第80話 ムヌーグは隆起した瘤を駆け下りた

 町の外周を形作っていたビルはもはや影も形もなく、その代わりとばかりに大樹の真新しい外皮があるばかりだった。地下遺跡と言う名の世界樹の根っこは、その直上の建物を人々を飲み込んで、今や空いっぱいに枝葉を伸ばしている。

 ニコたちはそのバカ広い木陰を歩いてようやくその幹へと辿り着いた。

 幹の側は夜のように真っ暗い。

 しかし大樹の幹の、クレバスのように開いたひび割れの間から見えるわずかな光が、夜空の三日月のようにその幹の周囲を照らしており、前に伸ばした手が見えないというほどの暗闇にはならなかった。

 もっとも、そのひび割れから漏れる光が先ほどまでそこに建っていたさまざまなビルディングの燃えさしであることには、彼らは気づきもしなかった。

「……近くで見ると、もはや何も分からないな」

 ただその現実離れした存在感に圧倒されるばかりだった。盛り上がった根はちょっとした丘のようであり、ニコたちは苦労しつつそこを登ってようやく幹に辿り着いたのだが、近づけば近づくほど、それは生命の形ではなく大自然の地形にしか見えなくなっていく。

 そうして実際にその幹の肌を触るムヌーグは、隆起した断層によって作られた崖を触っているような感覚であった。

「ニコ」

「なに?」

「終わったのか?」

「……うん、終わった」

 風が吹く。

 夜がざわめく。

 未だ生長を続ける世界樹ではあったが、それももはや遥か上空の出来事で、真下にいる彼らにはそれを感じることさえも叶わない。ただ、ここまで世界樹が生長すれば、もはや何物にもそれを切り倒すことはできない。

 そう思わせるには十分な、巨大さだった。

「彼らは、どうするんだ」

「どうするんだ、って言われても、僕には分からないよ」

 世界樹の幹の周囲には、人間が何人も打ち捨てられていた。ある者は気絶し、またある者は痛みに呻き、しかしそのどれもが軽傷で、まもなく何事もなかったかのように起き上がるだろう。エミは心配そうに辺りを窺い、その首につけられた人間用の首輪を見ては、悲しい顔をしていた。

 しかし、亜人は誰一人としていなかった。

 ムヌーグは言葉には出さなかったものの、世界樹の生長から逃れた(あるいはもっと穿って世界樹が自身の生長から逃した)者が人間だけのように見えることに、何も言わなかった。気づいた素振りすら見せなかった。

 ただ、この世界樹というものは、何かをして人間と亜人とを分別することができ、そして人間だけを外に排出するだけの機能があったのだという確信のようなものがあった。

「世界樹の上に人間が住んでいるなんて、初めて見たから」

 赤い宝石のついた杖を見ながら、ニコが言う。

 世界樹の杖と呼ばれるそれは、先端についた赤い宝石のまぶしいほどの輝きをいつしか失っていた。あの真っ暗なエレベータの中をその宝石の光で照らすことがなかったのを思えば、恐らく世界樹を起動するのにそこに溜まっていた力を使い果たしたのだろう、とムヌーグは推測した。

「そうか」

 短く呟き、幹から手を離すと、ムヌーグはニコとエミを両脇に抱えて瘤のように隆起した世界樹の根っこを駆け下りた。

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