二話 理由
「ふ~ちゃん」
私より頭一つ分ほど小さい夏目を見下ろして、薄桃色の唇に触れた。ふんわりローズの香りがした。夏目がいつも塗っているリップの匂いだ。
夏目がまた話しかけてくるようになったのは二年生の初夏だった。クラスメイトから花火が探していたと伝言を受け、中庭に訪れたときだった。待っていたのは花火ではなく夏目だった。
一瞬、息が止まった。
『よかった、来てくれて。わたしの名前だと来てくれないと思ったの』
なんだそれ。
花火じゃなかった。夏目だった。もう顔もみたくなかった。声も聴かなくていいと思っていた。解放されたと思ったのに夏目の姿を見た途端に予期した。本当の地獄はこれからだと。
『
血の気が引いた。身体が硬直する。
なんで夏目がそんなこと知ってんの? どこで知った? 誰から聞いた?
それはあの日から誰にも言わずに隠してきた私の秘密だ。他人とは違う、女でありながら同性の女の子が好き。恋愛対象が男ではなく、女の子なのだ。どうすることもできない、そうなってしまった、他人と違う私の歪んだ部分。普通じゃない、おかしいところ。
『どうして女の子なの? 男の子みたいな見た目だけど、渡辺さんはやっぱり女の子よ』
夏目が私の頬に触れた。彼女の掌は夏でもひんやりと冷たかった。嫌だった。触れられたくなかった。
吐きそう。胃がぐるぐるする。嫌だ。怖い。
『だって、ほら。渡辺さんて綺麗な顔してるもん。髪を伸ばしたらきっと美人になる』
思わず私は夏目の腕を払った。夏目は驚いた顔をして私を見つめている。
『どうしたの? わたしは渡辺さんの好きな女の子よ?』
好き? なに言ってんの? 誰がいつあんたのことを好きって言った? 避けてたこと気づかなかった? 花火の名前使ってまで呼び出したんだから、嫌われていることは自覚しているはずでしょ。さっきも自分で夏目の名前を出したら、私は来ないと思ったって言ってたじゃん。それなのにどうして私がお前を好きってことになるの。女の子だったら無条件でみんな好きになるとでも思ってたの?
『でも、やっぱり女の子なのに女の子が好きなんておかしいよ』
意識がぐらりと揺れた。
《やっぱり女の子が好きなんておかしいですよね?》
息ができない。苦しい。
閉じこめたはずの記憶の欠片が浮きでた。
なんでそんなこと言うの。今までの時間はなんだったの。好きと告げたあの言葉まで否定するの。
胸が張り裂けそうだ。心臓の鼓動が速い。頭が破裂しそう。
苦しい、苦しいよ。
感覚すべてが苦痛に襲われて私は膝をついた。
『……本当に女の子が好きなんだね』
見上げた先で夏目が冷たい目で私を見下ろしていた。侮蔑と同情と嫌悪の視線。奇異なものを見るような大きな黒目で私を見つめていた。
無言の暴力を受けたみたいに私は目を逸らした。
『気持ち悪い人』
頭上から言い捨てられた冷酷な言葉。異常だと牽制し、拒絶を示していた。
ああ、手に力が入らない。なにも言い返せない。抗うこともできない。どんどん息が荒くなっていく。呼吸もままならなくなって、意識が朦朧としてくる。
『わたな――』
ぷつんと糸は途切れた。
無音の暗闇から徐々に身体の感覚が戻ってくる。瞼を開けると、薄く白んだ水色の空が覗いた。ふわふわと雲が浮かんでいて優しい風を感じた。
