4:case リンド

 突然訪れた揺れで、その猫は目を開けた。

 狭いながらもすっかり見慣れた景色は、外出の際に入れられるカゴ。

 どこかはっきりしない頭で自分の状況を確認する。


 ペット用のカゴに入れられた後、車に乗せられたところまでは覚えている。そして今、その車が動いている気配はない。どうやら運ばれているうちに眠ってしまい、眠っているうちに車は目的の場所へと到着したらしかった。

 どこかに着いたのか、と状況を把握すべく頭を上げた猫は、カゴの戸が少しだけ開いているのを見付けた。

 思えば長らくこの中に押し込まれていたな。と思った途端、彼は身体を伸ばしたくなった。

 幸い、カゴは開いている。

 出るなら今は絶好の機会だ、と言わんばかりに飛び出す。


 カゴを出ると、そこは車の中。後部座席のドアは開けられており、そこから風が穏やかに吹き込んでいた。

 これなら一気に外へいける。と、そこを目掛けて身体のばねをしならせる。

 うわ、と声を上げる人間の足と座席を一足に飛び越え、日差しでほどよく暖まったアスファルトに着地して一声鳴く。すると後ろから慌てたような声が聞こえた。

「わ、わ、待ってよリンド。着くまで大人しくしてるって約束したじゃないか!」

 自分をリンドと呼ぶその声に振り返ると、先ほど飛び越えた人間――有樹がわたわたと車の後部座席から降りてくる所だった。

 マフラーもコートも座席へ置き去りにしたまま降りてくる彼の格好が、冬も幾分緩んできた事を感じさせる。

 遅い、先行くぞ。

 そう言おうと口を開き、リンドは車内からこちらを微笑ましそうに眺める二人の存在に目を留めた。

 それは、飼い主たる少年の両親。

 自分が人間の言葉を解する事は少年との秘密だから、彼等の前では普通の猫を装わなければならない。だから、リンドは言葉の代わりににゃあ、と一声鳴いて、追いついた少年の手をくぐり抜ける。

 少年は空振りした腕に、一瞬だけ残念そうな顔をしたが、すぐさま子供特有の負けず嫌いを発揮して追いかけ始める。

 しかし、どう頑張っても子供は子供。リンドがオーヴァードである事を差し引いても、猫の俊敏さには適わない。

 少年と軽く距離を取りながら車の周りを駆け回っていると、半周ほどした所で運転席から声がかかった。

「ほらほら、これから電車にも乗るんだからな。有樹が大人しくさせるって約束したから連れてきて良いって言ったんだぞ?」

「分かってるよ。ほら、リンド! 大人しくしないと置いてっちゃうよ!」

 リンドはその声にぴくりと耳を動かし、車の上へ飛び乗った所でようやく足を止める。するとすぐに、背伸びした有樹少年の両手が傍若無人な態度を取っていた猫の身体を捉える。

「やっとつかまえたっ」

 乱れ気味の息を吐きつつも嬉しそうに微笑む少年は、リンドを抱き込むように抱えて残りの半周を歩き出す。

「もう、リンドったら」

「うむ。少しやりすぎた」

 軽く頬を膨らませたように囁く声に、リンド少しだけ耳を寝かせて応える。

「チチとハハを困らせたらユウキも困らせることになる。そうしたら猫失格だ」

「……猫失格なの?」

「同居人の安全を守るのが猫の仕事だからな」

 と、リンドは耳を寝かせたまま、視線をアスファルトに移して答える。

 その答えが嬉しかったのか、ふふ、と笑いながらリンドをさらに抱き締める少年に、彼は続けて問いかける。

「ところでユウキ。ここは見慣れない場所だが、どこだ?」

「ここ? 渋谷駅……って言っても分からないかな。これから電車に乗るんだよ」

 だからもうちょっとだけ狭い所で我慢してね、と囁いて、後部座席に置きっぱなしだったカゴの戸を開き、先程のように押し込まれて今度はしっかりと戸を閉ざされる。


 そうして少年は大事そうにカゴを持ち、父親に手を引かれながら駅への入り口へ向う。


 程よく暖かさが残るカゴの中のリンドに出来る事といえば寝るばかり。なので、それに適した体勢を取りながら、外の光景をカゴの隙間から眺める事にした。

 そう決めた瞬間。

 奇妙な感覚がのしかかってきた。

「――!?」

 リンドは思わずカゴの中で身構えかけるが、声は上げず、じっと感覚を磨いで感覚の元を辿る。

 方向は有樹達の向かう入口の方向からだと分かる。しかし、正確な場所までは把握できない。

 カゴの隙間から目を凝らして窺う。編み目になっているそこからは断片的にしか把握できない景色だが、その風景が何かに塗りつぶされたかのように一変したように見えた。


 それはほんの一瞬。

 ビルも歩道橋もない。

 今のようにコンクリートの灰色ではなく、煉瓦や木材の赤茶けた色彩が多くを占める、全体的に背の低い風景。

 そこを行き交う人々は皆、今とは異なった装いですれ違って行く。

 どれを取っても今とは明らかに違うそれらをリンドが認識したのは瞬きをする程の間。

 しかし、彼が思わず声を上げるのには十分で。

「な……」

 なんだ今のは、と声をあげそうになったのを辛うじて堪えるが、思いの外大きな声だったらしい。

「どうしたの?」

 その声を聞きつけた有樹がカゴを覗き込んでくる。

 純粋な疑問の声からは、少年がリンドと同じ光景を目にした様子がないと分かる。

 あんなにはっきりと見えたのに、お前、見てなかったのか?

 そう声に出す訳にもいかないもどかしさと共に、視線だけで問いかける。

 が、返ってきたのは困ったような表情。

「うーん……やっぱり走り足りないのかなあ」

 でも、もうちょっと我慢してね、と、少年は言い聞かせるように呟く。

 奇妙な気配は一向に薄れない。だと言うのに、有樹は気づかない。

 カゴの中の様子に気づかない母親の「楽しみね」と言う声に、彼はカゴから顔を離して「うん!」と元気良く返事をする。

「お父さんとお母さんと、リンドも一緒にこうやって出掛けるのは初めてだもんね!」

 すっごく楽しみ、と、少し遠く聞こえる弾むような声。

 その声に比例するように強くなるのは、一向に正体の掴めない感覚。

 質量を持つかのように強く、重くなるそれは、リンドにのし掛かるような圧迫感を与え続ける。

 息苦しさと重さのせいで、気分が優れない。

 自分の身体が冷えていくのを感じる。

 声をあげる気力も、体を支える力も急速に奪われ、駅の入り口にさしかかった辺りで、リンドはカゴの床にぺたりと臥せた。

 そこでようやくリンドの様子がおかしいと気付いた有樹が足を止める。

「え、どうしたの?」

 首を上げるのも辛い圧迫感と不調を、視線だけでなんとか訴えようとするが、漏れる声は音にならず、喉で転がる。

「リンド!  ねぇ、リンド!」

 カゴを覗き込みながら呼びかける有樹の姿が霞み、視界が次第に暗くなる。

 どうやら目を開けるのも辛くなってきたらしい、と瞼の重さも感じながら思う。

 名前を呼ぶ声に応えたい、しかし身体は冷たく、動かない。

 そのもどかしさに、せめてもの対抗をすべく、目だけは開けようとする。


 ――。


 どのくらいそうしていたのか判らない。

 だが、その努力が実ったのか、次第に視界に明るさが戻ってくる。

 心なしか、圧迫感も和らいできた。

 そして、人物の顔が判別できるまでに回復した所で。

 

 目の前の人物が違うことに気がついた。

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