になっても歩夢は学校へ登校してこなかった。私がこの中学校に通うのも今日で最後だ。今日で私は卒業する。
卒業生の春休みは長い。一ヶ月弱ある。歩夢の母親から電話がかかってきたのはそんななんでもない春の日だった。歩夢が退院したらしい。いつでも遊びにきてねと歩夢のお母さんは言っていた。
数日後、さっそく彼女の家を訪れた。見舞いにいったのはあの一度だけで、そのときも元気そうだったからそこまで心配はしていなかった、はずだった。けれど、退院したということはもう日常生活に戻っていいということだ。退院した歩夢は入院していたときよりも健康的で生気が感じられて、ほっと胸をなでおろした。本当は気がかりだったのかもしれない。
『四月から学校行くの?』
歩夢はぱっと私から目を逸らした。
なんだろう。
胸がざわついた。
『春休み中に補習してから、だけどね』
ぜんぜん私の方を見てくれない。
歩夢は黙ったまま窓の外を眺めていた。
あんなに懐いてくれていたのに。一回しか見舞いに行かなかったから拗ねているのだろうか。私の気を引くためにわざと素っ気ない態度をとっているのか。
歩夢の横顔は寂しそうで儚げで、その目には世界のなにも映していないようだった。まるで空っぽの玩具箱を覗いているみたい。
『先輩』
『ん?』
『わたしたち、もう終わりにしよう』
窓を吹き抜けてくる風の音が耳に囁く。
歩夢はこちらを真っすぐ見て私の言葉を待っている。本当にその目にはなにも映していないようだった。誰に向かって放たれた言葉なのかわからなくて、私は黙り込んでしまった。
終わりにする? なにを? 私たちの関係を? なんで? いきなりどうして。やっぱり拗ねてるの? 私があまり会いにいかなかったこと、怒ってるの?
『お母さんに泣かれたの』
歩夢が自傷行為をしていたことは警察の捜査でわかった。それはまず両親に報告され、確証を得るために歩夢に話された。歩夢は素直に認めた。自殺未遂でなかったことに安堵しつつも新たな心配がうまれた。どうして自傷行為をしたのか。行為が続くようならと、歩夢は精神病院へ移った。
私が会いに行ったときは既に自傷行為の療養中だったのだ。歩夢のお母さんは私に見舞いに来て、会いに来てとわざわざ電話までくれた。病院で会ったときはなにも訊かないでいてくれたけど、すべて事情は知っていたということだろうか。そんな中で歩夢は変わらない調子で私にいっしょに飛び降りようと提案した。
『じゃあ、なんであのときあんなこと』
『先輩ならいっしょに飛び降りてくれると思ったの。それで最後にするつもりだった。けど、お母さんが夜になると、泣いているの。知ってるの。化粧で隠してたけど、毎日、病室に来るお母さんの目は赤く腫れてた』
正気に戻った。自分はいったいなにをしていたんだろうって。自分を傷つけて、死にそうになって、親を泣かせて、わたしはなにがしたかったんだろう。悪い夢をみていた。間違ったことをした。これからは普通にまともに生きる。そう決めたの。
『だから、先輩とは終わりにしたい』
自傷行為と私は無関係ではなくとも、深く関わっていたわけではない。自傷行為を始めたのもエスカレートさせたのも全部、自分じゃん。なのに、なんで私たちの関係まで終わりにしないといけないの。自傷行為をやめればいいだけじゃないの。
『先輩、もう卒業じゃないですか。このままわたしと続けていたいんですか』
冗談ですよねと歩夢は笑った。なにが冗談なのかこっちが訊きたい。その笑いはなに。なんで私が見ると、すぐに目を逸らすの。どうして顔を向けてくれないの。
『わたしたちの関係って普通じゃない、じゃないですか』
普通じゃないって、付き合う前に訊いた。女の子同士でもいいのかと。歩夢はそれでも私がいいと言ってくれたのだ。普通じゃなくても、私といることを選んでくれたのに、なんで今さらそんなことを言うのか。
『やっぱり女の子が好きなんておかしいですよね?』
