SCENE1

1:case 紅月みあ

 彼女は目を覚ました。

 途端に鼻をついた異臭で、思わずむせる。

 口元を押さえようとしたが、腕はおろか、身体の何処も思うように動かせなかった。

 けほんけほん、と小さな咳を幾度か繰り返して、辺りを窺う。

 薄暗いながらも仄かな光が差し込む視界はひどく狭い。

 感じるのは、重圧感と息苦しさ。

 自分が置かれた状況をもっと把握しようと身体をよじらせて初めて、どうやら自分は何かの下敷きになっているらしい、と気付いた。

「……今回はまた、ズイブンな目覚めね」

 ため息のように呟いた彼女は、自分が置かれた状況を静かに把握する。

 自分の身体が触れるのは、冷たくて硬いコンクリート。上に折り重なって自分を圧迫しているのは、柔らかい何か。

 背中に力を込めると、がらりという音と共に上に乗っていた何かが少しだけずれ落ちて、視界がわずかに開けた。

 それでも、外の景色はまだよくわからない。

「あぁ。まずはここから出る事が先決ね」

 確認するように呟いて、自分が押し込められた空間から抜け出そうと腕を引き寄せ、背中に力を込める。

 少し押し上げては身体を引きずるように、差し込む光の方へと移動する。

 思ったより平坦ではなかった地面に膝を擦られながらも、上に折り重なっていた何かを押し上げ、這い出す。

 異臭は強さを増し、深く息をつく事も出来なかったが、からからと落ちては転がっていく石を横目に立ち上がる。

 そして彼女は――眼前に広がった世界を思わず疑った。

 

 原型を留めたものは殆ど無く。全てが等しく崩れ去った、視界を埋め尽くす瓦礫。

 春を読んだばかりの暦を忘れるほどに、息苦しい熱気。

 土煙のあちこちに見える炎。

 己の意識を覚ました異臭は肉の焼ける臭い。

 それが、ヒトの焼ける臭いであると認識せざるを得ない程に、辺り一面、瓦礫と死体と炎で埋め尽くされた地獄絵図。

 

 擦り切れて熱を持った膝も、頬に張り付いた髪もすっかり忘れて、その景色に呆然としていた彼女は、そのセカイを圧倒的に見せている原因のひとつに思い当たった。

 そしてその原因を確かめるかのように、彼女は己の両手を見つめる。

 ぎゅっと結んで、開く。

「――」

 それは思わず息をつく程に、幼い手だった。

 

 肩で揃えられた髪は赤茶色で、緩いウエーブがかかっている。軽く、癖のつきやすい髪質らしい。胸元にワンポイントの入った黒いワンピースと厚手のコートを纏った身体は小学校高学年程度。擦り傷や打ち身はあるが、大きな怪我はない。病気があった形跡もない。つい先程まで身体の主であった少女「紅月みあ」は、まだ幼いものの至って健やかで、平均的な身体だった。

「それにしても――随分と若い身体ね……可哀想に」

 一通り身体の検分を終えて思わず漏れた言葉に、彼女は少しだけ苦い顔をする。


 「書き記す者」である自分は宿主の死をトリガーに覚醒し、レネゲイドウイルスの活動を記録してきた存在だ。

 十八程前に世界中へばら撒かれ、感染者の数を爆発的に増加さたそのウイルスは、稀に発症しては人を超えた能力を与え、その身体を侵蝕する。

 これまでに発見された能力――シンドロームは、公式に発表されたもので現在十二種。その能力の内、一つ、ないしは二つを発症した「オーヴァード」と総称される者達の行動、ウイルスの侵蝕とその影響。「書き記す者」は、それらをただ、淡々と観察してきた。

 古く――ウイルスが発見されて世界にばら撒かれるより以前からそうであり。これからもそのはず。それがいつの間にやら、宿主の身体に対する感情まで持つようになってしまったらしい。 


 ――記録すべき対象への干渉など、昔は考えもしなかったのに。


 思わずとはいえ口をついて出た言葉がまだその辺を漂っているようで、何となく落ち着かなくなった彼女は、頬の髪を追いやる。

 けど、自分のやる事を忘れたわけではないわ。と小さく息をついて周囲をくるりと見渡せば、どこを見ても、瓦礫と死体が広がる荒野。

 元々ここがどのような場所であったかなど、想像もつかない程に破壊されていたが、彼女が探しているのはそんなものではない。

「――まあいいわ」

 急ぐ訳でもないし、と彼女は目を伏せるようにして足下に横たわるものへ視線を移した。

 そこにあるのは、先ほど自分が押し退けたモノ。抱き合うように倒れた一組の男女と、彼らを埋めるように散らばる瓦礫。

 服も身体も傷だらけの二人は三十代前半頃だろうか。身体の損傷が激しくて正確な判断は難しいものだったが、この状況でこれだけで済んでいるのは逆に幸運なのかもしれないと思わせる位、綺麗だと分類できた。

