第4話 鞍馬天狗!?

翌朝、風間天はホームルームの時間に姿を現さなかった。


8時45分、チャイムが鳴るのを見計らったかのように、担任の小松明子が教室に入ってきた。昨日とは違って、取り乱した様子は見られなかった。どことなく安心しているようにも見えた。


小松が教卓の前に立つやいなや、三島茜が、

「先生、風間君はどうなりましたか?」

ときいた。


すると小松は理恵の母と同じ理由を述べ、起訴されなくなったと笑顔で伝えた。


風間天に完全に無視され、その上、理恵を陥れるための策略も失敗した茜は、納得がいかない表情で小松の説明を聞いていた。


「先生、風間君は危険です。退学させるべきではないでしょうか?」

上場企業の令嬢である茜は人一倍プライドが高く、自分の思い通りにことが運ばないと激怒する。

「みんなもそう思うわよね」

茜はまわりの生徒に同意を求めた。一応質問の体を取っていたが、有無を言わさぬトーンであった。茜を崇拝する数名の男子生徒は力強く頷いた。一方、風間に惹かれている女子生徒たちは下を向いた。

「確かに風間君はミステリアスな生徒ですが、起訴もされなかったことですし、退学にはならないでしょう」

小松は言葉を選びながら答えた。

小松は茜に忖度しなかったために、学校を辞めることになった教員を何人も知っている。茜の憮然とした表情に気づいた小松は、

「何らかの処分は下るかもしれませんが」

と付け加えることを忘れなかった。


その時、教室のドアが大きなを音を立てて開き、長身の生徒が入ってきた。


風間天だ。


風間は口許と頬に数枚絆創膏を貼っていた。そして、半袖のYシャツの袖からは包帯が見えた。


茜は眉を吊り上げて風間を睨んでいる。


しかし、風間は茜を一瞥しただけで、無言で自分の席に向かい、腰を下ろした。


その日、理恵は天のことしか考えられなくなり、授業の中身が頭に入らなかった。

『もっと風間君のことを知りたい』

理恵は本気でそう思った。


その後、風間は全ての授業を受け、いつもどおり誰とも言葉をかわすことなく、一人で家路についた。


理恵も下校の準備を始めた。そのとき、鞄の中に透明の容器があることに気づいた。容器には昨日風間に渡す予定であったチョコレートが2つ入っていた。


昨夜、自分の部屋に戻った理恵は、残りのチョコレートを全部食べるつもりだったが、あと2個になった時点で、助けられたお礼を風間にしていないことを思い出した。そして、翌朝、透明のプラスチックの容器に2個のチョコとチョコよりも遥かに大きな保冷剤を放り込んだのであった。


