アカシグレ

衣瀬有

第一章 傷痕に重なる 渡辺藤

第一話 呪縛

 挨拶運動の声が登校時のBGM。といっても聴こえるのは坂を上りきって脇道を曲がったところから校門を遠ざかり昇降口へ入る短い間だけだ。挨拶運動はどっかの委員会とその顧問の教師が担当している。

朝早くからあんな大声よく出せるな。

 昇降口には他の生徒たちもいた。登校してくる時刻はまばらだが、八時十五分前後に一気に人が流れ込んでくる。私は早々に外履きから内履きに履き替えて階段の踊り場へ向かった。

 スカートを翻して女子生徒が駆けていく。もう一人の女子生徒が後を追いかけてふたりで笑いながら廊下の向こうへ消えていった。

誰だか知らないし、見覚えがあるわけでもない。意図して視線を動かしてもいないのに瞳孔は憑りつかれたように彼女たちを目で追ってしまう。女の子というだけで関心が芽生え、興味の対象となる。

 後ろからは話し声が聴こえる。響くような調子の高音と倦怠感を思わせる低音の会話。二つの声の間に時折、高くもなく低くもない中性的な声も混ざっていた。

 声音はひとりひとり違うのにみんな女の子。見なくたってわかる。男よりも声の質、調子、根本的なところが違う。女みたいな声の男もいるけど、やっぱり違う。男みたいな声の女もいるけど、どうしたって男との違いがわかってしまう。女の子の声はなんの躊躇いもなく、滑らかに私の鼓膜を震わせるのだ。

 一階女子トイレの前を通りすぎようとしたら、女子生徒の群れが現れた。ぞろぞろと蟻の行列みたいにきちんと並んで、でも誰かの隣はキープしてグループでいても自分だけ浮かないようにしている。後ろを必死についていく女の子がいた。五人組だから奇数で一人だけ最後尾になってしまい、四人の後に続いている。

 独りにならないために無理してくっついているみたいで痛々しく感じた。そんな繋がりにさえ、しがみつかないとダメなのだろうか。しがみつく前に離れてしまった私にはわからない。

 弱いものは群れて行動する。誰かが言っていた。女は自分が弱い生き物だと生まれたときから本能で知っている。だから、群れて行動して常に安全で安心できる居場所をつくる。弱いことを隠しながら自分の周りを同じ人間で囲んで生きている。独りだと思われないために。弱い存在だとわらわれないために。

 なんだろう。弱いってなに。身体のこと? 精神のこと? それとも人間にしかないなにか? 男よりも欠落しているということだろうか。独りじゃダメなの?

 弱いということが他人との違いなのだとしたら、女は生まれながらにして自分は他人とは違うことを自覚していることになる。違いを自覚しているからこそ同じでありたいと群れるのだろうか。他人とは相容れない自分をあえて違う他人で塗りつぶすのだろうか。

 女の子って不思議だ。ひとりでいたい。独りは嫌だ。みんなと同じがいい。少し違うだけで異物みたいな扱い。けれど、胸の内では自分は周りと違う。自分だけが特別だと声高々に主張しているのだろう。

 どうして女の子はこんなにも矛盾した生き物なのか。

 どんなに考えてもいつも答えがみつからない。正解が思い浮かばない。本当は解答なんてないのかもしれない。それでも私はそうだと言い切れるものが欲しい。根拠が必要なのだ。ずっと終わりがみえないのは地獄だから。考えたいわけでもないのに女について考えてしまう。性別なんてどうだっていいのに気になってしまう。自分でもどうしてそうなってしまうのか、そうなってしまったのかわからない。だから、答えさえ見つかれば、永遠とした思考のループから抜け出せる気がした。


 三年の教室は二階にある。階段を上って、踊り場にある学年掲示板を眺めた。一年生の頃からやっているこの行動も習慣になっていた。

 学年の教室がある階ごとに階段の踊り場には学年掲示板が設置されている。そこには教科ごとの知らせや期末考査の範囲、学年ニュース等々が掲示されている。登校してきたら、まずは掲示板を見る。それから教室へ行く。これらの習慣をつけなさいと、入学当初から口を酸っぱくして言われていた。だが、徹底している生徒は少ない。

 右下の端っこに数学の知らせを見つけた。

 《四月の総まとめテストの予定。三年C組、四月二十五日(水)》

 あれ、今日って何日?

