第2話 謎の転校生
13年後の2018年7月10日、梅雨が明け、蒸し暑い夏が京都にやってきた。
この日の正午、京都で指折りの繁華街である河原町通りと新京極通りをつなぐ小道で、中年の男性の惨殺死体が発見された。刃物による切り傷と刺し傷が数多く残っていた。そして、この殺人事件の被害者の頭部の横に、なぜかカラスの羽が置かれていた。
先週も同じような事件があった。やはり、カラスの羽が置かれていた。どちらの事件も犯人はまだ捕まっていない。
そのため、インターネットのニュースサイトには、『現代の人斬り以蔵』やら、『和製切り裂きジャック』等のセンセーショナルなタイトルの記事が次々にアップされていった。
しかし、京都御所のほど近くにキャンパスを構える赤松学園高校の校庭では、放課後、運動部の生徒たちがいつものように練習に励んでいた。
自称帰宅部の坂本理恵が、いつものように、軟式テニス部の練習場のそばを通り抜けようとしたときのことだ。
勢いよく飛んできたボールが、理恵の右頬を直撃した。
「痛い!」
理恵は右頬をさすりながら、足下に転がった軟式テニスボールを恨めしそうに見た。
「ごめーん、理恵。痛かった?」
艶やかな黒髪をポニーテールでまとめた三島茜が駆け寄ってきた。
『当たり前だろ』
と理恵は思ったが、ミス赤松学園であり、クラスの人気者である茜を目の前にして、
「大丈夫。平気だよ」
と笑顔で強がった。頬は手で隠したままだ。
「本当?ちょっと見せて」
茜は理恵の手をどかし、ボールが直撃した右頬を見た。そして、
「あー!ボールの跡が残ってる!スゴイ!本当にごめん」
と言い、ペコリと頭を下げた。しかし、その顔は笑っていた。
理恵は茜の態度にはらわたが煮えくり返る思いだったが、
「気にしなくていいよ。本当に大丈夫だから」
と言って、小走りで退散した。
離れていく理恵の背中を睨みつけながら、
「あの鈍感さがムカつくんだよね」
と茜は吐き捨てるように言った。
その頃、京都市の北部に連なる山々の奥地では、若い男が息を切らしながら全力で走っていた。
背丈は180センチ近くはありそうだ。線は細いが、筋肉がバランスよく身体についており、アスリートのような体格だ。
鹿のごとく大地を蹴り、飛ぶように走っている。
表情には少年のあどけなさが残る。前髪は目にかかるほど伸びており、二重の瞼ととび色の瞳を隠している。筋の通った鼻と目の間には少しそばかすが見える。
そして、この若い男は、紺色の上下の剣道の道着を身にまとっていた。
右手には黒い弓を持ち、背中には白い矢筒を背負っている。
すると、逃げるように木々の間を駆け抜けているこの若い男を、次々と矢が襲った。
男は矢を寸前のところでかわし、チーターのようにしなやかに加速した。そして、前方に跳ぶと、横を向きながら空中で矢筒に手をかけ、弓を構えて矢を放った。
男が放った矢は同じように弓を構えた白装束の老人の左の頬をかすめた。
老人の左の頬から血がすっと流れる。
老人は笑みをたたえると、
「天め。ガキのくせに手加減しおって」
と言った。
理恵は賀茂大橋の欄干に手を掛け、鴨川を見ながら深く溜息をついた。
『あーあ、今日もつまらなかったな。なんで学校に行ってるんだろう、私。2年も同じ学校に通っているのに彼氏どころか友達もいないし。。。』
そのとき、理恵はなぜか誰かに見られている気がした。それは、今まで感じたことがない、突き刺すような視線であった。慌てて周りを見渡したが、買い物袋を下げた中年の女性、団子を頬張りながら歩く外国人観光客の一家、自転車に乗った板前姿の中年の男性、スマホに夢中の男子高校生など、怪しい人物は見当たらなかった。空を見上げれば、いつものようにトンビが弧を描いてゆっくりと気持ちよさそうに舞っていた。
その翌日、高校に入学してから初めてとなる「刺激」が理恵を待っていた。
朝のホームルームの時間、担任の小松明子が長身の男子学生と一緒にクラスルームに入ってきた。
絵に描いたような美少年の存在に、女子生徒がざわついた。