『やっと目が覚めたのね』
傍には夏目が座っていた。片手でスマホを弄っている。
そっか、夏目と話している途中で意識が……。
正直、夏目は私なんて放っておいて教室に戻っていると思っていた。
『やっぱり変よ。女の子が好きだなんて』
スマホをスカートのポケットにしまい込んで夏目は呟いた。
さっきはあんなに息苦しくなったのに今は呼吸が穏やかだった。身体のあちこちが悲鳴を上げていたのになんにも感じない。意識が戻ったばかりで頭がぼんやりしているせいかもしれない。
ねぇ、と夏目が頭に覆いかぶさってきた。黒みの濃い紺の髪が頬にかかってかゆい。彼女の顔が逆さに映る。大きな黒目と目が合っても平気だった。
どうしたんだろう、本当に。
私の身体は感覚器官がやられたみたいに夏目に反応せず、横たわっている。心が麻痺してしまったのだろうか。
『わたし、彼氏と別れたの』
『は?』
心の声がそのまま口から出た。唐突すぎて一瞬、夏目がなにを言っているのか理解できなかった。
『わたしは別れたくないって言ったんだけど、これ以上は無理って振られたの』
宇宙人と話しているみたいだ。解読不可な記号ばかりを脳内へ送られて、一方的に信号を押しつけられている。
『でもわたし、誰かに愛されないとダメなの。どうしても生きてることがつらくなっちゃう』
本当になにを言っているのかわからない。
無言で見つめていると、夏目は静かに顔を近づけて私の唇に口づけを落とした。
頭の中が真っ白になったのと同時に反射で夏目を押しのけ、上半身を起こす。夏目が触れた唇を指でなぞった。
そっと触れるだけのキス。時を止めた刹那の感触。柔らかい薄桃色と仄かに香ったローズの匂い。
『渡辺さん、……ううん、
『わたしを愛して』
縋るように彼女はそう言った。
元カレの代わりに私が夏目に愛を注げということだろうか。無理だ。そんなことできない。顔もみたくないほど嫌いな相手にキスまでされて、更に愛情を捧げなければいけないのか。なんの冗談だ。
しかも、なんで私がそんなことをしないといけない? 他に愛してくれる男を探せばいいじゃないか。例え、私が愛したところでそれは偽りにすぎないのに。
『む――』
『断ったらクラスのみんなに藤ちゃんは女の子が好きだってバラすから』
え、ちょ、バラすって。
『藤ちゃんが中学の時に同じ部活の女の子と付き合ってこっぴどく振られて、それがトラウマになって女の子が好きだって隠してるの、全部知ってんだから』
『ど、どうしてそれを』
おかしい。同じ中学ですらない夏目がそんなことまで知っているなんて、誰かから聞かないと得られない情報だ。当時のことを知っているのは中学時代の陸上部でもほんの二、三人しかいない。それに、同じ中学出身の奴なんていなかった。いないはずだ。誰もいない学校を選んで進学したのだから。
『
私は素直に首肯した。
飛鷹は陸上部だった頃の一つ下の学年の後輩だった。愛想がよく誰とでも等しく仲良くしていた。親しみやすさは花火と少し似ている。
『その子、今年の一年なの』
『えっ』
まさか同じ高校へ進学しているとは思わなかった。飛鷹が全部、夏目に話したということだろうか。
でも、なんで飛鷹が? 《あの子》とのことを知ってたのか?