 周囲の死体同様に動かない彼らはオーヴァードではなく、それ故に観察すべき対象とはなり得ない。が、男性の赤茶けた髪色は自分の髪色とよく似ている、と彼女は自分の髪をちらりとつまんだ。己の姿と見比べたり、少女の記憶を探ったりするまでもなく、彼らはおそらくこの子の両親なのだろうという予測がとても簡単についた。

 みあ自身に大きな怪我がなかったのもきっと、この二人が守ってくれたからだろう。

「……こういう場合は、こうすべきなのかしらね」

 しばらく無感情に彼らを眺めたみあは少しだけ考えて両手を合わせる。

 一度命を落とした幼い少女への餞と、この身体を守ってくれた二人に対しての感謝の意、だろうか。

「結果として、貴方達の望みには遠く及ばなかったけど――」

 安心して、身体は無事よ。と、彼女は足下の二人へ語るように目を閉じた。


「――さて」

 黙祷を解いた彼女は、あたりを見回す。

 視界のあちこちでゆらゆらと揺れる炎は、惨事の残骸。

 一体ここで何が起こったのか。少女の記憶にもはっきりとは残っていなかった。もっとも、彼女の最期の記憶は正体不明の轟音と、崩れようとする建物、それから名前を呼びながら自分を抱き寄せる両親の姿だ。何が起こったのかなど、考える暇もなかったようだ。

 分かるのは。

 大きな何かが降ってきた。周囲の誰もが例外なくそれに視線を奪われたが、誰一人としてその正体に辿り着けないまま破滅した。

 だから、それが一体何なのか説明してくれる人はいない。

 ただひとつ確かなのは、自分はそのような惨事の中で目覚め、立ち上がったとのだ言う事。

 だが、彼女にとってそれは、自分が目を覚ました状況とプロセスを教える事実に過ぎない。

 死した少女の中で目覚めた「書き記す者」が求めるものはただひとつ。

 周囲に存在するレネゲイドの――オーヴァード達の活動記録を。

 それこそが彼女の存在意義。

「此度はどんな風にあたしを楽しませてくれるのかしら」

 くすり、と笑ってみあは一歩を踏み出す。

「さてと、まずはUGNでもFHでもとにかくオーヴァードと接触しないと」

 何も始まらないわ、と誰にともなく呟いて、彼女は歩を進めた。


 □ ■ □


「――?」

 歩き出して間もないうちに、視界の隅でちらりと動く影を捉えた。

 救助隊にしては、影が微かすぎる。それなら生存者か。それともオーヴァードか。

 足を止めて、みあは少しだけ思案する。

 相手が何であれ、自分のような子供が辺りの死体を気にした風もなく歩く姿と言うのは、怪しまれないだろうか?

 相手がオーヴァードだったとしたら、観察対象とする為に近づかなくてはならない。はじめから警戒されかねない状況は排除しておくべきだ。

「この身体なら……そうね」

 少しだけ思案して、表情を年相応に崩す。

 途切れがちに両親を呼び。二月らしからぬ熱気を頬に受けて。

 肩を落とし、頼りない足取りで影が見えた方へと向かう。


 しかし、その先で誰かに出会う事はなかった。

 瓦礫の山に紛れたのか、気付かずに先へと進んでしまったのか。ともかく先程見えた人影は、自分に気付かずどこかへ行ってしまったようだった。

「何か居たような気がしたのだけど……見失ったか。仕方ないわね」

 顔をあげて軽く息をつきながら、今一度周囲を見回す。

 彼女の感知できる範囲にはもう、他に生きている気配は何一つとして残っていない。

 人も、動物も、空も。何もかもが瓦礫と煙で埋められているだけだった。

「あぁ、それにしても」

 見事に壊れてしまったわね、と瓦礫の山を小さく蹴る。

 からん、と転がる破片は、他の小さな欠片を巻き込んで転がっていったものの、すぐにどこか別の隙間に入ってしまった。

 何の思いも無くそれを見送った彼女は、再び歩を進める。

「とりあえず……さっきの影でも追いかけてみようかしら」

 そうすればきっと、何かに出会えるかもしれない。

 ふふ、と少女は小さく笑って影が消えた方へと歩き始めた。

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