第29話 女狼は、豊かな胸を持ち上げて腕組みをした

「えっ?」

「おいおい、嬢。何を言っているんだ」

 男二人が揃って驚く。

「そうだよ。僕が行ってもムヌーグの足手まといになるだけだよ」

「違う」

 ニコの言葉をピシャリと遮って、ムヌーグはゆっくりと椅子に座り直す。その威圧に言葉を失って、スプーンがオムライスの上にポトリと落ちた。

「お前は、楽をしようとしているな?」

「楽……?」

「……嬢はまたそういう幻想を押しつける」

 豊かな胸を持ち上げるように前で腕組みをするムヌーグに、老翁が頭が痛いとばかりに溜め息をついた。

「ムヌーグ、人間にお前の理想を押しつけるのを止めなさい。お前の考えるような人間など、この世にはいない」

 人間解放共同体にはいるかも知れないが、という言葉は胸の内にしまう。

 普段から彼女の抱く理想の人間像というものを聞かされていたモルーギは、今まさに彼女がニコに同じ理想を押しつけようとしているのが分かったのだ。

 亜人を見下すでも、人間を卑下するでもない、互いに真正面だけを向いて、同じ目線で物事を見ることができる関係。あるいは、向き合うだけではなく、同じ目標に向けて眼差せる関係。

 しかしそんなものは同種族の亜人同士でも難しい。いわんや人間と亜人の間にそんな関係が成立するはずがない。必ずどちらかがどちらかに依存し、おもねり、あるいは驕る。それはモルーギの経験してきた人生の教訓のようなものだ。

「ニコはまだ子どもだし、それに人間なんだ。お前が代わりに杖を取ってくるくらい訳ないことだろう。それをコイツに取って来いだなどと、それこそ大人げない」

「翁、それは違う」

「何が違う?」

「楽をすることが悪いとは、私も言わない。でも、一度易きに流れれば、今後窮地に立たされた時に同じように安易な道を選ぶだろう。ニコ」

 徐々に目を伏していたニコは、呼ばれた途端、電にあてられたように面を上げた。

「お前の進む道は、そんなに安易な道なのか?」

「……でも」

「でもじゃない。言い訳なんか聞きたくもない。お前は今、自分の弱さを言い訳にして強い者におもねろうとしている。虎の威を借る狐が世界を救う?ちゃんちゃら可笑しい。そんなお前に救える世界なんて、ない。もしお前が本当に私に頼り切って杖を取ってきてもらおうと言うのなら、私はお前の目の前で杖を叩き折ってやるよ」

 言い放つムヌーグに、一切の表情は無い。ただ、全身の毛が逆立っているかのような威圧感が、ニコに向けて放たれている。椅子に座りながら、その足先が地面を力強く掴んでいる。

 何か一言でも間違ったことを言ってしまえば、たちまち噛み殺されそうな、圧力。

 唇が戦慄き、ニコは呼吸すらままならなかった。

「とりあえず、その殺気をしまいなさい、ムヌーグ。ニコがすっかり怯えている。俺ン家のリビングで小便を漏らされたらかなわん」

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