第56話 モルーギは、ニコを投げ飛ばした

「なんだよ、小便臭えのがいるじゃねえか」

 一際大きな鼻をスンと鳴らして、ロ=ノキが眉間にしわを寄せた。狼の亜人に比べて嗅覚はそれほど発達しているわけではない。しかし、その残忍なオーインクは、人間の少女が失禁するとすぐさまそれに気づいた。

「ああ、臭え臭え。人間臭え。本当に、人間っていうのは、なんでこんなに臭いんだ」

「ぅ……」

 ロ=ノキの、ムヌーグの首を絞める力が強くなる。

 銀髪の女狼は、もはや抵抗する力も失って、彼の手首に突き立てていた両手の爪すらもそこから離れ、だらんと垂れ下がってしまう。

 その、ロ=ノキがほんの一瞬、人間の少女に意識が向いた隙に、ニコは片足で立ち上がり、モルーギに向かって駆けていた。

「モルーギ!僕を投げて!」

 体全体で突進するようにモルーギに向かって駆けるニコ。ぴょんぴょんと片足で器用にバランスを取りつつ、時々杖を持っていない方の腕を使って、更に速度を増す。

 そんな涙ぐましい努力も、本気を出した巨躯のオーインクの前には焼け石に水なのだが。

「人間ってのは、人ン家のゲンカンで小便するなと教わらなかったのかねえ」

 優位の揺るがないロ=ノキにとっては些末なことに過ぎなかった。

 ロ=ノキは片手にモルーギの首を握ったまま悠然と人間の少女に向かって歩き出す。

「こいつも、ころしておくか。どうせ大した権利も持ってない、クズ同然の人間だからな」

 不用になったゴミ同然の扱いとばかりに、ロ=ノキは人間の少女の頭を人差し指と親指でつまむと、グラスでも持ち上げるかという手軽さで持ち上げた。

 同時に、ニコがモルーギの下に飛びかかるように到着する。

「モルーギ!」

「投げるんだな!?」

 それに一体何の意味があるのかは分からない。しかし、投げろと言うのなら投げる。

「アイツに向けて!」

「分かった!」

 片手にひょいと足裏を乗せると、モルーギは全身をバネと化して、ロ=ノキに向けてニコを投げ飛ばす。

「聞こえてんだよッ!」

 背中の方で画策する二人に対し、ほとんど気絶した銀狼を持つ手を、振り払うようにして後方に薙ぐ。

 ムヌーグの身体が、首からグワリと振り回されて、手足からゴキリと鈍い音が鳴った。

「あアッ!!」

 脱臼だ。

 その振り回されたムヌーグの身体が武器となって、投げられたニコを叩き落とす算段。ロ=ノキの中ではそうなるはずだった。

「単純」

 真剣な目で、モルーギがロ=ノキを見据える。同時に振りかぶった腕が、今度こそニコを巨躯のオーインクへと投げ飛ばす。

 ロ=ノキが聞いていること、反撃することを織り込み済みで、狼の老翁はあえてニコの大声を咎めなかった。それがおとりになることも理解していた。

 次の動作を行うよりも先に、ニコがロ=ノキの身体に接近する。

「やああッ!」

 バランスを保つために空中で一回転し、短い杖を両手で持ったニコは、ロ=ノキの眉間に向けて思い切り杖の細い方を振り下ろした。

 ニコの姿を捉えようと上向いたロ=ノキの眉間に、ニコの杖先が強かに突き刺さる。

 次の瞬間、杖に着いていた宝石が淡く光って、ロ=ノキに巡る血気を、一瞬にして眉間から吸い出し始めた。

「ウガァッ!?」

 全身から急激に熱が奪われていくような感覚に襲われて、ロ=ノキはわずかに身震いした。

 絞めていたムヌーグの首から手を離し、その場に縊り殺し捨てようとしていた人間の少女をつまむ手も使い、眉間に杖を突きたてるニコに向かって羽虫を叩き潰すように両手で横から叩きつぶす。

 バチンッ。

 玄関先の広間に拍手の音一つ。

 オーインクの膂力であれば、それで人間など、まさしく羽虫一匹殺すように潰れひしゃげてしまうだろう。

「ニコ!」

 モルーギが叫んだ。

 しかしロ=ノキの眉間で身動き一つせず杖を突きたてていたニコは、その場を微動だにできなかった。

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