第6話 獣の背中
理恵は言葉がでなかった。
理恵は風間の整った横顔を見た。
叡山鉄道の車内で見た時に感じた哀しさの原因が少し分かった気がした。
喜三郎は一通り説明を終えると、立ち上がり、窓際まで歩いていった。
障子の窓を開けると、夕日が差し込んできた。
理恵が腕時計を見ると、時計の針は5時50分をさしていた。
理恵は思った。時間を忘れるというのは、こういうことを意味するのだと。
同じく腕時計を見た風間は、
「送っていく」
といい、理恵の鞄を掴んだ。
そして、理恵の顔をじっと見つめると沈黙した。
「・・・」
何かを必死で考えているようだが、なかなか浮かばないらしい。
続いて、風間が発した一言に理恵はいたく傷ついたのであった。
「名前、なんだっけ?」
『普通、隣の席の人の名前ぐらい覚えてるでしょ!』
理恵の心の怒声をきいた喜三郎が大声で笑った。
理恵は風間を見上げると、
「坂本理恵!覚えておいて!」
と少しきつめに言った。
風間は苦笑すると、
「分かったよ、それじゃ行くぞ、坂本」
といって、先に部屋を出た。
風間と理恵がお堂のような建物を出る頃には、夜のとばりが降りようとしていた。山に響く獣や鳥の声が理恵を怯えさせた。
しばらくすると横を歩く風間が立ち止まり、
「歩いて帰るのは面倒だな」
とぼそっと言った。
そして、風間は合掌して両目をつぶった。何やらぶつぶつと呟いているが、声が小さくて何をいっているのか理恵には分からなかった。
しかし、30秒ほどすると、大きな肉食動物を彷彿とさせる獣の唸り声が轟いた。
『なに?野犬?狼?それとも、ライオン?』
理恵はこの重低音の声を動物園で聞いたことがある。
理恵の記憶が正しければ、この恐ろしい声の主は、艶やかな黄色い毛に黒い線の縞模様が映えるあの・・・
理恵の予想は的中した。
茂みの中から現れたのは、虎であった。
普段見慣れている虎との違いは、2つの色が逆転していることだ。つまり、クロヒョウのように身体全体をびっしりと黒毛が覆い、黄金色に近い黄色の縞模様が際立っていた。
虎は理恵を警戒しながら、風間に近づき、後ろ足で立ち上がると両手を風間の肩に乗せて、顔をペロリと舐めた。
『風間君が食べられちゃう』
何かしなければとは思うものの、足がすくんでしまう。そもそも、生身の人間が虎にかなうはずがない。
虎は前足を下ろし、今度は猫のように風間の腰あたりにぐりぐりと頭を摺り寄せている。風間はその頭を優しくなでた。
『ペットが虎なの?』
そのとき理恵は思い出した。風間が鞍馬寺の金剛床に鎮座していた虎の像の頭をなで、耳元で何か囁いていたことを。
恐怖で固まる理恵をよそ目に風間は虎の背中の毛を掴むと闘牛士のように飛び上がり、虎の背中にまたがった。
そして、虎の頭を1回軽く叩くと、後ろで動けなくなっている私に向かって、
「乗れよ、坂本」
といった。
「乗れるわけないじゃない。馬にも乗ったことないのに虎なんて」
理恵は断固拒否した。
「俺につかまっているだけでいい。ほら、早くしろよ」
風間は理恵に手を差し出した。
理恵は頭を振った。
風間は溜息をつくと、虎から降りた。
「まったく、しょうがないやつだな」
風間が腰に手を置いていった。
『助かった』
理恵は安堵の溜息を洩らした。
しかし、助かっていなかった。
理恵が緊張を緩めた瞬間を風間は見逃さなかった。
虎に背を向けたとき、理恵の身体は宙に浮いた。
『え、ウソ?!』
そして、次の瞬間、理恵は虎の背中にまたがっていた。
「あああああ、風間君、なんてことを!!!」
巨大な虎の胴にまたがった理恵は、風間を見下ろした。
満面の笑みを風間が浮かべていることが癪に障る。
「いい眺めだろ」
「何を暢気なことを。早く下ろしなさい!」
無駄だとは分かっていたが、理恵は抵抗を試みた。
やはり、無駄だった。
風間は理恵のクレームを無視し、再び虎にまたがった。
風間は理恵の前に座ると後ろを振り向き、
「しっかり、つかまていろ」
と一言声をかけると、虎の背中を手の甲で軽く2回叩いた。
虎は低い唸り声をあげると、急発進した。
凄まじい速さだ。
周りの景色が飛ぶように過ぎていく。
大木の間を縫うように起用に走ると、あっという間に金剛床に着いた。
金剛床で理恵は確認したいことがあった。
先ほど本殿のある金剛床には虎の像が2台あった。理恵の推理が正しければ、今、この場所にある虎の像の数は。。。
理恵の予想通り、虎の像は1体だけだった。
虎はスピードを一切緩めることなく金剛床から由岐神社へと続く階段と坂を駆け下りていく。
カーブを曲がる度に遠心力で投げ出されそうになる。
2人を乗せた虎は叡山鉄道の鞍馬駅の隣を駆け抜け、線路の上に乗り、さらにスピードを上げた。
すぐに出町柳駅に向かう下りの電車が視界に入ってきた。
虎はスピードを緩める気配を見せない。
『ちょっと、どうするのよ!』
理恵が危惧を募らせたとき、虎は5メートル先を走る電車目掛けてジャンプした。
1両編成の電車の屋根の上に音を立てずに着地した虎は、さらにもう一度前方へ大きくジャンプした。
そして、電車の10メートルほど前に着地すると、再び疾走した。
終点の出町柳駅に着いた虎は駅の屋根に飛び乗り、ようやく止まった。
風間は先に虎から降りると、理恵に手を差し伸べた。
理恵は風間の手を握ると、滑り落ちるように降りた。
膝が震え、まともに立っていられなかった。そんな理恵を呆れた目で見た風間は、理恵をおぶると、駅の屋根から飛び降りた。
『虎の次は風間君か。。。おんぶに抱っこだ。でも、ちょっと幸せ。。。』
理恵は風間の背中のぬくもりを感じた。そして、あまりに濃厚な時間を過ごしたためか睡魔に襲われ、いつの間にか眠りに落ちてしまった。
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