第3話 傷ついた天

風間天は逃げるように階段を駆け上がっていった理恵を見送りながら、苦笑していた。そして、ゆっくりと階段を上り始めた。


そのとき、風間は巨大な邪気を感じた。


目を閉じ、精神を統一する。


邪悪な気は南の方角から漂ってきている。


風間は目を開き、この男にしては珍しく笑みを浮かべると、

「やっと見つけたぞ」

と呟いた。


そして、昇りかけの階段を2段飛ばしで下り、川沿いの遊歩道を南に向かって走り始めた。


荒神橋の一つ南の橋は丸太町橋である。その名の通り、京都を東西に走る丸太町通りに架かる橋だ。


丸太町橋では、江戸時代の浪人風の衣装をまとった目つきの悪い男が、黄色いメガホンを持つ小太りの男と言い争いをしていた。


「困るよー、松本君。セリフを勝手に変えないでよー。こっちも脚本家さんと色々考えながらセリフを決めてるんだからさー」

メガホンを持つ男は語尾を伸ばす癖があるようだ。


松本と呼ばれた男は、長い前髪を右手でかき分けると、

「あんたは俺の言ったとおりにすればいいんだよ」

と面倒臭そうに言った。

「何だとー!お前のような売れない俳優を抜擢してやったのは誰だと思っているんだー!お前なんか、いつでもクビにできるんだぞー!」

小太りの男は今にも松本に噛みつきそうな勢いだ。

「やれやれ」

松本は溜息をつくと、黄色いメガホンの男の目を至近距離からじっと睨んだ。そして、小さな声でぼそっと呟いた。

「そんなことが本当にできるのか?」


そのとき、風間天は10メートルほど離れた場所から、川を眺める体で2人のやり取りを観察していた。

『映画か時代劇の撮影か。邪気を発しているのは俳優か、それとも黄色いメガホンの男か』

風間は迷った。


黄色いメガホンの男は、しばらくは負けじと睨み返していたが、5秒ほど経過すると突然満面の笑みを浮かべ、

「確かに松本君の言う通りだねー。松本君のセリフを採用!」

と近くのスタッフに向けて大声で告げた。

スタッフが大慌てで台本に変更点を書き込んでいった。


風間は確信した。

『俳優だ』


「よし、このシーンの撮影はこれで終わりだー。太秦の撮影所に戻るぞー」

黄色いメガホンの男の命令を聞いた風間は、携帯電話で地図アプリを立ち上げ、撮影所への行き方を調べた。


翌朝、坂本理恵は、昨夜、家の近所の洋菓子店で買っておいたチョコレートを鞄にしのばせ、学校に向かった。


昨日助けてもらったお礼だ。理恵はナッツ系のチョコレートが7個入ったアソートボックスを購入した。1箱で2000円もする高級チョコレートだ。


少し過剰な反応かとは思ったが、自分の語彙力では感謝の気持ちを伝えることは不可能だと自覚し、チョコレートに大役を任せることにした。それに、万が一「いらない」と言われても、自分が食べればいいという打算も働いた。


しかし、朝のホームルームの時間が始まっても、肝心の風間天は登校してこなかった。


昼休みが終わり、担任の小松明子が担当する英語の授業が始まって10分が経過したころ、教室のドアが開き、ようやく風間が姿を現した。


クラスメートの視線が一斉に風間に集中した。そして、理恵を含む全員が絶句した。


制服の白いワイシャツは、ところどころが切れ、切れた部分が血に染まっていた。口許からも血が流れている。口の中を切ったのだろうか。


髪は乱れ、そして、肩で息をしていた。昨日、初めて理恵らの前に姿を現した風間とは別人のようであった。


小松は、何も言わずに目の前を通り過ぎ、自分の席を向かおうとする風間を唖然とした表情で見ていた。しかし、席に着く直前に崩れ落ちるように風間が倒れると我に返ったように、

「風間君!」

と叫び、風間の下に駆け寄った。

近くの女子から悲鳴が上がる。

「ちょっと、男子!手を貸して!」

小松は甲高い声で男子生徒に助けを求めた。


小松は2人の男子生徒の力を借り、風間を保健室に連れていった。


理恵は言葉を失った。

『ちょっと、ウソでしょ、何なのよ!』


小松が去ると、残された生徒たちは、目の前で起きた出来事について身勝手な推論を始めた。


その中でも、容姿を上級生に妬まれてボコボコにされたという説が有力であった。しかし、携帯電話でインターネットニュースを閲覧していた男子生徒の一人が掴んだ情報により状況は一変した。


