第8話 宵山

7月16日、京都の街中は、祇園祭りのハイライトである宵山を楽しむ人々で溢れかえっていた。


京都の中心というと、京都駅を思い浮かべる人もいるが、京都市民にとっての中心は、京都御所と東西に走る四条通りと、南北に走る烏丸通りの交差点を中心とした半径1キロ以内を指すことが多い。


この地域には都市銀行の支店、デパート、高級ブティック、レストラン、オフィスビル、カフェ等が並んでいる。


しかし、京都とその他の大都市には大きな違いがある。京都では、大通りから一歩中に入ると、町家や古めかしい建物が今でも残っており、一瞬でタイムスリップしたような気分を味わうことができる。


六角堂(頂法寺)はその典型であり、通りの名前にもなっている。この寺は日本で有数の規模を誇る華道の流派の総本山でもあり、時折、その境内は季節の花々によって華麗に飾られることもある。大都会のオアシスのような存在の六角堂のすぐ隣のビルには有名なカフェがあり、店に張られた巨大なガラスから、六角堂を眺めることができるとあって、隠れた人気スポットになっている。


その六角堂をガラス越しに見ながら、理恵は風間天を待っていた。


理恵は携帯電話の待ち受け画面に表示された時間を確認した。


17:30


約束の時間になった。


そのとき、ガラス越しに紺色の浴衣を爽やかに着こなした長身の男が見えた。


風間天だった。


六角堂を背にした風間は凛とした雰囲気を漂わせていた。


店内でコーヒーを飲んでいた女性客の視線が、こちらに近づいてくる風間に注がれる。


風間はガラスの扉を押し、店の中に入ってきた。そして、理恵が座っていた二人掛けのソファに腰を下ろした。


風間は目の前の六角堂を見ながら、

「やっぱり祇園祭は浴衣に限るな」

と小声でいった。


理恵は赤面した。


理恵も浴衣を着ていた。薄い青と薄い紫色の朝顔をあしらった、涼しげなデザインの浴衣であった。朱色の帯がアクセントとなり、全体を引き締めている。


理恵は小さくガッツポーズを作り、一時期流行っていたフレーズを心の中で発した。

つかみはOK』

隣から溜息が漏れた。

『坂本、20世紀のギャグはやめろ。恥ずかしい』

『いいじゃない、風間君しか聞こえないんだから』

『確かにそうだが」

風間は少し困った顔を理恵に向けた。そして、気を取り直すように咳払いを一つすると、

「行くか」

といい、立ち上がった。


風間はそのまま建物の反対側の出入り口へ向かって歩き出した。


理恵は慌ててプラスチックの容器の蓋をあけ、底に残っていた、コーヒー味のみぞれ状の氷をスプーンで拾い上げようとした。しかし、無残にも氷は底へ向かって滑り落ちていくばかりだ。