信じられない。仮に知っていたとしても、安易に人の過去を口にするような人間にはみえなかった。ましてや、それを誰かに話すなんて想像もつかない。
夏目は飛鷹と委員会で知り合った。私の話をしたら、飛鷹も同じ中学だということを教えてもらったらしい。
『藤ちゃんに拒否権はないの。女の子が好きだってことバラされたくなかったらわたしを愛して』
拒むことは許されない。私が抵抗したところで夏目の弱みを握っているわけじゃないし、無駄な足掻きだろう。夏目が花火の名前を使ってまで呼び出したのはこれが目的だった。私を脅して自分の意のままに操る。夏目は都合のいい人形が欲しかったのだ。
『なんで私? 気持ち悪いんじゃなかったの』
『気持ち悪いわよ』
言葉が鋭い刃物になって胸に突き刺さった。麻痺していた心が感覚を取り戻したようだ。胸が痛い。
『でも、藤ちゃんじゃなきゃいけないの。わたしが藤ちゃんの弱みを握っている限り、あなたはわたしから離れたりしないでしょ。突然、別れを告げられることもない。ずっと傍にいてくれる』
夏目は愛に飢えていた。自分を一番に、自分だけを愛してくれる存在が必要だった。彼女は自分を愛する存在がいないことを弱みと思い込んでいるようで、それだけで他人よりも劣っていると感じる。
表面上では常に誰かに愛されている自分を演じていた。彼氏と別れたばかりで周りの人間は夏目に気をつかっていた。自分を可哀相だと憐れむ視線が屈辱で堪らなかった。だけど、それももう終わる。
私との関係が始まった直後だった。夏目は他校に新しい彼氏ができたと公言していた。
「もっと」
求めるような、せがむような瞳に見上げられて私はまた瞼を閉じた。
何度か軽いキスをして夏目から離れようとしたときだった。夏目がそうはさせまいと唇を重ねて舌を入れてくる。私の舌を舐めたかと思えば、強引に吸いついては弄んでまたいやらしく舐めた。これだけでは足りない、より激しく濃厚なもので満たしてほしいと訴えかけているみたいだった。
耳には衝動を煽るようにリップ音が聴こえる。
相手をしている私がいうのもなんだが、こんなことをして疲れないのかとたまに思う。夏目は愛されないと毎日を生きられないと言っていた。だから、ずっと傍にいて、離れないで、夏目だけを愛する存在が必要なのだと薄桃色の唇は動いていた。
去年の夏から関係は続いて今年の春、もうすぐ一年が経とうとしている。案の定、もうすぐ他校にいる彼氏と一周年記念なのと夏目は笑顔で言いふらしていた。同じように喜んでくれる人、祝福してくれる人、羨ましがる人、全員を騙している。それでも夏目が望む自分を演じているのなら別にいい。変に揺さぶられて秘密の暴露を心配することもない。ただ、去年よりも日に日に生きづらそうになっていく夏目を見て、この関係が夏目自身の首を絞めている気がした。かといって、私からもうやめようとは言えない。夏目が自分の弱みを隠そうと必死なように私も自分の秘密を守るのに必死なのだ。
夏目が離れ、唾液で濡れた唇を舌なめずりする。彼女はしてやったりという笑みを浮かべていた。舌を入れると、キスしている時間が伸びる。私も舌を使わないといけなくなるので、いつもよりも夏目は悦びを感じられるのだ。
偽りの愛でも夏目は蕩けた瞳で私を見つめ、柔肌の頬は深紅の熱に侵されていた。
女の子が好きなんて気持ち悪い。私を蔑んだあの日の夏目に今の自分の顔を見せてやりたい。女の子とキスをしてこんなに欲情した表情をしている。あの日と同じことが今でも言えるのか。
複数の赤黒い塊が風船のように浮遊する。交錯するように蠢いて、次々と破裂し、赤く広がっていく。中心部は真っ黒のままで大きな黒目を思い出させた。嫌いだ。くすぶっていた衝動がざわついた。真っ黒で見透かしたような大きい瞳。闇の向こうへ連れ去られてしまいそうだ。長く深く見つめていると、後戻りできない焦燥に襲われる。私を呪縛する真っ黒な瞳孔がどんなときも私を捉えている。
吐き気がした。
いっそうのこと目玉を二つともくりぬいて、えぐって、ぐちゃぐちゃに踏みつぶして、二度と治らないようにしてしまおうか。なにも見えなくしてしまえば、なにも映らなくしてしまえば、夏目は楽になるのではないか。私は夏目という魔ものから解放されるのではないか。
