三話 特別
女の子が好きだということを隠したのは《あの子》と別れたことがきっかけだった。
中学時代に所属していた陸上部では高校生の今よりも交友関係は人並みにあった。
特別なにかができるわけでもない。体育の成績は内容によって上下したけれど、大抵真ん中くらい。ゲームの好きなキャラが陸上部だったから軽い気持ちで走り始めた。
無我夢中で走り続けていたら、結果がついてきた。正直、自分がここまで走れるとは思わなかった。走ることが少しだけ好きになった。それでも、途中でやめてもいいように専門種目は個人種目だけに絞っていた。
日々は過ぎて三年が引退したと思ったら、いつの間にか卒業して私は最上級生になっていた。その年最初の大会で自己ベストを更新し、人数が足りないからという理由で二年から参加していた団体リレーでは一位を取った。
それから数日経ち、練習を終えていつものように部室で着替えていたときだった。最後まで残って走っていたから他には誰もいない、はずだった。
きいぃと部室の扉を開く音がして振り向く。後輩の二年生、
『藤先輩、お、お疲れさまですっ』
彼女はぎこちない挨拶をして、部室へと足を踏み入れた。きちんと扉を閉めて、ゆっくりと私が座るベンチまで近づいてくる。そして、私の目の前で足を止めた。
なにも言わない。
『どうしたの』
砂野はぎくりと肩を震わせて、俯いたまま口を開いた。
『藤先輩に、は、話があって……』
言い淀んで目を泳がせる。
言いたいことがあるならさっさと言えばいい。普段はもっと普通に話してくれる。そういえば、さっきから砂野の様子がおかしい。なんか、すごいそわそわしている。
『着替えながら聞いていい?』
砂野は顔を上げて真っすぐに私を見た。そして、すぐに逸らす。
『えっ、あ、はい。着替え、終わるまで待ってます』
落ち着かないな。かなり緊張してるみたい。触れただけで爆発しそう。別に着替えながらでも聞くのに。もしかしてそんな軽い話じゃないのか。
ふと横目で砂野を盗み見た。
ポニーテールに束ねた黒い髪。細い首筋に伝う汗、きちんと結ばれた胸のリボン。スカートには不自然な折り目の跡がついていた。どこに置いてきたか知らないけれど、スクールバッグも部活着が入ったエナメルバッグもない。
『いいよ、話しても』
ロッカーの方を向いていた身体を砂野へ向けて、彼女を見上げた。
『え、でも、着替えが』
『先に話聞く。待っててくれたんでしょ?』
砂野の瞳が揺らぐ。何かを耐えるように歯を食いしばっていた。そして、震える声を精いっぱい絞り出す。
『藤先輩のことが好きです』
痙攣するみたいに震える手を必死に隠そうと両方の手はぎゅっと握られていた。
『わたしと付き合ってください』
声を聴いただけでどれだけ緊張しているかがわかる。
赤面しながら泣きそうになっている彼女を見て、砂野が耐えているのは私へ気持ちを伝える恥ずかしさではなく、拒絶される恐怖なのだと気がついた。
『私は女だよ?』
答えはわかっていたのに意地悪な訊き方をした。きっと確かめたかったのだ。
『わかってます。藤先輩がいいんです。藤先輩じゃないとダメなんですっ』
砂野の口から砂野の言葉で聞きたかった。自分が本当に選ばれていることを。根拠を。確証を得たかった。
『ダメですか……?』
砂野の表情が絶望の色に染まっていく。
女の子に告白されたことは何回かあった。
今まではみんなどこか諦めていて、ダメ元で告白してみたって感じで、受けいれられたらラッキーみたいな、薄っぺらいものだった。けれど、断ったら断ったで彼女たちは一生分の涙を流しているのではと思うくらい号泣した。
不謹慎にも私は、深く傷ついて流れる、彼女たちを濡らした涙がこれ以上になく美しいと感じてしまった。
もしかしたら、諦めた自分を心のどこかに置いておかないと平常心ではいられなかったのかもしれない。
砂野を見ていたら、そう思えた。
『いいよ、付き合おう』
『ほ、ほんとですか?』
告白してきたのは砂野なのに疑い深く訊いてくる。
『うん、よろしく』
私が笑ってみせると、砂野は心の底から安堵してへにゃあと普段は見せないような笑顔を浮かべた。
特別ってそういうこと?