風間の後ろ姿が遠くなっていく。


慌てた理恵は、容器に口をつけると、豪快に氷を口の中に流し込んだ。


一仕事終えた理恵は、立ち上がると、容器をゴミ箱の決められた場所に放り込んだ。


宵山の夜を迎えると、このカフェの正面玄関が面している烏丸通り沿いには数多くの露店が立ち並び、賑やかな祭の雰囲気に一役買っている。


店を出た途端、真夏の熱気と湿気が二人を包み込む。


夕暮れ時とはいえ、京都の夏は厳しい。


「かき氷が食べたい」

理恵は店を出るなり、隣の風間にいった。

「今、冷たい飲み物を飲んでなかったか?」

「そうだけど、暑いから仕方ないでしょ」

理恵は口を尖らせた。


風間は理恵の不平には応じず、人込みのなかを一人で南へ向かって進んでいく。


「ちょっと待ってよ、風間君!」

理恵は慌てて風間の後を追った。

『やっぱり妄想は妄想か』

理恵は溜息をついた。


そして、あっという間に風間の姿が見えなくなった。

『ウソでしょ』

理恵は左右を見回したが、風間はどこにも見当たらない。


理恵は携帯電話を取り出し、電話のアイコンをタップした。

そして、大事なことに気づかされた。


理恵は風間の連絡先を知らなかった。


理恵は途方に暮れた。


そのとき、理恵の後ろから腕が伸び、右の頬に冷たい何かが触れた。

「ひゃー!!」

理恵は大声をあげて振り向いた。


そこには、苦笑いを浮かべた風間天が立っていた。手にはかき氷が握られている。

「声がでけえよ」


風間は、2本のプラスチック製のスプーンが突き立てられたかき氷を差し出した。


理恵は冷えた右頬をさすりながら、反対の手でかき氷を受け取った。

「ありがとう」


理恵はお礼を言うと、ブルーハワイのシロップがたっぷりとかかった場所を器用にすくい、口に放り込んだ。


「おいしい」

理恵の素直な感想をきいた風間は、

「よかった」

と小声でいった。


理恵と風間は東西に伸びる蛸薬師通りを入った。そして、小さな公園のベンチに腰掛けてかき氷を食べることに専念した。


かき氷を食べ終えた二人は、公園沿いの東洞院通りを南へ向かって歩き始めた。


四条通りに近づくにつれ、人が増えていく。


理恵は、風間が理恵の手を握ってくれるのをドキドキしながら待っていた。


しかし、風間の手はなかなか伸びてこない。


しびれを切らした理恵は右手の甲を風間の左手の甲に近づけていった。


その距離僅か2センチ。


それでも風間は全く気付かなかった。


理恵は手の甲を風間の手の甲に軽く当ててみた。


しかし、風間は何事もなかったように歩いている。


我慢の限界に達した理恵は、拳を作って風間の手の甲を叩くという、直接的なアプローチに訴えた。


風間が顔をしかめる。

「痛えよ」


『手をつないでよ。迷子になるかもしれないから』

眉間にしわを寄せた理恵が見返し、再度、甲を叩いた。


「分かったから、もうやめろ」

そういうと、風間は理恵の右手を握り、人込みの中を掻き分けて進んだ。


理恵は相好を崩し、風間に向かって問いかけた。

「夢じゃないよね」

振り向いた風間は、

「夢じゃねえよ。まだ手が痛む」

と早口でいい、再び前を向いて歩いた。


二人はいつの間にか京都の中心を東西に走る四条通りに来ていた。


西の方角をみると、長刀鉾がそびえ立っていた。


祇園祭に山鉾は欠かせない。山鉾とは山車であり、山と鉾に分けられる。


基本的に鉾は、二階に音楽を奏でる祇園囃子が乗りこみ、鉾と呼ばれる槍のような武器が付けられいる。一方の山の上には鉾ではなく、木が縛り付けられている。一概には言えないが、鉾は山よりも大きい。


数ある山鉾のなかでも、特権を持っているのが、理恵と風間の前に堂々とした姿を現した長刀鉾だ。


宵山の翌日に行なわれる山鉾巡行で、稚児を乗せ、先頭を切って京都市内を移動するのが長刀鉾である。


通常、山鉾巡業の順番はくじ引きで決められるが、そのうちの幾つかは伝統により順序が決められている。長刀鉾もその一つであり、常にどの山や鉾よりも先に巡行を行う。


理恵は長刀鉾をバックに風間と自撮りにチャレンジした。風間との身長差や長刀鉾の高さが原因で苦戦したものの、5回目の挑戦でようやく納得のいく写真を撮ることに成功した。


そのとき、四条通りを埋め尽くす大勢の人々の間から、自然にカウントダウンをする声が上がり始めた。


携帯電話の待ち受け画面には、17:59と記されている。


10、9、8、7、6、5、4、3、2、1、


18時を迎えると、大勢の人々の先頭で交通整理を担当する警察官の先導により、四条通り、そして、南北に伸びる烏丸通りの交差点が歩行者天国となった。京都が1年で1番盛り上がる瞬間である。


コンチキチンという祇園囃子のメロディーが、祇園祭のメインイベントの雰囲気を盛り上げる。


理恵と風間も烏丸通りと四条通りの交差点の真ん中を堂々と歩いた。


「私、男の人と一緒に宵山に四条に来たの初めてかも」

理恵は照れながら、風間の横顔を見上げていった。


しかし、風間は聞こえなかったのか、何もいわずに前を向いて歩いている。。


「ねぇ、きいてる?」

理恵が催促すると、風間は少し驚いたように理恵の方を向くと、

「え、ごめん。ちょっとぼーっとしてた」

といった。


理恵には、心なしか、風間が神経をとがらせているように見えた。


「どうしたの?」

理恵がきくと、風間は後ろを振り返り、また前を向いた。


そして、両手を合わせ、

「すまん。急用を思い出した。先に帰る」

といい、北に向かって人の波を掻き分けていった。


理恵はあっけにとられ、風間を見送っていたが、風間の態度が気になり、風間を追いかけることにした。











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