高身長で、モデルような体形の転校生にクラス中の視線が集まる。小柄の小松との身長差は30センチ近くはありそうだ。転校生を前にした男子生徒が、嫉妬を通り越し、諦めの境地に達するほどの端正な顔立ちであった。
しかし、転校生はどこか冷めた目つきをしていた。
『ちやほやされるのに慣れているんだろう。どうせ、私とは別世界の人間だわ』
と理恵は心の中で呟いた。
そのとき、謎の転校生が理恵の方をまっすぐ見た。
理恵は一瞬ドキッとしたが、すぐに視線を外すだろうと思った。しかし、転校生は理恵をじっと見つめていた。
理恵は後ろを振り向いた。自分のような地味な女を直視する理由がないと思ったからだ。しかし、一番後ろの席に座る理恵の後ろには、当然誰もいなかった。
担任の小松明子はざわつく生徒たちを見渡すと、
「静かに」
と言った。
生徒たちは徐々に落ち着きを取り戻し、全員が前を向いたところで小松は、
「ええと、こちらは転校生の「
と言い、風間の方を向くと、
「それでは風間くん、簡単に自己紹介してもえるかしら」
と声をかけた。
「・・・」
しかし、風間は何も言葉を発さず、相変わらず理恵を見ていた。
「ええと、風間君、自己紹介をお願いします」
小松が催促したものの、風間が口を開くことはなかった。
それどころか、戸惑う小松には目もくれず、一番後ろの列まで歩いていくと、空いている席に勝手に座ってしまった。
理恵の隣の席であった。
天は学校指定の革の鞄を無造作に机の上に置くと、鞄の上に肩肘をつき、再び理恵を見つめた。
奥手の理恵には刺激的過ぎる展開であった。
『キャー!ちょっと、何なのよ!イケメン過ぎる!見ないで―!』
と、理恵が心の中で絶叫すると、風間は驚いたような表情を見せ、慌てて前を見た。
その様子を三島茜が眉間にしわを寄せて、悔しそうに見ていた。机の下で作った握りこぶしが怒りで小刻みに震えている。
放課後、茜は隣のクラスに行き、野球部でエースとして活躍する佐々岡太一を呼び出した。佐々岡は茜に好意を寄せている大勢の男子のうちの一人であった。
「佐々岡君。ちょっとお願いがあるんだけど」
「お、オレに、お願い?」
佐々岡は、全男子生徒の憧れの的である茜に声を掛けられたこと自体が信じられなかったのか、自分を指さした。
茜は佐々岡の指を右手で握ると、
「そう。私のお願い、聞いてくれる?」
と佐々岡の目をじっと見つめた。
佐々岡は顔を紅潮させ、
「ハイ、もちろんです。何でもします!」
と答えた。
いつものように坂本理恵が鴨川にかかる加茂大橋を渡ろうとしたとき、後ろから肩を叩かれた。
振り向くと、隣のクラスの佐々岡太一が阿修羅のような顔で仁王立ちしていた。
「お前、茜様を悲しませたらしいな」
「?」
理恵には全く心当たりがなかった。
「え、そうなんですか?」
「ああ。だから落とし前をつけさせてもらうぞ。ちょっと橋の下に来い」
そう言うと佐々岡はそそくさと河川敷の階段を下っていった。
理恵が躊躇していると、既に遊歩道まで下りていた佐々岡から、
「早く来やがれ!」
という怒声がとんできた。
『もう、全く何なのよ』
理恵は仕方なく階段を下りていった。
橋の下まで行くと、佐々岡は制服のズボンのポケットから、バリカンを取り出した。赤松学園高校の野球部は部員に坊主頭を強要していないものの、佐々岡は昔気質の野球少年のようで、頭を丸めていた。
佐々岡はバリカンの電源を入れた。
バリカンの刃が小刻みに振動する音が橋の下に響く。
理恵の顔が青ざめる。
対照的に佐々岡は無表情で、
「頭をだせ」
と機械的に言った。
「嫌です!」
理恵は首を大きく横に振った。
「駄目だ、頭をだせ!」
佐々岡は声を荒げた。
「絶対に嫌です!」
理恵も負けじと大きな声で拒否した。
すると佐々岡はバリカンの電源を切った。
「どうしても嫌か?」
「どうしても嫌です」
理恵は譲らなかった。
佐々岡は自分の身事な坊主頭を手で愛でながら、
「それなら、プランBだ」
と言った。
「プランB?]
