旋律外の恋

早水一乃

旋律外の恋






「ねえ、今日はこれ弾いて」


 私はおたまじゃくしの群れが散らばる楽譜をぱらぱらとめくっては、適当に目についたページを沙耶さやに差し出す。楽譜の読めない私には、一体どの曲が難しいのかとか、どんな風に展開される曲なのかとか、そんなことはちっとも分からない。私が唯一判断できるのは曲名だけだ。それも、なんとか二番、とか、なんとか協奏曲、とか、味も素っ気もないようなタイトルは面白くない。それよりも、今にも物語が始まりそうな、想像をかきたててくれるようなタイトルが好きだ。

 沙耶は私の突き出した楽譜をちらっと眺め、譜面台に立てかける。けれど、私は沙耶が演奏しながら楽譜を確認したりめくったりしているところを見たことがない。英単語の暗記すら苦手な私からしてみれば、あらゆる楽譜が頭の中に詰まっているような沙耶は、尊敬を超えてちょっとした畏怖の対象でもある。


「ゆめ、」


 呟くように沙耶は曲名をなぞる。これは沙耶の癖だ。弾く前に必ず曲名を口にする、そうすると沙耶の目はスイッチを切り替えたように私を映さなくなる。

 楽譜も、鍵盤も、沙耶の視界からは消える。演奏している間、沙耶が一体何を見ているのか、私には分からない。

 そして沙耶の指が、白くてしなやかに曲がる指が、鍵盤を撫でるように叩く。その動作だけを見ているとほとんど力が入っていないように思えるのに、重たい鍵盤ははっきりと音色を奏でる。時に囁くように、時に高らかに歌うように、沙耶はピアノの声を自在に引き出す。

 それはとろとろと柔らかいリボンが風になびいているような曲だった。白昼夢だろうか、それとも星がきらめく夜の夢だろうか? 鼓膜に優しく滑り込んでくる音色を、けれども私は実際ほぼ聞き流している。というよりは、頬に触れる微風のように、無意識の中で受け流している。

 私がこの時意識を傾けているのは、沙耶の姿だけ。

 細い黒髪を揺らしながら、陶酔する機械のように、沙耶はピアノを弾くことだけが自分の機能なのだと言わんばかりに曲を奏でている。長いまつげが目元に繊細な影を落とし、色の薄い唇はくちづけをするようにうっすらと開かれている。その姿はとても美しくて、痛々しくて、気高くて、この世で一番脆いものに見える。


 ああ、あの華奢な首筋に顔を埋めたら、どんなに甘い匂いがするだろう?

 あるいは、あの華奢な首筋を両手で締めたら、どんなに容易く息の音を止められるだろう?


 そうしてぼんやりと沙耶を眺めていると、いつの間にか最後の音を弾き終えたらしく、無感情な目がこちらを覗き込んできた。


「いつも何て顔、してるの」

「……え? どんな顔?」

「……さあ」


 沙耶はそう突き放すように言うと、自分の鞄に楽譜をしまいこんだ。経年劣化で黄ばんだ表紙が教科書やノートの間にうずもれる。一日のうちで一番待ち望んでいる時間が終わってしまったので、私は溜息をついて窓の方へ目をやった。黄昏色に染まりつつある空から西日が差しこんできて、結構眩しい。この時間に音楽室を使えるのは、吹奏楽部の活動がない曜日だけ。それも、文化祭やコンクールがある時期は毎日使われてしまうから、仕方なく昼休みにピアノを借りる。そんな時間帯に沙耶のピアノを聴いてしまうと――正しくは、沙耶がピアノを弾く姿を見てしまうと――午後の授業中はそわそわと気が散ってしょうがない。

 だけど、今日はこのまま、ふわふわとした酩酊感を味わいながら、沙耶と一緒に帰ることができる。

 窓と扉を施錠して、私たちは職員室に音楽室の鍵を返しに行く。さようならー、と適当な挨拶を投げ捨てて、校庭でかけ声を交わし合う運動部を尻目に、校門を出る。学校の敷地から一歩出た瞬間、私は沙耶の細い手を取って指を絡めた。沙耶はちらっと何か言いたげに目を向けたものの、結局不満は口にしなかった。