 スマホを取り出して日づけを確認する。二十五日(水)と表示されていた。

 忘れていた。今日は水曜日。夏目なつめの日だ。

 夏目は二つ隣りのE組の生徒だ。文芸部の女の子。数学のテストよりも優先しないといけない人。特別親しいわけではないのにたった一言で私に傷をつけ、私の秘密を知り、私を脅して利用している女である。

 夏目の呪いは毎週水曜日の朝休みと決まっている。彼女が所属する文芸部の部室で呪いを受けるため、文芸部の活動日である水曜日しか部室の貸し出しができないのだ。

夏目が文芸部の部室にしようと言った。校舎内で夏目がリラックスできる場所、強気でいられる環境が慣れ親しんだ文芸部の部室だった。他人に邪魔されず、見つからずに夏目の心に巣くう魔ものが自由に行動できる。私よりも圧倒的な立場にいるための結界が張られた空間なのだ。

 バックレることもできる。呪いに耐えられなくて、過去に一度私は夏目から逃げた。時季は二年の冬で夏目の玩具になってから約半年経った頃だ。逃げたことで私の秘密がクラスメイトに暴露されかけた。嵌められただけなのだが、夏目が妙に含んだ言い方をするから、当時は本当に秘密を言いふらされたと思い、感じたことのない焦燥とクラスメイトへの疑念が渦巻いた。神経も体力も消耗して、ストレスから身体にも影響が出た。胃が思いきり握りつぶされるような痛みに加え、きりきりとした鋭い痺れに襲われるようになった。

 秘密のことを考えると、脳がこれ以上働きたくないと言わんばかりに細胞が活動停止を告げる。息苦しくなって、立っているのさえやっとで、思考の邪魔をした。学校へ行くのが怖くなり欠席が続いたこともあった。もうあんな目には遭いたくない。

 着信していた夏目からのメールに私は返信だけ済ませて、上ってきた階段を駆け下りた。



 文芸部の部室は教室棟の一階、西側にあり、多目的室と図書室に挟まれている。放課後でもないのに部室は施錠されていなく、扉はあっさりと開いた。何も言わずに私は中へ入り、扉を閉めて鍵をかける。誰も入ってこないように。入ってこられないように。

 夏目とふたりでいるところを他人に見られるのはいい。仲がいい友人だって、私たちは仲良しなんだよ、それだけなんだよっていい訳できるから。私たちの関係を誤魔化せるから。けれど、夏目とふたりで会っているところは誰にも見られたくない。絶対に知られたくない。ふたりで会っているときはいい訳どころか言葉さえ出てこなくて、夏目との関係を合理化できない。私が私自身に自分は間違ってないと断言できない。夏目と私だけが知っている。夏目は当事者。だから、自分だけがおかしいわけではないって安心できる。他人に知られたら、私が醜い秘密を抱えていること、私が間違って生まれてきたまがい物だと私が私自身に言われたとき、否定できなくなってしまう。他人の目という第三者の目撃で私の言い分は簡単にかき消されてしまうのだ。

「遅いよぉ」

 言いながら、ねっとりした話し方で夏目は近づいてきた。粘り気の強い余韻が鼓膜に残る。

「ふ~ちゃん、何してたのよぉ」

 背中に届かない褐色かちいろの髪をおろしている女の子。色素の薄い肌色と吸いこまれそうなほど瞳の大きな目はそれだけで見惚れてしまうほど美しい。

 初めて見たときは綺麗な子だと思った。思っただけ。他意はない。


 夏目とは一年生のときに知り合った――というよりも彼女が私の世界へ勝手に入り込んできた、の方が正しい。

 桜が葉桜に変わって散る頃。じんわりとした蒸し暑さを曖昧に感じている季節の変わり目だった。新しい環境に慣れてきても生徒となる生き物ひとりひとりが新品で少しだけだぼったい学生服という布切れ一枚に自分を隠していた。

 ひとりが好きだった。話しかけてくれば話すし、誘われれば断りもしない。けれど決して自分から動くことはしない。動きたくないから。何かしようとしてすれば、しがらみが増える。最小限の活動範囲なら必要以上にしがらみができることはない。流れに身を任せて、ただ時間が過ぎていくのを待っていた。平穏でなんでもない日々に爆弾を落としたのが夏目だった。