理恵は、教室から出ていく風間を見ながら、チョコレートを渡すことを心に決めた。


バレンタインデーに男子にチョコレートを渡すような緊張感が理恵を襲った。


理恵は意を決して鞄を持って立ち上がり、教室から廊下に出た。風間は階段を降りるところであった。理恵は小走りで風間を追いかけいく。


1階に降り、下駄箱に着くころには、風間天は既に歩き始めていた。理恵はローファーを突っかけ、片足のつま先を地面にコツコツと叩きながら履いた。


風間は軟式テニス部の練習場の脇を通り抜け、校門の近くまで進んでいく。


大股で歩く理恵が、女子軟式テニス部の練習場の横を通り抜けようとしたとき、聞いたことがない声が理恵の頭の中に「入ってきた」。


『しゃがめ』


理恵は自分でも不思議なぐらい従順にこの声に従い、しゃがんだ。すると、1秒前に理恵の顔があった場所をテニスボールが空気を切り裂く音と共に通り過ぎていった。


立ち上がった理恵はボールが飛んできた方向を見た。すると、三島茜が苦虫を嚙み潰したようにこちらを見ていた。


理恵は鞄を抱えると、校門に向かって走り出した。


風間の姿は既に見えなくなっていた。


校門を出ると、理恵は左右を見渡した。


風間は今出川通りを東に向かって歩いていた。立派な木々が生い茂る京都御所を南に見ながら、理恵は早歩きで風間を追いかけていく。


必死の追走の甲斐あってか、理恵は10メートルほどの距離まで接近していた。


しかし、賀茂大橋の手前のバス停で停車したバスから、数名の修学旅行の中学生が降り、行く手を塞がれてしまった。


理恵は中学生の間を縫うように歩き、風間を追いかけようとした。


そのとき、京都の代表的なお土産の紙袋を手に提げた、あどけない表情の中学生たちが地図を見ながら右往左往している様子が視界に入った。


理恵は歩みを止めると、中学生に声を掛けた。

「どこに行きたいの?」

少しむすっとした女子高校生に声を掛けられた中学生たちは、驚きながらも、

「京都御所です」

と答えた。

「すぐそこ」

理恵はたった今通り過ぎたばかりの立派な白壁に囲まれた区域を指さした。

「ありがとうございます!」

中学生たちは丁寧にお辞儀をすると、逃げるように去っていった。


理恵は、小走りで去っていく中学生たちを見ながら、

『私の顔って、そんなに怖いかな』

と心の中で呟いた。


そして、大事なことを思い出した。

『そんなことより、風間君にチョコを渡さないと!』


理恵は賀茂大橋に向かって走り出した。


風間天は賀茂大橋を渡りきると、一度、夏の青空を見上げた。


一羽のアオサギが優雅に川に舞い降りていく。そして、長い脚を見せびらかすように川面に立った。


風間は信号を渡った。そして、川端通りを北に向かい、叡山電鉄の出町柳駅に消えていった。鴨川を渡ったばかりの理恵は信号を渡ると、全速力で風間の後を追った。電車に乗られてしまったらおしまいだ。


改札口を通った風間は、停車中の2両編成の電車に乗り込んだ。この電車の各車両の一部には展望席が設けられており、京都の自然を楽しむことができる工夫が施されていた。たしか『きらら』という名前が付けられていたはずだ。