「お腹減ったねー。コンビニでも寄る?」

「別に」

「期間限定の苺シュークリーム、出てたよ?」

「…………、行く」


 そうだよね、と私は沙耶の答えに満足して頷いた。沙耶は小さい頃からシュークリームに目がない。

 私たちは通学路の途中にあるコンビニに立ち寄り、それぞれ同じシュークリームを手に取った。私は喉が渇いたので何か飲み物も買おうとドリンクコーナーを物色し、小さいサイズのカフェオレのペットボトルを選んだ。これなら沙耶も飲むはずだ。

 コンビニを出てしばらく歩き、小さな公園にたどりつくと、端っこのベンチに二人して腰かける。買い食いをする時はいつもこの公園、このベンチだ。シュークリームの袋を開け、ふわふわのシューに齧りつきながら、横目で沙耶を観察する。垂れてくる髪を耳にかけ、小さな唇でシューを捕らえて噛みちぎる。溢れでた桃色のクリームが唇の端についていた。多分無意識にそれを舌で舐めとった沙耶は、私の視線に気付くと怒ったような恥ずかしいような微妙な表情で睨んできた。


「人が食べてるとこ、じろじろ見ないで」

「いやいや、お気になさらず」

「気にしたくなくても気になるわよ」

「もー、沙耶は繊細なんだから」

「誰だって気になるわよ、そんなに……」


 そんなに、……何と言いかけたのだろう。沙耶ははっとした様子で口を噤むと、眉を寄せてシュークリームに向き直った。仕方なく、あまり沙耶を見ないようにしながら私もシュークリームを食べる。苺味のクリームは思ったよりも甘ったるくて、カフェオレよりももっとあっさりとした飲み物を買うべきだったかと少し後悔した。けれど、ふと沙耶が催促するように手を突き出してくる。


すず、カフェオレちょうだい」

「はいはい」


 私は思わず笑みながら、沙耶にペットボトルを手渡してあげた。食べかけのシュークリームを膝に乗せ、沙耶はペットボトルのキャップを開けると喉を反らして飲み始める。ほの暗くなってきた背景にしらじらと浮かび上がる細い喉。私はまた視線を惹きつけられていた。

 こくん、と沙耶は喉を動かして甘い液体を嚥下する。無言で返されたペットボトルに、私はすぐに口をつけた。甘い。背がぞわぞわするくらいに甘い。私はその甘さに眉をしかめながら、二口ほど飲んで息をついた。視線を感じて目を上げると、今度は沙耶がじっと私を見つめていた。いつも無機質な硝子のような目に、ほのかに熱がこもっている。どきんと心臓が痛いくらいに高鳴った。


 女の子同士で抱き合うのは、そんなに変じゃない。

 手を繋ぎ合うのも、特別変わったことじゃない。

 じゃあ、どこまでが許される? こんな感情を覚えるのは? こんな、身体を疼かせるような衝動を感じるのは?

 目の前の綺麗でか弱い幼馴染に、キスしたいと思うのは?


 私はそろそろと止めていた息を吐き出した。手を伸ばして沙耶のこめかみに垂れ落ちる髪をひとすじ、耳にかけてやる。くすぐったげに沙耶は目を細めた。沙耶の吐息の匂いがする。カフェオレと、それからシュークリームの、ぞっとするほどに甘い匂い……。

 オレンジ色の街灯に照らされた沙耶の瞳に自分が映りこんでいるのに気が付いて、とろけていた脳がふっと醒めた。身体を離した私に、沙耶が不安げな顔をする。


「ごめんね、沙耶」

「鈴?」

「沙耶のこと、大好きだよ」


 沙耶の方を見ずに言ったので、私の言葉に対してどういう表情をしたのかは分からない。沈黙に罪悪感を覚えながら、私は残りのシュークリームを一気に頬張った。これでしばらく言葉を口にしない理由になる。


 気付いてしまったのだ。私はピアノを弾いている沙耶にこそ、どうしようもなく激しい感情を抱くのだということに。

 私をその目に映してもらう必要なんてない。幽霊のように、朦朧として幻想を見つめながら音を奏でている、その危うさが欲しい。

 でもこんなことを口にしたら、今度こそ本当に沙耶は壊れてしまう。確信として、そう分かっている。だからこそ、一生この思いは告白できない。


「帰ろっか」


 私が立ち上がると、沙耶は無言でそれにならい、スカートについたシューの屑をはたき落とした。その肩は心なしか、さっきよりも細く見える。ああ、沙耶。ごめんね。ごめんね。私が沙耶の手を掴むと、一瞬抵抗するように力をこめたものの、結局抗わずに手を繋いだ。少ししっとりと冷えたその手は、本当に幽霊の手を掴んでいるようだった。

