エピローグ 3
*
猛が岸の寝室へ行ったとき、画家は小さな絵をながめていた。
リクライニング式のベッドを起こし、物思いにふけるように。
五号か六号の肖像画だ。
身なりのいい女の絵。
着ている服や髪型から言って、ずいぶん昔に描かれたものだ。
「その人が、あなたの愛した人ですか?」
声をかけると、老人は枯れ木のような手で、酸素吸入器をはずそうとした。
「ムリしないでください。うなずくか、首をふるかだけでいいですから」
だが、画家は、はずした。
数十年におよぶ長い願望が遂げられたのだ。みずから話したかったのかもしれない。
「美しい人だろう? 上品で、子どもみたいに澄んだ目だ」
老人の声は、しわがれて、先日、食堂で聞いたときのような鬼気迫るものはなかった。
「おまえさんは、きっと来ると思っとったよ。優秀じゃでな」
「復讐だったんですよね? あなたが愛した人を殺されたからですか?」
老人は少し笑って、猛を見た。
「あんたのおかげだ。もう思い残すことはない」
「やはり、そうでしたか」
「いつ気づいた?」
「あの食堂の絵を見たときです。あの絵はアントリオンの絵だ。闇の底に深く沈んで、エモノが来るのを待ちかまえている。
なのに、あなたは恩人の孫をさがしているという。
あきらかに、むじゅんだった」
「ふむ」
「あんなのは、おれたちをゲームに参加させるための口実にすぎなかった。真の目的は復讐。
だから、更科が、おれたちと同世代だと知ったときには、おどろいた。
あなたのあの絵は、四、五十年前には描かれている。そのとき、すでに、あなたは世界中を敵にまわす決意をした。
あなたが絶望したのは、更科が死んだときじゃない。
はるかに遠い昔。
おそらく、あなたが洋行から帰ってきたときだ。
そのときから、あなたの復讐は始まっていた。
じゃあ、なぜ、探偵のおれが探すのは、更科を自殺させたやつなのか。
あなたの意思と、更科の復讐を願う意思は、別なんじゃないかと考えましたよ」
「野溝には、わしの愛した人の血筋が、優衣だと言っておいたのだがね」
「それは野溝に接近する言いわけでしょう? 本当の目的は別にあった。
いかに愛が深かろうと、愛した人の孫のために、一ダースからの人間を皆殺しにする計画なんて、バカバカしくて、やってられません。あなたほど周到な人なら、なおさらね」
「周到かね?」
「おれを、はめるほどの人だ」
老人は薄く笑う。
「気づいたのか」
「残念ながら、すべて終わったあとでね」
そう。すべてが終わってから。
それが、悔やんでも悔やみきれない。
「あなたは、おれたちのなかに、一人だけ、自分が死ぬ前に、どうしても殺してやりたい男がいた。他のゲストが何人、死んでも、かまわないと思うほど、強く。
五十年前の殺人に、二十代、三十代のおれたちが関与できるはずもないのに。なぜか? 考えて、ぞッとした。あなたは……」
猛は老人の目をのぞきこむ。
「あなたは、根絶やしを狙ってたんだ。ある家系の血筋を、一人残らず、抹殺する。
あなたの愛した人を殺した憎い人間の血を、この世から一滴残らず、消しさってしまいたかった。親兄弟、子、孫、ひ孫ーー全部。そうなんでしょう? 岸さん」
老人は、ゆっくり、うなずいた。
「ようやく念願かなったよ。ありがとう」
「おれは人殺しの手伝いをしたわけじゃない!」
思わず激昂する猛を、老人は優しい目でながめた。
「おまえさんは推理しただけだ。何も悪くない」
「やっぱり、そうか……」
猛は両肩に、どっと重荷が、のしかかったような気がした。
「根絶の最後の一人なら、天涯孤独でなければならない。
でも、おれたちのなかに、そんなやつはいなかった。
いるとしたら、家族の話を聞いたことのない速水だけだ。
あんたは野溝の計画を利用して、元来、正義感の強い速水を、殺人犯に仕立てあげたんだ。
そして、探偵をメンバーに入れることで、速水を追いつめた。
あそこで速水が自殺してなくても、あれだけの人数を殺したんだ。間違いなく極刑になってた。
あんたが死んでも、法の手が裁いてくれた。
あんたは自分の殺人の片棒を、おれに、かつがせたんだ」
「わしが、もう少し若ければ、自分でやったんだが。すまなんだな。あんたに、つらい思いをさせたか。
だが、すべては、わしの罪だ。
おまえさんはただ、人生経験豊富な年寄りの奸計に、はめられたにすぎん。
上には上がおるんじゃよ。探偵さんや。なにも自分を責める必要はない」
「そうじゃない。おれも、あんたと同罪なんだ。あなたにとって、あなたの愛する人は、世界中の人間の命より重かった。
おれも……思った。薫さえ無事なら、ほかのやつらが殺されても、やむをえないと。おれには、あなたを責める資格はない」
「大切なものを持つ人間は、多かれ少なかれ同じじゃよ。わしのように実行してしまう者は少ないにしてもだ」
「………」
「あんたには家族がある。守ってやりなさい。ここで起こったことは、すべて忘れて」
でも、つらかった。
あのとき、決意したのに。
薫のためなら、ほかの誰をも犠牲にすると。
決意したのに、胸が痛かった。
できることなら、誰も死なせたくなかった。
きっと老人も、長い復讐のうちには、胸の痛む瞬間があったはずだ。
猛は、そう思っていたかった。
「あなたは、ようやく、カゲロウになれたんですね。もう砂の底で待ち続けることはない。どうぞ、お体に気をつけて。余生を大事にしてください」
「カゲロウの命は、はかないものと決まっている。だが、カゲロウは、それを不服に思うまい。カゲロウになれた。それだけでよい」
老人の顔は、とても安らかだった。
一礼して、猛は去った。
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