第55話 ムヌーグの顔色から、血の気が引き始めた

 なぜ少女をその場に置いていかなかったのか。

 モルーギの自問自答はロ=ロルの屋敷に辿りつくまで頭からかき消えることはなかった。しかし、屋敷の入口に立った時、その靄のような悩みは文字通り雲散霧消した。

 それくらい、目の前の光景は衝撃的だった。

「なんだ、ロ=ツチは戻ってこなかったか」

 ムヌーグの首を掴み持ち上げる筋骨隆々のオーインクは、屋敷の玄関を見ることもなく呟いた。

 上半身をはだけたオーインクは、肌に浮き出る血管がドクンと脈打っているのが分かるほどに、全身に血を、生気を漲らせていた。

「ぐ……ッ」

 酸欠で赤みを帯びたムヌーグの顔が苦悶に歪んでいる。首を掴むオーインクの手首を握りしめて、その鋭く尖った爪を食い込ませているが、当のオーインクは滲む血に痛みも感じる様子はない。

「何をしている!」

 その場に少女を置き去りにして、一閃、モルーギは巨躯のオーインクへと駆ける。

 その目の端に、ニコとメリヤスがいるのを捉える。その、わずかに気の反れた刹那を、毛ほどの隙も見逃さず、オーインクは後ろ回し蹴りで制した。

 モルーギの体が地面と水平に飛んで、ニコの隣を通り過ぎ、漆喰の壁にうちつけられる。

「ぐッ」

 強か背中を打って、目の前に火花が散る。

「モルーギ!?」

 ニコの声が聞こえると、モルーギは目をギュッとつぶって頭をふり、膝立ちになって目の前の光景を改めて確認する。

 銀髪の女狼の首を掴む巨躯のオーインクは、黄ばんだ歯を剥き出しにしてムヌーグの首を絞め続けている。

 あり得ない光景、とまではいかないが、銀狼ムヌーグがオーインクに後れを取るなど、モルーギには考えられなかった。それに……。

「役者はそろったみたいだなあ」

 血管を浮き立たせて歪な笑みを浮かべるロ=ノキは、ムヌーグを掴む腕をグイと持ち上げた。首からわずかに漏れる呻き声が、悲痛さを物語る。

「ロ=ノキ……」

 メリヤスが呟く。その名を聞いて、モルーギは驚きに目を見開いた。

「ロ=ノキだと?こいつが……?」

 残忍なオーインクの中でも特別残虐なロ=ロルの一族、その中でも武闘派を率いるリーダーがロ=ノキである。その姿はモルーギも見たことがあるが、これほどまでの巨躯ではなかった。

「ニコ、羊……逃げろ」

 ロ=ノキの締めつける腕に指を食い込ませて、ギリギリ保った意識と気道から、ムヌーグが声を絞り出した。

「ムヌーグ!」

 狼の老翁が叫ぶ。

「さすが、犬ッコロは人間に献身的だなあ」

 手首に鋭い爪を食い込ませて、健気にも自分よりも人間の方を優先し逃がそうとするムヌーグに、ロ=ノキが侮蔑の言葉を浴びせかける。ほんの少し、絞める握力を強くすれば、それでこの銀狼は事切れる。そんな優位が彼を鷹揚にさせていたし、またそれが許される状況でもあった。

 事態は相当に逼迫している。

 まさか、とは思ったが、モルーギはそれを認めざるを得なかった。ロ=ノキの膂力を認めていなかった訳ではない。しかし何か不自然な力が、今の彼の体内を巡っているように見える。

 助けてもらおうと思ったわけではないが、こちら側の状況がこれほどまでにピンチであるなどと、想像だにしなかったのだ。

「ぐ……ぅ……」

 ムヌーグの顔色が、赤から徐々にその血の気を失っていく。意識を留めておくのも限界に近い。

 モルーギの連れてきた人間の少女は、玄関の三和土で座り込み、それらのやりとり全てを、視覚を失った状態で、つまり暗闇の中で聴覚と振動だけで感じ取っていた。

「あ……え……」

 抵抗の出来ない恐怖が、人間の少女のキャパシティを超えた。

 涙は出なかった。

 ただ、その場に失禁するだけだった。

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