改札の前で理恵は逡巡した。

『ここまで追いかけてきたのはいいけど、なんて言えばいいんだ』


時間は刻々と過ぎていく。


そして、発車が間近に迫っていることを告げるアナウンスが流れた。

「間もなく2番ホームから鞍馬行きの電車が発車します」


理恵は鞄に結いつけられた定期入れを握り締めると、改札口のICカードパネルに叩きつけ、電車に向かって走った。


改札口に一番近いドアから滑り込むように電車に乗り込むと、ドアが閉まり、発車した。


駆け込み乗車した理恵に対して、乗客たちから一斉に視線が注がれた。あからさまに不快感を顔に出す乗客もいれば、微笑む者もいた。


顔を赤らめた理恵は伏し目がちに車両の前方をうかがった。理恵が乗車した車両には風間は乗っていなかった。


そこで理恵は、慎重に車内を進行方向にむかって移動し始めた。


1両目との境に着くころ、電車は元田中駅に到着した。乗客の出入りはないようだ。


理恵は一度深呼吸すると、思い切って1両目へと移動した。


風間天は1両目の一番前のドアの横で立っていた。


ドアが閉まり、「きらら」がゆっくりと動き出す。


風間はドアのガラスの部分から外を眺めていた。

景色の眺めるその佇まいはとても美しかった。


『絵になるってこういうことを言うのね』

理恵は風間を見つめながら頷いた。


しかし、その整った横顔からは、なぜか悲しさが感じられた。


風間はなかなか降りる気配を見せない。


出町柳駅を発車してからしばらくの間は、線路の周りには住宅地が広がっていたが、徐々に木々が増え始め、本格的な山に入っていった。


きららは終点の鞍馬駅に到着し、風間は下車した。


理恵は1両目の後方のドアから降りると、風間を追いかけた。


改札を出た風間は巨大な天狗の顔が鎮座する駐車場を抜け、土産屋が並ぶ通りを北に向かった。


理恵も小走りで同じルートを辿る。


そして、風間が進む方向を見て、立ち止まった。


風間は鞍馬寺へと続く坂道を登っていった。

『鞍馬寺って、御参りにでも来たの?』


後の源義経が幼少期を過ごした寺として有名だ。義経はこの寺で鞍馬天狗によって鍛えられ、武術を学んだという言い伝えがある。


戸惑う理恵をしり目に、風間は仁王門の手前に設けられた入山料を支払うゲートに差し掛かっていた。


なお、鞍馬寺では入山料とは言わず、愛山料と呼んでいる。鞍馬山全体を御神体と考えているためだ。


理恵は、

「ここまで来たんだから、絶対にチョコをあげなきゃ」

と自分の言い聞かせるように言うと、早歩きで再び風間を追った。


理恵が仁王門を見上げると、風間は愛山料を受け取るスタッフには目もくれずにゲートを通り過ぎていった。


スタッフは何も言わないどころか、深く頭を垂れていた。


『え?顔パス?』

理恵はゲートで楽しそうにおしゃべりをしていた2人の女性のスタッフに疑問をぶつけた。

「あの、今の人、お金を払っていなかったみたいですけど」

2人のスタッフは理恵の指摘に言葉を失った。そして、視線で何かしらの意思疎通を試みたが、失敗したらしく再び黙ってしまった。

理恵が、

「あの人は鞍馬寺の関係者ですか?」

と食い下がると、黒縁の眼鏡をかけていたスタッフが観念したように、

「あの方は特別なんです」

と言った。

理恵は財布の中身を確かめながら、

「特別な人?」

と繰り返した。

するとスタッフは申し訳なさそうに、

「すいません。これ以上は言えません」

と理恵に理解を求めた。


理恵は300円の愛山料金を支払うと、立派な仁王門をくぐった。


風間は由岐神社、そして、本殿へと向かう坂道を事もなげに上っていく。


理恵は息を切らしながらも風間を必死で追いかけた。


風間は階段に差し掛かると、2段飛ばしで駆け上がっていった。

『ウソでしょ!』

理恵は両手を膝につき、肩で息をしながら、目の前にそびえる階段を見上げた。


それでも理恵は、まるで何かに取り憑かれたかのように階段を上り始めた。

『ここで諦めたら、私は一生何も成し遂げられない気がする』

根拠のない焦燥感に駆られた理恵は、風間天がたった今駆け上がっていった階段を一段一段踏みしめるように上がっていく。


本殿のある金剛床と呼ばれる広場にたどり着いた理恵は、這うように近くのベンチに向かうと体を横たえた。


そして、空を見上げた。


コバルトブルーの鮮やかな青空が広がっていた。


徐々に落ち着きを取り戻した理恵は、横たわったまま本堂の方を向いた。


本堂のある金剛床には、誰もいなかった。一人を除いては。


鞍馬寺の本堂の前には石畳が敷かれている。


その中央に位置する六芒星の上に風間天は立っていた。


風間はゆっくりと両腕を広げた。その後、今度は両腕を空に向かって上げていく。さらに、腕の動きに合わせて顔も上げていった。数秒後、今度は両手を胸の前で合わせ、片膝を六芒星の上についた。まるで日本舞踊のような風情のある所作であった。


風間は一連の動きをもう一度繰り返すと、本堂に向かって歩みを進めた。


そして、本堂の前に鎮座する虎の像の前に立つと、まるでペットのように像の頭を撫で、虎の耳元でなにかを囁いた。


その瞬間、虎の像の両眼が赤く光り、すぐに消えた。


驚いて飛び起きた理恵は目をこすった。

『え?何なの?!』


風間はその場から本殿に向かって合掌すると、本殿には入らず、西側の小道を北に向かって歩いていく。


理恵は慌てて鞄を手繰り寄せ、立ち上がった。そして、再び風間を追いかけた。チョコレートを渡すことよりも、風間のことを知りたいという欲求が優っていた。


理恵は本殿の前で急ブレーキをかけて立ち止まると、風間と同じように合掌した。そして、

『今度、ちゃんと御参りします』

と心の中で謝り、風間の追走を再開した。


風間天は小さなお堂の横を通り過ぎると、立ち入り禁止の黄色いロープをまたいで山のなかへ入っていった。


同じ場所に着いた理恵は、

『どうにでもなれ!』

と、なかば自暴自棄になり、ロープをまたいだ。


何度か転びそうになりながらも、山の奥深くへと突き進んでいく。しかし、風間にはなかなか追いつかなかった。


それどころか、とうとう風間の後ろ姿を見失ってしまった。


野鳥がけたたましい声を上げて、頭上の遥か上を飛び去っていく。


このときになって理恵はようやく事態の重大さに気づいた。


『私このまま進んだら遭難しちゃう』

理恵は泣く泣く風間の追跡を諦めることにした。そして、少し考えれば分かるような解決策に気づいた。

『チョコは明日学校で渡せばいいじゃない!』

理恵は自分の浅はかさを嘆いた。そして、同時に自分らしくない大胆な行動に違和感を覚えた。


そのとき、後方から突然低い声で話しかけられた。

「おぬし、こんなところで何をしておる?」


恐怖で凍りついた理恵は、勇気を振り絞ってゆっくりと後ろを振り向いた。


そこには背の高い白装束の老人の男が腕を組んで立っていた。老人は腰に日本刀を差し、背中に弓と矢筒を背負っていた。


理恵は鞍馬駅の駐車場で異彩を放っていた巨大な天狗の顔を思い出した。

『まさか、鞍馬天狗?』

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