「おい、なんか太秦の撮影所で1時間前に傷害事件があったみたいだぞ。俳優の松本アキラが楽屋で長身の若い男に襲われて、真剣で斬りあったみたいだ。松本は軽傷で済んだってさ。この若い男ってまさか。。。」


「間違いない!絶対に風間君だよ!」

三島茜が断言した。その顔はどこか嬉しそうであった。


理恵は自分の血の気が引いていくのが分かった。

『あの風間君が。。。』


15分後、小松と風間を保健室に運んだ男子生徒2人が教室に戻ってきた。小松が教卓の前に立つと生徒たちは前を向いた。


「風間君はどうしたんですか?」

真っ先に茜が質問した。

「風間君は早退しました。仕方ありませんね、あんな大怪我をしているのですから。ただ、何があったのかは話してくれませんでした」

小松はため息交じりに答えた。


「先生。さっきニュースで知ったんですけど・・・」

茜が先程教室で話題に上がったニュースを小松に伝えた。

「え?!」

小松の顔がみるみる青ざめていく。

「ちょっと待ってて」

そう言うと、小松は再び教室を後にした。


「あ、風間君だ」

窓際の女子生徒の一人が声を上げる。

すると10人近くの生徒が窓の近くに集まり、校庭を眺めた。


長身の風間がゆっくりと校門に向かって歩いている。

「あ、小松先生だ」

続いて小松明子が小走りでやって来た。

校門を出る直前に風間に追いついた小松は、何やら風間に話し掛けているが、ここからでは当然何を言っているのか分からない。


恐らく、ニュースのことを問い質しているのだろう。


風間は後ろをむいたまま小松の話を聞いていたが、少しすると小松の方を向いた。その後、再び背を向け、歩き始めた。


小松は校門から出ていく風間を呆然と見つめている。


小松は5分ほどすると教室に戻って来た。

「どうでしたか?」

茜が身を乗り出して訊いた。

「ええと。。。」

小松は少し躊躇した後、

「認めたわ」

と言った。

再び複数の女子生徒から悲鳴が上がる。

理恵はショックで言葉を失った。


その日、意気消沈した理恵が帰宅すると母ののぞみがテーブルの上に雑誌を広げ、紅茶を飲んでいた。外食が趣味の希は、京都と滋賀のレストランを紹介する月刊グルメ誌の『Green』を購読している。


理恵は雑誌の上に風間に渡す予定であったチョコレートを置いた。

「お母さんにあげる」

希は雑誌から視線を上げ、理恵を見た。

「でも、このチョコは転校生の子にあげるんじゃなかったの?」

「その予定だったけど・・・」

「何かあったの?」

と言いながら、希はチョコレートに手を伸ばした。

「何でもない」

「あなたらしくないわね。いつもお母さんには何でも話してくれるじゃない」

希は星の形をしたチョコレートの包装紙を丁寧にむくと、口に入れた。

「おいしい」

希の顔がほころぶ。

理恵は幸せそうな希の顔を見て、大事なことを思い出した。

「そう言えば、お母さんって太秦の撮影所で働いているのよね」

希は撮影所で事務の仕事をしている。朝の9時から午後の3時までのパート勤務であった。

「そうよ」

希は二つ目のチョコレートを口に放り込んだ。

「今日、大変なことが起こったでしょ?」

理恵が恐る恐るきくと、希は目を丸くさせ、

「もうニュースになってるの?」

と驚いた。

「うん」

「でも、松本君は軽傷で済んだし。結局事故だって私は聞いたわ、本人から」

「え?事故?どういうこと?私はその人が楽屋で若い男と斬り合いをしたって聞いたけど」

「私も最初はそう聞いたけど、本当は違うんだって」

「何が違うの?」

「実はね、私、聞いたのよ。別に盗み聞ぎしてたわけじゃないのよ」

希はもったいぶって、なかなか肝心なことを言い出さない。それどころか、再びチョコレートに手を伸ばした。

理恵は辛抱強く希の口でチョコが溶けるのを待った。

理恵は我慢できずに催促した。

「それで、何を聞いたの?」

「病院から戻ってきた松本君がね、警察に言ったのよ。楽屋で殺陣の練習をしていたら、相手の手が滑って刀が松本君の腕に掠っただけだって。相手の見習いの俳優は無傷だったらしいわ。事故だから大事おおごとにしたくないし、被害届も出さないってさ」

『ウソ!風間君は大怪我を負っていたわ』

理恵はよほど怖い顔をしていたのだろう。希から、

「あなた、何でそんなに怒っているの?」

と言われてしまった。

「ううん。別に」

理恵は残りのチョコレートを鷲掴みにすると、逃げるように階段を駆け上がり、自分の部屋に駆け込んだ。














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