 それからお互い一言も話さずに歩いた。先に着くのは沙耶の家だ。周りの家がカーテンの向こうからぼうっと照明を漏らし、夕飯のかぐわしい匂いを漂わせている中、沙耶の家はまるで今の彼女自身のように暗く、堅く、静かにたたずんでいた。


「また明日ね、沙耶」


 玄関扉に鍵を差し込む背中に、そう声をかけた。沙耶は小さく「……また明日」と囁くと扉を開ける。その一瞬に見えた底なしの闇に、沙耶は身を沈めるようにして帰っていった。


 音もなく扉が閉まるのを見届けて、私は五軒隣の自分の家へと足を進めた。


「ただいまー」

「おかえり!」


 扉を開けて靴を脱ぎながら声を上げると、すぐに母親の返事があった。温かい味噌汁の匂いがここまで流れてくる。リビングに向かうと、カウンターの向こうで料理中の母親がトマトを持ったまま片手を上げた。


「あんた、今日も沙耶ちゃんと帰ってきたの?」

「うん」

「あの子、ちゃんとご飯食べてる? 最近全然見てないから……もうちょっと家に呼びなさいよ」

「うん……そうだね。今度また呼ぶよ」

「あんな広いお家に一人なんて、寂しいでしょうに」


 何なら毎日連れて来たっていいんだからね、あの子小食だし、作る量なんてほとんど変わらないんだから。

 耳にたこができるくらい繰り返された言葉にうんうんと頷きながら、私は階段を上って自室に入った。鞄を床に放り投げ、机の前に吊り下げたコルクボードに貼られた写真に目をやる。私と沙耶が、小学生の時の写真だ。今の沙耶からは想像もできないくらい満面の笑み――その隣にいる私も、無邪気な笑顔をカメラに向けている。頬を寄せ合って映る私たちは、まるで姉妹みたいに仲良しねとお互いの母親によく言われていた。

 でも、ちょうどこの写真――小学校に上がってしばらくした頃あたりから、沙耶の母親はあまり私と沙耶を遊ばせたがらなくなった。遊んでいる暇があるならピアノの練習をしろと、沙耶を自宅のグランドピアノの前から逃がさなくなったのだ。彼女の母親はピアノの教師で、自宅でもレッスンを開いていたのだが、沙耶が小学校に上がってからはそれもやめ、ただひたすらに彼女にピアノを弾かせた。幸いだったのか、不幸だったのか――沙耶にはピアノの才能があった。それも天賦の才が。コンクールでは金賞を総なめし、神童と誉めそやされて雑誌やテレビにも出演した。メディアに出る沙耶の隣には、いつも母親の姿があった。

 学校で会う沙耶はいつも疲れて見えた。それでも、母親のいないところでは、沙耶はずっと私の傍らにいてくれた。


「ピアノの練習ばっかりして、ピアノを嫌いになっちゃわないの? しんどくない?」


 幼い私が愚かにもそう聞くと、沙耶は唇だけで笑って答えた。


「でも、お母さんが喜んでくれるから」


 ――けれども、そんな日々も、彼女の母親が亡くなるまでの話。


 がんだったらしい。周囲には、特に沙耶には病気のことなど一切悟られぬように、母親は徹底してその事実を隠し通していた。むしろ、沙耶にピアノを教えて才能を磨くことへの執着だけがなんとか母親を生に繋ぎとめていたのだ。しかし、病院にもほとんど行かず、適切な治療を行うこともなければ、当然のように病は悪化し――突然、一人娘を置いて死んだ。沙耶に厳しい練習を強いていたのは、自分の死期が近いのを悟って文字通り必死だったのかもしれない。

 でも、そんなことは幼い沙耶には関係ない。ただ母親の喜ぶ顔のため、内心では極度のストレスを抱えながらも特訓の日々を過ごしていた沙耶は、当の母親がいなくなったことでぷっつりと糸が切れてしまった。

 当時の私はいまいち理解していなかったのだが、沙耶は母子家庭だった。恐らくは母親の気性のせいで、沙耶がごく幼い時に離婚していた。母親は自身の親族も遠ざけていたようだったが、流石に幼い子供を放置するわけにもいかず、しばらく沙耶は親戚の間をたらい回しにされていた。沙耶と離れ離れになってしまった私は、しょっちゅう愚図っては大人の事情を知る母を困らせていたものだ。


