第76話 真っ暗なエレベータ内を、進んでいった
その箱は、光を全て吸い込んでいるかのようだった。ただ目の前にある一点、ニコが出口と言う一点の光のみが彼らの行く先として輝いている。ムヌーグは自身の指先すらも見えない暗闇の中を、互いにその一点の光に向かって走っていることに一抹の不安を感じていた。
「ニコ」
「大丈夫、小さい頃の僕でもちゃんと歩ききれたから」
わずかに前の方から返事が聞こえて、そこにニコが確かにいることを認める。そうしなければ、どこに誰がいるのか、あるいは歩幅の違いでぶつかりはしないかとそわそわするのだった。
皮膚感覚が、ない。
先ほどの重力が反転する透明の球体にあっては、皮膚がその異変を捉えられた。あるいは、何物かが肌の触れ合うほど近くにいれば何かしら皮膚がその感覚に異常を伝えるはずだった。それは人間よりもより敏感であり、また羊の亜人であるシーピープのメリヤスも例外ではない。メリヤスの方は肌ではなく、自身に生える体毛でさえ敏感に捉えるはずであるのに、また彼にとってもこの皮膚感覚のなさは初体験であった。
地面を踏みしめる足裏の感覚のみ残して、周囲は伽藍堂の空間にさえ思えた。空間自体が光を吸収し、真っ暗闇の只中にあるように感じられるのでなおさらだった。
「声を出し続けていないと、どこに誰がいるのか不安になりますねえ」
メリヤスがつぶやく。
しかし誰も返事をしない。
「エミ、聞こえる?ちゃんと出口に向かって歩いてね」
ニコが少女に語りかける。
だが返事は返ってこない。
「何か変だ。何かをしゃべっても、誰も返事がない」
ムヌーグは、その一方通行の言葉たちに違和感を覚えた。
だというのに、いやむしろ「だから」と言うべきだろうか、彼女の望んだ返事は返ってこなかった。
「ニコ……ニコ!」
ムヌーグが不安げにその人間の名前を呼ぶ。
「とにかく、あの光に向かって歩いて。今はそれしか言えないから」
ニコの声が聞こえる。
この「エレベータ」と呼ばれる空間は異常だ。おそらくそれは亜人二人の共通の認識であったが、それを語り相談する手段が、ない。
心の中に湧きたつ不安をそれぞれの胸裏に秘めながら、ニコの言った通り、ただその出口と呼ばれる光の一点に向かって進むしかない。
「助けて……」
ふいに、メリヤスの耳に声が響いた。
「どうしたのですか?」
それは、人間の少女の声だった。
エミがまたどこか怪我したり、あるいは転んでしまったりしたのだろうか。メリヤスはその場に立ち止まり、声のした方へ腕を伸ばしてその少女の姿を探ろうとした。
「進んで!」
ニコが叫ぶ。
「信じて!」
叫び声は、急激に遠くなっていく。出口の方に向かう声は、こだまのようでさえあった。
「しかしですね、エミを放っておくわけにも」
そういうメリヤスの足首が、何者かに掴まれた。
「ん?」
ふりほどこうにも、足の動く気配がない。足首をがっちり掴まれて、地面から離せなくなってしまっている。
「……どういうことですかねえ」
「――ッ」
遠く、出口の方からニコの叫び声が聞こえる。しかしそれはもう叫び声だということが分かるだけで、その言葉の内容までは分からなかった。あまりにか細い声のようなものが、ただ耳をふるわせるだけだった。
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