『あなた、空っぽのお人形みたい』

 薄桃色の柔らかくぷっくりした唇がゆっくりと動いた。話したこともない、同じ中学だったわけでもない、ほとんど初対面のクラスメイトにそんなことを言われた。

椎名しいなくんとはよく話してるから、おもしろい人だと思ってたのに』

 勝手に期待して落胆された。気にすることはない。こんなことよくあることだ。

 椎名花火はなびはクラスの中心人物である。誰に対しても気さくで壁を感じさせない男の子。他人にはない親しみやすさから男子も女子もみんな彼に魅かれていく。

 ゲームという共通の趣味を知ってから花火とはよく話すようになった。それをきっかけにクラスメイトたちも話しかけてきた。だが、みんな夏目と同じようなことを言って離れていく。花火といっしょにいるからって、そいつもおもしろいなんて勝手な思い込みをしたのはそっちなのだ。私は悪くない。だから、気にしないでいた。

 いつもどおりのことだ。慣れている。クラスの女子が言った戯言にすぎない。なのに、

『あなた、空っぽのお人形みたい』

 言われた言葉が私の中に真っすぐに落ちて傷痕をつけたままそこに居座っている。どこへいくでもなく、ただただ私の中にいて、私を困惑させた。どうすればいいのかわからなくて対処も処理もできない。

『あなた、空っぽのお人形みたい』

 同じ調子で、同じ声でねっとりした耳に残る声色で、私に告げたときみたいに繰り返し再生された。悪意のない記号が反芻して、頭の中が真っ白になった。

 あれ、何してたっけ。何をするんだっけ。今は。この先は。わからない。わからない。わからない。わからない。

『どうしたの?』

 にんまり笑った、彼女の微笑みは身体を呪術で縛るみたいに私の脳に焼きついた。本当に悪意はないのか。無邪気なのか。意図的にやっているのではと疑念が湧いた。気持ち悪くて、怖くて、吐き気を覚える。

 動けないでいる私を見て、夏目は妖しく笑むと、耳もとでそっと囁いた。

『本当にお人形さんみたい』

 それは私にとって呪いの言葉となった。夏目がねばついたあの声で呪いを口にするとき、その効果が発動する。

 考えた。どうしてあれが呪いになったのか。自分の中に稲妻をみたとき、その原因はなんだったのか。傷痕が残るほど意味のある言葉だったのか。だが、考えようとすると、脳内で再生ボタンが押されて夏目の声で呪いの言葉が流れる。一時停止も停止ボタンも存在しない。何度も何度も同じ言葉が繰り返され、思考できなくなる。

 頭痛がする。痛い。痛い。痛い。痛い。

思考が邪魔されて――あれ、これどこかで感じたことがある。この感覚は知っている。突然の既視感がやってきて、ぱっと小さな光が点った。

 夏目から逃げて、秘密をバラされそうになったときと似ている。あのときも自身の秘密について考えようとした際に思考が阻止された。

 秘密といい、傷痕といい、私は誰にも触れられたくない、自分でも向き合いたくないことに無意識に蓋をして、深い奥底に沈めていたことに気がついた。思考することで沈めたところから強引に引き出そうとしたから、心の矛盾に身体が耐えられなかったのかもしれない。根本的なところと向き合えていないから、傷痕の理由もわからないままなのだ。

 私は考えることをやめた。向き合いたくないと私が思っているなら、それでいい。蓋をすることで忘れられるのなら、このままでいい。

 夏目とは極力関わらないでいた。できるだけ避けて、夏目の声が届かないようにみえない耳栓をした。

 二年生に進級して、クラス替えをしてから夏目との接点はないも同然だった。幸運にもB組とE組でクラス自体も離れている。やっと平穏な日常を取り戻せると思った。張りつめた神経のまま学校生活を送らなくて済む。

 夏目と知り合ってからは真っ白な世界に彼女と私のふたりだけで閉じこめられたみたいに息苦しかった。半径一メートルもない崖に囲まれてふたりで佇んでいる。逃げ場なんてない。すべてを見透かすような黒目で夏目は私をただ見つめているだけ。指先さえ動かせない状況下で気を抜いた瞬間に呪いの言葉を夏目が口にする。そんな居心地の悪い窮屈な世界から私はやっと抜け出せたのだ。

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