 でも、沙耶は帰ってきた。中学卒業も間近の頃だった。


 数年ぶりに再会した沙耶は、私が初めて見るような苦しげな笑顔でこう言った。


「やっぱりピアノがないと、私、だめみたい」


 成長していた私は、流石にその言葉に込められた複雑な思いと、ねじれてしまった沙耶の精神状態に気が付いた。――沙耶はとうに、病んでしまっていたのだ。それが彼女の母親が生きていた頃からなのか、死んだことがきっかけなのか、そこまでは分からない。沙耶は自らピアノに執着するようになった。かといって、コンクールに出るわけでも、誰かに習いに行くわけでもない。ただピアノを弾くことで、自分の存在を確認しているようだった。

 ピアノを弾いている時の自分が、何よりも亡霊めいていることにも気付かずに。

 沙耶のいびつさを分かっていながらもピアノを弾かせる自分は、よこしまで醜い人間なのだと思う。

 それでも私は――幼少期とは明らかに違う、うつろな目でピアノを弾く沙耶の姿に、恋をしてしまったのだ。

 あの時弾いていた曲は、何という曲だっただろう?

 そんなことも覚えていない。覚えているのは、沙耶の美しさだけ。触れれば折れそうな、しおれた花のような、溶けかけた薄氷のような、沙耶の脆さだけ。


「沙耶……」


 私は暗い部屋でその名を呟く。細い手首を、自在にうごめく指を、桜貝のような爪を思い出す。冷たくて堅い鍵盤にその指の腹が触れるところを想像する。すると私の鼓動は乱れ、沙耶の甘い吐息を間近で嗅いでいるような気分になる。身体の芯がじんと熱を持つ、その熱のやましさに私は息が詰まりそうになる。

 私の、かわいそうな沙耶。

 なんてかわいそうで、愛おしいの。

 こんな私の本性を知ったら、沙耶は軽蔑するだろうか? 私のことを嫌いになるだろうか? ――ううん、沙耶は多分、受け入れてくれる。喜んでくれる。今よりもっと、私に依存して、今よりもっと、ぼろぼろに壊れてしまう。

 だから私は、決して、決して、この想いを口にしない。






 ***






「今日はこれ、弾いて」


 そして私は何食わぬ顔で、今日も沙耶に楽譜を差し出す。沙耶が白い手ですがりつくようにそれを受け取るのを、唇を噛み締めて見下ろす。暗く澄んだ瞳がまばたきに隠れ、楽譜は譜面台に飾りのように立てかけられる。


「テンペスト」


 小さく呟いたその声と共に、沙耶の視界から全てが消えるのを見つめていた。窓の外から聞こえてくる運動部の声がとても場違いで、けれどもそれをもかき消すように沙耶が鍵盤を叩き始めた。心地良くうねるような音の奔流。どこか緊張感のある音色も、沙耶はごく自然に呼吸するように操ってみせる。どんな瞬間よりも、ピアノを弾いている沙耶は自由に見える。本当はがんじがらめなのに、そのことを感じさせない滑らかさで沙耶の指は動く。何故だか無性に泣きたくなりながら、私はピアノを弾く幼馴染の姿を見つめた。

 沙耶に決して気付かれないように、華奢な背を覆う黒髪に触れてみようかと思った。

 いっそ怒られても構わないから、後ろから抱きついてみようかと思った。

 そういえば沙耶の演奏を邪魔したことは一度もない。どういう反応が返ってくるのか、それを知るのが怖いのだ。


 沙耶。沙耶。わたしの沙耶。かわいそうな、わたしの沙耶。


 抱きしめたら、私の腕の中で、沙耶はただの女の子になる。憂いも迷いもない、ただの美しくてか弱い女の子に。

 そんな幻想をまぶたの裏に見ながら、私は目尻に滲んだ雫を拭い取った。そうなった沙耶を果たして愛せるのか、愛したいと思えるのか、私には分からなかった。

 臆病で卑怯な私は、声帯を決して震わせることなく、「大好きだよ」と告げる真似をした。

 沙耶は、うつろに身を任せながらピアノを弾き続けている。

 その時私は生まれて初めて――その姿がひどく憎らしいと思ったのだ。

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