第3話 少年はニコと名乗った
森の木々を軽快に飛び移って進むかのように、銀髪の女性は町中を飛び渡った。
壁を蹴り、屋根を伝い、柱に片手をかけて方向転換し、あっという間に町の端に到達する。
町は、その周囲を簡易な柵で覆われていた。
それは外と内とを分けるものであり、知性ある者はその内にのみ住むことを許されている。ひとたびその柵の外へと出てしまえば、命の保証はない。
柵の向こうは、開けた草原と、その向こうに深い森、そしてその更に奥を望むと薄青い山々が見えるだけであった。
「ここまで来れば追手もしばらくは来られまい」
わずかに息をきらした銀髪の女性は、そこでようやく小脇に抱えていた少年を解放した。
乱暴にドサリと落とされたことで、少年は自分の身体が自由になったことに気づく。手足に地面を感じると、少年は矢庭に立ち上がろうとした。
「おい、大丈夫か?」
しかしそんな簡単な動作ですら今の少年には叶わなかった。
女性に抱えられている間じゅう、視界は常にシェイクさせられていた。不安定な体勢のままで四肢はこわばり、体のあちこちが悲鳴を上げている。
「行かなきゃ……」
「行かなきゃ、ってどこにさ?」
だからと言って少年の決意が揺らぐこともなかった。
未成熟の赤ん坊がはいはいをするように動き出す少年を、銀髪の女性が軽々と持ち上げる。そこで女性はようやく少年が隻脚であることに気づき、同時に彼が人間であることにも気づいた。
「何だ、お前人間だったのか。四足体勢で逃げていたからてっきり亜人かと思ったのに……」
ゆっくりと少年を地面に下ろす。
少年は、いまだ定まらぬ視界の中、それでも片足でふらふらと立っていた。
二人向かい合って立ち、女性はしげしげと少年を見、少年はその場をすぐにも立ち去ろうと体の向きを変えようとして、再び失敗して転んだ。
「あ、ほら。まだ本調子じゃあないんだろう?」
やれやれ、と言った様子で女性が再び少年を起こそうとしたところで、少年はその手を払った。
銀髪の女性は片眉をあげて、それから抑揚のない低い声で少年に問うた。
「お前、名前は?」
「……」
少年は、地面に顔を向けたままだ。
「名前は、って聞いてるんだ。助けてやったんだから、そのくらい答えてくれてもいいだろう?」
「……別に、助けてくれって言ったわけじゃあない」
「……ふうん?」
匍匐前進で進もうとした少年の髪を掴んで、銀髪の女性は強引に少年を引き寄せた。強引に向かい合うように首を動かすと、少年の顔は痛みに歪んでいた。
「確かに私は気まぐれでお前をあの場から逃がした。だがお前は人間だ。人間は本来の持ち主に返すのが、この町のルールになっている。……今、お前の生殺与奪を握っているのが私だってことは、間違えるなよ?」
そのまま仰向けになるように髪の毛を離す。
いとも簡単に体勢を変えられて仰向けにさせられた少年は、犬が服従を表すかのように、あるいは地面を背に追い詰められるようにして、銀髪の女性に向かって腹を見せるしかなかった。
その場に立っている女性が、陽光を受けて少年を見つめている。
冷ややかな表情で、それ以上何も言わず、ジッと見つめている。
仰向けに寝転んだままの少年は、しばらく口をもごもごさせていたが、やがてそっぽを向きながら答えた。
「……ニコ」
「ニコ?」
「僕の名前だよ。ニコって言うんだ」
「珍しい名前だ。人間なのに亜人みたいな名前をしているんだな」
銀髪の女性はそう言うと、腰をかがめて、ニコと名乗った少年に手を差し伸べた。
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