第57話 ニコは、片足で床を踏み抜いた

 叩き潰したはずの人間は、しかしロ=ノキの手のひらの内で明らかに形を残していた。羽虫が石の硬さを思わせるそれに変わったのを感じて、巨躯のオーインクは額の前で拝む形のまま、そっと両手を目の前まで持ってくる。

「……はァ?」

 素っ頓狂な疑惑の声。

 拝み潰したはずのニコの体。ロ=ノキの両手からはみ出したその四肢も、その頭も、ピンピンしている。

「間に合った」

 ニコが呟く。巨躯のオーインクの手のひらの中にあって、その体には傷一つついていない。それどころか、先ほど受けたダメージさえも回復しているかのような顔の艶めきを見て、ロ=ノキは先ほど起こった一瞬の攻防の真意を悟った。

「吸った……のか!?」

「返してもらったんだよ」

 ニコが両腕に力を込める。拝む形になっていたロ=ノキの両腕はあっという間に広げられ、合板床に転げるようにニコが落ちる。

 その下にいたムヌーグを拾い上げると、ニコはすぐさま態勢を整え、片足で床を踏み抜いた。

 合板床は、オーインクのために作られた特注の建材だ。多少の加重や振動では破れないようにできている。まして、オーインクより二回りも小さい人間が、それを踏み抜いて傷をつけるなど、できようはずもない。

 しかし、今のニコにはそれができた。

 ニコが片足で合板床を思い切り蹴ると、そこだけ足跡がくっきりと残った。まばたき一つで漆喰壁に叩きつけられたモルーギの隣に辿り着き、その目の前にムヌーグをそっと横たえる。

「じいさん、ムヌーグをお願い」

「あ、ああ」

 何が起こっているのか、モルーギには見当もつかなかった。人間の、それもまだ子どものニコが、膂力でオーインクに勝てるはずがない。しかし、現に今、ニコは人間離れした筋力をもってロ=ノキの拘束から、自ら逃げ出した。

 逃げ出した……?

 モルーギはふと、この場には全く関係のない疑問が湧いた。

 ニコは、ロ=ロルの屋敷の地下牢に、一人幽閉されていたはずだ。片足を失い、不自由の中に生きていた。それが不自由と知りながら生きていた。いつかその地下牢から脱出するのを夢見て。

 しかし、この人間の少年が、どうやって脱出したというのだ。

 非力で、仲間もいない。敵だらけの屋敷の中を、彼を閉じ込める地下牢から、どうやって脱出できたというのだ。

 できたのだ、この人間の少年は。

 やろうと思えば、いつでも脱出できたのだ。

 それが、杖の力なのだ。

「やっつけてやる」

「なァにがやっつけてやるだ!人間の分際で!!!」

 おもむろに立ち上がるニコに、ロ=ノキが吠える。両腕を身体の横につがえて、前のめりでニコに向かって突進する。しかし、その勢いは、そのオーラは、先ほどまでの血気盛んな姿から一回りは小さく見えた。

「僕のものを、返してもらうぞ!」

 覆い包むようにしてニコを捕まえようとする大柄のオーインク。その脇の下をスルリと抜けると、ニコはその丸まった背中、背骨の浮かぶ正中線に向けて、もう一度、杖の先端を突き立てた。

「ぐあアァッ!」

 背骨から、ビリビリ響く激痛が神経を焼く。激痛は一瞬でロ=ノキの全身に広がり、全身に広がった痛みは、波が収束するように痛みの始点に帰っていく。

 突き立てた杖の先端。

「あッ、ああ……ッ!」

 一瞬の激痛はすぐに引き、しかし全身の神経が痺れているのをロ=ノキは悟った。視界さえも真っ白く塗りつぶされて、自分が立っているかどうかすら、定かでない。

 頬に何かが強かに打ちつけられた。

 その冷たく固い感触が、合板床だと分かるころには、ロ=ノキの体はさらに一回り小さくなって、他のオーインクたちと大差ないほどにまでサイズダウンしていた。

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