理恵は首を傾げた。
「ああ。明日からお前の席を茜様の席と交換しろ。そうすれば、丸坊主の刑を免除してやる」
『そういうことか』
理恵は茜の狙いがようやく分かった。
茜はなぜか風間から一目置かれている理恵が許せなかったのだ。
いつもの理恵なら、当然、席を交換することを選んでいたはずだ。
しかし、今日の理恵は、この代案に乗らなかった。
「それも嫌です」
佐々岡のこめかみの血管がピクリと動いた。
「何だと?」
「席は交換しません」
理恵ははっきりと自分の意思を告げた。
佐々岡は困惑の表情を浮かべた。
茜からは、脅せば必ず言うことをきくはずだ、と言われていたのだろう。
困った佐々岡は右手のバリカンに視線を落とすと、電源を入れ、
「うおりゃーーー」
と叫びながら、プロレス技のヘッドロックのように、理恵の頭を左腕で押さえつけた。そして、バリカンを近づけていった。
ミツバチが飛ぶような音を立てて、バリカンが徐々に理恵の頭に近づいてくる。
『助けて!』
理恵は心の中で叫んだ。
そのときだ。
空から、正確には橋の上から、人が飛び降り、佐々岡と理恵の前にはらりと着地した。
風間天だった。
驚いた佐々岡が一瞬力を緩めた瞬間を見逃さず、理恵はヘッドロックから抜け出すと、風間の後ろに隠れた。
理恵に逃げられた佐々岡は逆上した。
「おい、なんだ貴様は!」
「。。。」
風間はこの緊迫した場面でも無口を貫くようだ。
「貴様、こんなつまらん女のために怪我をしたいのか?」
「。。。」
風間は表情一つ変えず、そして、瞬きさえせずに、佐々岡を視線で制していた。
橋の下には日陰ができているとはいえ、夏は夏である。
佐々岡の額から汗が流れ落ちる。
一方の風間は涼しい顔で佐々岡を見ている。
眉一つ動かさない風間に苛立った佐々岡は、
「このやろう。なめやがって」
と呟くと、バリカンを持った右手で風間に殴りかかった。バリカンの電源は入ったままであり、顔に当たれば大きな傷を負うことは容易に想像できた。
理恵は見ていられず、両手で顔を覆い隠した。
しかし、佐々岡のバリカンパンチは空を切り、勢い余って前につんのめった。
「て、てめぇ!」
渾身の一撃をかわされた佐々岡が次々と焦ってパンチを繰り出す。しかし、佐々岡の攻撃は一度も風間に当たることはなかった。
意地で攻撃を続ける佐々岡だが、徐々に疲れで動きが遅くなっていく。
そのとき、
「おい、お前たち、何やってるんだ!」
と言う叫び声が橋の上から聞こえてきた。
理恵が見上げると、制服を着た交番勤務の警察官が身を乗り出し、理恵たちを見下ろしていた。
凶器を持つ佐々岡は、息を切らしながら、
「運のいいやつだ。今日のところは、これで、勘弁してやる」
と言い残すと、北へ向かって遊歩道を千鳥足で歩いていった。
「おい、こら!逃げるな!」
再び橋の上から警官の声が轟いた。
『まずい。私たちも逃げなきゃ!』
理恵が心の中で風間に訴えかけると、突然、風間は理恵の右手を握った。
「え!?」
理恵の鼓動が急激に早まる。
「ちょっと、風間君」
慌てる理恵を全く気にせず、風間は何も言わずに南に向かって遊歩道を走り出した。
佐々岡の連続攻撃をかわし続けていた割には、風間の手は全く汗ばんでいなかった。
風間は速かった。
恐らく本気では走っていないのだろうが、それでも全力で走る理恵よりも遥かに早かった。徐々に理恵の足の回るスピードが落ち、理恵は遅れをとりはじめた。すると、風間は徐々に速度を緩めてくれた。
そして、賀茂大橋の一つ南に位置する荒神橋の下に来ると、風間は止まった。
風間は握っていた理恵の手を離した。
理恵は肩で息をしていたが、風間の呼吸は全く乱れていなかった。
相変わらず涼しい目で理恵を見つめている。
理恵は緊張して何も言葉を発することができなかった。
そして、ペコリと頭を下げると、階段を駆け上がり、逃げるように風間の下から離れた。
橋が見えなくなると、
『私のバカバカ!なんで助けてもらったのに「ありがとう」の一言もいえないのよ!』
理恵は本気で自分自身に嫌気が差したが、その一方で致し方ないとも思った。
何しろ、テレビでもなかなかお目にかかれない美少年が突然目の前に現れ、しかも、手を握られたのだ。
白馬に乗った王子というタイプではないが、その謎めいた雰囲気が理恵にとっては新鮮であり、そして、刺激的であった。
心臓の鼓動はなかなか収まらなかった。
理恵は立ち止まると、目を閉じた。そして、ゆっくりと流れる古都の空気を大きく吸い、吐いた。
『きっと偶然だよ。あんな格好いい男子がわざわざを助けに来てくれるわけないわ。期待しちゃダメだぞ、理恵』
理恵は自分自身にそう言い聞かせると、
「目を覚ませ」
と言って、頬を両手で軽く叩いた。
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