第58話 キリガミネは、小首を傾げて微笑んだ

 うつ伏せに倒せるオーインクの萎んだ身体を、体に自由が戻ったメリヤスが検分する。

「どうやら、気絶しているだけのようです」

「そうか」

「大丈夫だよ、じいさん。やりすぎやしない」

 モルーギの返事にニコが付け足す。老翁としては、むしろ亡き者にしてくれた方が幾分かマシだった。ロ=ノキの不自然なパワーアップが、ニコの持つ杖の力だとしたら、その杖が奪われてしまえば再びこの萎んだオーインクに強大な膂力が付与されてしまう。

「とにかく、今はこの場をすぐに立ち去るぞ」

 ダメージに笑う膝を手のひらで諫めつつ、モルーギはゆっくりと立ち上がる。ニコが傍らに置いたムヌーグの応急手当もしたいところだが、そうも言っていられない。

「きっと、もう間もなくロ=ロルが、来る」

 契約更新の場にあって、ロ=ロルだけが妙な頭脳の冴えを見せていたのを、モルーギは鮮烈に覚えていた。オーインクにあるまじき百術千慮の思考力は、恐らく彼を即座にこの屋敷へ足を向かわせるだろう。例え他のオーインクたちがモルーギの家に向かおうとも、長老のオーインクが彼に命令し、他のオーインクに付いていくよう言ったとしても、今のロ=ロルはそれを無視してでもこちらにやってくる可能性は高いように思われた。

 そして、その確信めいた悪い予感は、見事に的中する。

「ちッ」

 玄関の三和土の向こう、少女が失禁した跡の残る更に外、太陽を背負った大柄の人影から、下品なフィンガースナップを思わせる舌打ちが聞こえた。

 逆光に、ロ=ロルの姿がそこにあった。

「なんだ、ロ=ノキも伸びてやがらあ」

「彼は所詮、一端のオーインクに過ぎませんからね。あの杖を手にした人間に勝てるはずがありません」

 ロ=ロルの影から、にょきと伸びるもう一つの影。

 その影は、オーインクのそれに比べて二回りは小さく、細長い。長方形の体から、ストローのように細い手足が伸びたシルエット。動きは天井から吊り下げられた人形のようにどこか不格好。

「おっとロ=ロルくん、それ以上は踏み入れない方が、いい。今はまだ、彼の方に分がある」

 ロ=ロルが玄関に足を踏み入れようとしたその時。

 ニコは間合いを見て、玄関先のオーインクに飛びかかり、ロ=ノキにしてやったのと同じように杖を突きたてる予定であった。しかし、ロ=ロルの影から現れた影によって、ロ=ロルの足は止まり、ニコもまた、不用意に飛びかかれなくなった。

「だれ……?」

「誰?とは心外ですね。私は君と同じ、人間ですよ」

 そして、大柄のオーインクが足を止めた代わりとばかりに、長方形にストローを刺したような影が、踊るような足取りで玄関から入ってくる。

 逆光に隠れた顔が現れる。

 口元から頬にかけて薄ら笑いを浮かべたまま、深々とニコに向かってお辞儀をする。その慇懃無礼を絵に描いたような姿に、それを見たその場の全員が、心に妙なささくれを起こすのを感じた。

「やあ、ニコくん。初めまして。私は、人間解放同盟の構成員が一人、キリガミネと申します」

「人間解放同盟だって!?」

 声を荒げてメリヤスが驚く。

「どうして、人間解放同盟とロ=ロルが一緒にいるんだ」

「ロ=ロル様、だろうが!このインギン羊!!!」

 逆光に隠れたロ=ロルの口から、咆哮のような大音声が発せられ、その場全員の鼓膜を震わせる。

 ニコは、そっと膝を折って、足の親指の付け根に重心を移した。

「ニコくん、私はキミの敵ではありませんよ」

 小首を傾げて歪に微笑むキリガミネと名乗った男。しかし、その慇懃な態度は、達観を極めたピエロのように、どこまでも人間を小馬鹿にしたような印象があった。

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