そして、ぷっくり膨らんだ薄桃色の唇も縫いあわせてしまおう。一針一針、丁寧に隙間なくぎゅっと間隔をつめて、きつく、硬く。唇と同じ薄桃色の糸がいいよね。自分ではどうにもできないように、唇を動かして言葉を発せられないようにすれば、夏目に縛られなくていい。平穏な日常に戻れる。毎日、秘密をバラされる心配もしなくていいのだ。
だって話せないのだから。
「夏目」
ほんの僅かに首を傾げて、夏目はじっと私を見つめていた。
次はどんなふうに愛してくれるの? もっと激しくしてほしい。これくらいじゃ満足できない。これ以上にもっと、もっと、もっと。そう訴えているようだった。
夏目の目玉をえぐり取ろうと指先を瞼に重ねる。夏目の目が大きく見開かれて、好都合だった。このまま一気に大きな黒目を奪い取ってしまえば、もう苦労しなくて済む。夏目の友人を演じながら、夏目の相手をしなくてよくなる。
「ふ~ちゃ――」
蕩けた表情は恍惚から青ざめて恐怖の色へ変わっていく。逃げればいいのに身体が動かないようだった。細く綺麗な指を揃えた手が震えていた。
可哀相なんて言葉は似合わない。憐れみも必要ない。これが最善なの。むしろ嬉しいでしょ。夏目が私に望んだように愛してあげているのだから。
奪い取った目玉はどうしてくれようか。やはりぐちゃぐちゃに踏みつぶすのが無難だろうか。転がしてみて余興に浸るのもいい。ちぎれた毛細血管をくっつけなおすも可。もう一度穴に戻して目玉を動かしてみようか。悩むなぁ。どれが一番気持ちよくて、悦びを感じられるんだろう。
どんな末路だったら、夏目は楽になれる? 目玉ごと思いきり穴に入ったまま潰す?
最期だから今までで最高の絶頂を味わらせてあげたい。目玉を失くして、唇も塞がる。もう嘘をついてどうでもいい誰かを騙さなくていいんだよ。夏目はありのままの自分でこれからを生きていける。
「ねぇ、夏目はどんなふうにしてめだ……ま、を」
湿った黒目。雫。流れる。濡れた頬。涙がぽたぽたと落ちて部室の床に小さな水たまりをつくっていた。
やめた。
夏目から離れる。同情じゃない。冷めた。怯えきった夏目の目玉をくりぬきたかったのではない。高揚とした幸せな状態で目玉を一気に潰したかったのだ。今の夏目じゃ目玉を潰したところで、彼女は楽にならないし、私もきっと解放されない。
恐怖を感じているとき、黒目に映っているのは恐怖対象の姿だ。目として当たり前の機能が使われている。目玉を潰す意味がなくなってしまう。幸福を感じたときの、誰でもないなにかその先を見据えたような、夏目にしか見えない世界を黒目に映したときでないとダメなのだ。他人を騙し、自分の弱みを隠して、気持ち悪いと告げた相手とキスをした。夏目の首を絞めている根源を断つためにも、あの黒目でないといけないのだ。
夏目がへたへたと力なく座り込んだ。状況が理解できず、ただただ水を流すだけの機械になってしまった。スカートに涙のシミがうまれていく。
そんなに怖かったのだろうか。目玉をくりぬくくらい雑作もないことだ。すぐに終わる。一瞬だ。この痛みは苦痛ではなく快感なのだ。きっと、そう。これは暴力じゃない。夏目を傷つけたいのではなくて、楽にしてあげたいのだ。
私もしゃがみこんで、夏目と正面から向き合う。
「……殺意を感じたわ」
掠れた声で夏目は囁いた。
ふ~ちゃんの目がわたしをじっと見てたの。わたしの目をじっと見つめてたの。美味しそう。遊びたい。壊したい。潰したい。いろんな感情が瞳をとおして流れ込んで、とても怖かった。怖かったの。ふ~ちゃんが人間じゃないみたい。得体のしれないもののようだった。カタコトながらも夏目はそう言った。
殺意なんてひと欠片もなかった。夏目を殺したいなんて考えたこともない。目玉をくりぬくだけなのに怖がっている意味がわからない。泣くほどのものなのか。本当に夏目を楽にしてあげたい。そうしたら、私も解放されるから。どうして愛されている、ではなくて怖いなんて感じるのだろう。
遠くで予鈴が鳴った。
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