私は人を好きになったことなんてないから特別がどういうものなのか知らない。砂野を見ていると、特別がどういうものなのかわかる気がした。
『……そ、それで、一緒に帰ってもいいですか?』
遠慮がちに言われて、思わず吹き出した。
『なんで笑うんですか?』
不思議そうに尋ねられる。
だって、自主練のない日はいつも一緒に帰ってるじゃん。今更、改まって言わなくても。
特別ってくすぐったい。
笑いすぎたせいか、笑わないでくださいと、ふくれっ面で駆け寄ってきた砂野の手を掴んだ。小さくびくっと反応したが、砂野の手は私の手に握られたままだ。指の隙間に自分の指を入れて指と指を絡ませる。
見上げると、砂野はこれ以上見ていられないとばかりに目を瞑り、私に告白したときよりも赤面していた。ポニーテールのおかげで耳まで真っ赤に染まっている光景を見つけてしまう。
人は恥ずかしいとこんなにも色鮮やかに染まってしまうものなのか。不覚にも目を奪われた。綺麗だと思った。愛おしいと感じた。
泣いている女の子を見て同じように感じることはあったが、それとはまた違っていて、赤面した女の子、あの瞬間だけのものがあった。泣いている女の子を綺麗だと感じても、それで終わりなのだ。その先がない。けれど、あの瞬間に感じた想いは綺麗の先に一瞬だけ赤黒いものがみえた。胸の奥深くがざわついた。私自身も知らない何かが蠢いているような感覚だ。想いというよりも、どうしようもなく求めてしまう、欲求が溢れた衝動そのものだった。
初めて女の子に告白されたときは女の子が好きだなんて変なのと思った。よく告白する気になれたなって、相手の気持ちが理解できなかった。だから断った。次も、その次も。どんなに好きだと言われても、一緒にいたいと願われても、特別だと選ばれても実感がわかなくて、嬉しくもなくて、ただただ疑問だけが残った。
どうして女の子なのか。
どうして私なのか。
どうして渡辺藤なのか。
彼女たちの気を惹く何かがある。
付き合っても日常が変わるわけでもなく、休み時間に会えば他愛ない話をして、部活が終われば一緒に下校した。どこかへ寄り道することもなく、休日二人で出かけることもなかった。
何もないまま一ヶ月が過ぎた。いつものように最後まで残って自主練をして、部室で着替えていたときだった。砂野と残って走り込んでいたから、部室には彼女とふたりきりだ。
『藤先輩』
強ばった声で呼ばれて私は振り向いた。砂野は部活着を着たまま俯いていた。服の裾を両手でぎゅっと握って砂野は告げる。
『キスしてもいいですかっ』
咄嗟のことでどう返せばいいのか分からなかった。
砂野は大人しい子で私と一緒にいられれば充分というふうに見えたから、そういうことはしなくてもいいと思っていた。けれど、考えてみれば砂野は他の女の子と同様に同性である渡辺藤に惹かれ、告白までしてきた女の子だ。砂野とはいえ、好意を抱いている相手となれば、触れたいと思うことはおかしくない。
何も言わないでいると、砂野は顔を上げて心配そうに私を見つめてくる。すぐにハッとして目を逸らした。
『そ、そうですよね。さすがに嫌ですよね。すいません、忘れてください』
早口で言い、彼女はくるっと背中を向けて着替えはじめた。
私は無言で砂野の後ろ姿を眺める。
部活着を脱ぐと、白いスポーツブラが露になった。中学生ならみんなそうか。
告白とかキスとか砂野の大胆で積極的なところを知ったせいか、変に期待してホック付きのブラをしているのではと見入ってしまった。
砂野がセーラー服に袖を通して、肩甲骨の筋が浮かんだ背中は隠れてしまい、いまだ残る幼さといっしょに女の子の膨らみを包んだスポーツブラともお別れである。
『先輩、まだ着替えてないんですか』
ぼーっとしていて、着替えるのを忘れていた。まあ、砂野の着替えを見ていただけなんだけど、それは言わないでおいた。
『いいよ』
『え』
砂野の顔を真っすぐに見ると、私は言った。
『キスしても』
ぽかんと口を開け、砂野は間抜け顔になるが、すぐに我に返って頬を真紅に染めると期待に目を輝かせた。
『いいんですか?』
じれったい。
何も言わずに私は砂野をぐっと引き寄せて唇を重ねた。
それが初めてのキスだった。唇が潤っていて柔らかい。滑らかな感触。甘い蜂蜜の香りが濃く鼻孔をくすぐった。
もしかしてキスしたいって言ったとき、砂野はわざわざリップを塗りなおしたのだろうか。だとしたら、なんだか胸のあたりがぎゅうっと締めつけられた。砂野を抱きしめたくなる。砂野のリップと同じ蜂蜜に染まったほんのり温かくて、優しい気持ち。この感情はなんだろうな。他人へ抱く感情とは思えないくらい儚くて、大事なもの。
気持ちの正体はわからないけれど、この先もずっと大切にしたいと強く思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます