マサチカとキリヤマ

「治験、ですか?」

そう呟いた時のマサチカは相当眉間にシワが寄っていただろう。

「うん、バイトの数が兎に角必要で。健康な成人男性」

目の前にいる男は除菌グッズを作る会社の営業で、仕事柄病院関係者とも親交が深いと言った。

彼はキリヤマと名乗った。

先日カフェで手帳を忘れて行った男だ。

実はマサチカは店員に手帳を預ける前に少しだけ中身を見てしまったのだ。

そしてその内容を見て、もしかしたらこの男から金を引き出せるかもしれない、と馬鹿な事をつい考えてしまった。

時々あのカフェで見掛けるので顔はよく知っていた。

次に会った時に話し掛けられそうだったら話し掛けてみよう、と思っていたのだ。

するとなんと迂闊なのだろう、サークルの後輩と行った居酒屋で泥酔した彼がまた忘れ物をするところに遭遇してしまったのだ。偶然にも。

それは社用の携帯だったが、社名がテプラで貼り付けられていた。なんと優しい。

翌日。

1限の授業がないことを幸いに、マサチカは直接会社まで携帯を届けに行った。

朝、居酒屋の前を通ってコンビニに行こうとしたら道端に落ちていたと嘘をついて。

携帯はロックが掛けられていて中身は見られなかったが、社用の物だ。多分マサチカが欲しい情報はほぼなかっただろう。

そしてキリヤマとキリヤマの上司に頭を下げられた。この社用携帯とキリヤマの処遇がどうなるのかは知らない。

そしてその日の夕方、駅前でキリヤマに声を掛けられた。

余りうるさくない場所で話がしたい、と言われ、個室のある居酒屋に連れていかれる。

俺は貧乏学生なので金無いですよ、と言うと、キリヤマは俺が払うから、とマサチカの腕を引いた。

そして突然、バイトの話を持ちかけられたのだ。

極秘事項の多い治験なので余りおおっぴらに募集が出来ないとキリヤマは言ったが、それなら偶然知り合った通りすがりの大学生なんかに頼むのはおかしい。1番信用出来ない相手ではないか。そう思った。

「………実は先日あなたの手帳届けたのも僕なんですよ」

マサチカは注がれたビールには手をつけずにキリヤマの顔を見る。キリヤマはポーカーフェイスを装っていたが、少しだけ目が泳いだ。

「………中身は見た?」

そう問われ正直に「少しだけ。意味はよくわからなかったけど、あなたが会社員でありながらヤクザと繋がっているのはなんとなくわかりました。××会って有名な暴力団ですよね、一般人でも流石に知ってる」と答えた。

年上のヤクザの息が掛かった社会人相手に命知らずなのはわかっている。

でもマサチカには金が必要なのだ。そして大学の勉強も。

「それならさ、君だけ特別にバイト代を高くしてもいい。相場の治験バイト代に5万円上乗せする。それじゃダメかな」

キリヤマは悪びれずにそう提案してくる。

「………一晩考えさせて貰っても良いですか」

「いいよ。でも多分君は受けると思う」

キリヤマは片側の口角だけ上げて笑った。その目は蛇のようだった。こんな顔の人間、なかなか出会えない。

「君、よくあそこのカフェで勉強してるよね。医療機器についてのレポート書いてるの見たことあるよ」

キリヤマのその言葉に「意外と見られてるものなんだな」と少し驚いた。あちらはあちらでマサチカの正体を漠然と理解はしているようだ。

「もし将来そちらの道に進みたいならうちの関連会社を紹介してもいい。その代償に治験の協力位してくれてもいいんじゃないかな、お金もこちらが出すわけだし」

そして勿論この男の秘密も黙っていなくてはならない。

金と将来の担保を頭の中で計りに掛ける。



ゾンビウイルスとは全く関係なく、数年前にマサチカの従兄弟が病気で片足を失った。

自分は元々高校では理系コースだったのもあるが、細かい作業が得意だった事もあり医療や生物系ではなく工学の道を選び、より有能な義足を作りたいと思った。

その従兄弟は昨年結局命を落としてしまったのだが、それでもマサチカの信念に揺るぎはない。

両親が従兄弟の家族に治療費を貸したりしていたので金銭的に厳しい事もあった。

しかし最低限の成績を維持し奨学金を受け、バイトをこなしながら勉強を続けてきた。金さえあれば就職ではなく院への進学も夢ではない。更にその先も保証されるのなら。

無論このキリヤマという男がどれだけ信用出来るかについては少し考えなくてはならないわけだが。

しかし有名な大学病院の名前を出されてマサチカはあっさりと信じてしまった。

これに関しては本当に自分がバカだったとしか言いようがない。

若者故の浅はかさだった。


治験のバイトは健康食品もどきのような蜂の素揚げを毎日食べさせられる罰ゲームのような物だった。

恐らく天然物ではない、遺伝子操作をされたものだろう。


早朝、新宿駅の指定された集合場所に送迎バスがやってきて、山奥の施設に収容された。

施設内にはある程度行動の自由もあったがその一方で面倒なルールもあった。

以前部室に落ちていた少し昔の漫画のようだと思った。

そこでの出来事は全て口外禁止。

想定はしていたがスマホもタブレットもパソコンも利用制限され、不便だなと思った。

他の参加者との交流は可、しかし連絡先の交換は禁止。

マサチカは何故か自分とは真逆のタイプとも言える首筋に小さなタトゥーを入れた男とよく話をした。マサチカよりひとつ下で、バンドマンだそうだ。

見た目は怖いが意外と礼儀正しいそのバンドマンの話は面白かった。

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