おかしい? どこが? 誰かを好きになっていっしょにいることのどこがおかしいのだろう。自分は女の子なのに先に女の子を好きになったのは歩夢の方だろ。それをおかしいって歩夢が言ったら、今までの時間はなんだったんだ。歩夢と好き合って、触れてひとつになったこともすべて悪い夢だったって、なかったことにしちゃうの。
『や、やだ。先輩もしかして本気にしてたんですか。そんなわけないですよね。たかが中学生の恋愛なんておままごとみたいなもの』
笑っている。悔しい。私だけが好きで、私だけがふたりの未来を望んでいた。好きだと告げてきたのはそっちが先なのに。惨めで情けなくて恥ずかしかった。私の気持ちをおままごと言った彼女だけはどうしても赦せなかった。確かにあのとき、あの瞬間私たちは愛し合っていた。嘘も遊びもなくて、きちんと恋愛をしていたんだ。でも、すべてあの子の中ではなかったことにされている。戯言と同じ。中学生という多感な時期に興味本位で行った遊びだった。
泣きそうになるのを我慢して歯を食いしばった。俯いた顔を上げられない。
『ね? 終わりでいいですよね』
もう彼女の言葉を聞きたくなくて私は歩夢の家を逃げるように出た。
全速力で走って、自宅につくと自室にこもった。ベッドに倒れ込んで顔を埋める。流れていたのは汗だけじゃなかった。真っ暗な部屋に嗚咽が漏れる。
その夜、涙が止まることはなかった。
それから私は心に残った傷痕に蓋をして、歩夢と共有した時間を無理やり忘れた。もう恋なんてしたくない。二度と他人からの好意を受けたりはしない。そう心に強く誓った。
《やっぱり女の子が好きなんておかしいですよね?》
女の子を好きになったことなんて一度しかない。もう好きになることなんてない。私が好きになったのはあの子が私を好きだと伝えてくれたから。特別を教えてくれたから。それに応えたいと思った。あの子が私に与えてくれたように同じものをあの子に与えたいと強く願った。それすらもなかったことにして、すべて燃やして灰になって冷たく乾いた風がどこか遠くへ運んでいってしまった。あの子との思い出は全部が夢物語だった。都合のいいように私が創っていた妄想だったのだ。
こうして私は高校生になった。
感情は表に出さないようにした。私の気持ちを伝えたところでいいことはないから。また傷つくくらいなら誰とも仲良くなんかならない。独りでいい。孤独なんて慣れてしまえば、どうってことない。
入学式の日、初日のホームルームが終わって教室から出ようとしたときだった。
『渡辺さん』
音色みたいに鼓膜に届く声。自己紹介したばかりではあるけれど、すぐに人の名前を覚えられるのはすごい。
振り向くと、クラスメイトの女子生徒がそこにいた。幼さの残る童顔で私よりも背の低い、スカートを履いた女の子という生き物。
『桜の花びら、ついてるよ』
柔らかく微笑んで彼女は私の前髪を指さした。そのまま手を伸ばして優しく触れてくる。花びらを掴むと、はい、取れたとまた笑顔になる。
『窓際だと桜入ってくるよね。わかる、私もさっき花びらついてるって言われたんだ』
鼓動が高鳴る。女の子に触れられた。指先が冷えた柔らかい独特な感触。触れていた時間はほんの一瞬だったのに感覚がまだ髪の毛に残っている。甘い空気。見入ってしまう笑顔。女の子という生き物は残酷だった。
『あ、ありがと』
消え入るような声で礼を言うと、花びらが舞う笑顔で彼女は頷いて背中を向けた。
二度と好きにならないと思っていた。絶対に恋なんてしないと決めたはずだった。なのに、女の子に触れられただけでこんなにも頬が熱い。胸の傷痕が鈍く疼いた。
ああ、もうどうしようもない。
意識せざるをえない。
頭で忘れようとしても心がいうことを聞かない。
女の子に触れられる感覚を、女の子と話す躍動を、女の子を想う熱を、忘れられるわけがなかった。なかったことにできるわけがなかった。そんなことが簡単にできたら、私はあの子をあんなに好きになっていない。
女の子を知ってしまった私は女の子を知る前の私にはもう戻れなかった。
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