シズクは黒髪をいじりつつ、ゆっくりとはなしはじめた。


「……昨日の夜、外が結構騒がしかったでしょ?じつは、が出ている」


 僕にとっては、どちらも初耳だった。昨日の夜は寝室で、__研究所ここのベッドで、ひどい幻覚にうなされていてそれどころではなかったからだ。

 言われてみれば確かに昨日の夜は、外出を控える旨のの緊急放送が流れたり、所長が妙に顔をしかめながら衛士トラノメと話していたり、いつもは見られない妙なざわめきがあったといえばそうだった。

 そのようなことを思い出した僕は、しかし一つの違和感を覚えた。


 。この街から?


「……未遂ですか?」


「いいえ。まんまと逃げられちゃったのよ」


「この街に衛士がいる理由は、外に被験者を逃さないためじゃなかったでしたっけ」


「手厳しいわね。睡眠不足?」


 頬を膨らませながらこちらを見返す彼女の顔は、やはり笑っていなかった。疲労、眠気、そういった類とは違うものが、その顔から輝きを奪っていた。


「……正直、眠いです。すみません」


 だがまあ、彼女がいてと、衛士である彼女本人が言ったのだ。それなりの理由があるのだろう。


「そういうわけでさ。今晩までには、しっかり睡眠摂って、体調は万全にしておいてね」


 ……今晩?

 飛躍を感じた僕は、____いつもどおりだと思いながらも、聞き返す。



「夜に、なにかあるんですか?」


「手伝い」


 思考が止まる。シズクさんにはこういうところがある。器用、万能、有能で、裁量もヨシ……かどうかは、今まで僕がこき使われてきた経験からはわからないが。ともかく、僕よりもそこそこ年上の比良シズクという彼女は、昔からあまりにだった。そんな彼女の欠点は、唯一つ。、人にペースを合わせないこと。



「手伝いって、シズクさんのですか?」


 彼女はさも平然と頷いた。耳元すらもわがままに光っていた。被験者という飼い犬身分で生きている僕にはピアスなど縁遠いものである。


 彼女の話した内容について僕は頭を抱えざるを得なかった。



 ”今晩、手伝って”


 ……自由時間である午前中から夕方までならまだいい。

 しかし、僕は被験者。夜は所長のためじっけんの時間である。

 所長が彼女自身の研究と、外部から委託された研究を、僕の体を使って行う時間。遊びに行く感覚で誘われても、すでに予定が埋まっていることは確かだった。


 この彼女も既に知っているはずの事実を、どうやって彼女にそれとなく伝えるべきか。……ああもういいや、こうしよう。

 

「無理です。所長祥子さんに先、話通してください。僕が決められることじゃないんで」


 できれば、一週間くらい前くらいがいいのではないだろうか。


「……けどあの人、私に激アマじゃん。今から乃守ののもりクンの意思聞いて、それからでもいんじゃない?」


 たしかに。ものすごく仲が良かった。


 所長、添木祥子そえぎしょうこは権力が人並みに好物だ。そして、美女が好きで、彼女の魔法研究に興味を示す人、魔法に精通する人が大好きだ。


 そして比良シズクは、その全てにおいて当研究所の所長の条件を満たす。


 ____始めてこの研究所にシズクが足を踏み入れてからだいたい半年が経ったが、今ではこうやって厄介事を持ってきたり、気軽に朝食を摂りにくるほどには気楽にやってくるようになった。……ここは大洞街、研究の街で、万が一を防ぐために規律高い。フリーダムな往来は、昼の市街地だけでいい。



「……ですけど、所長も無条件に行かせてはくれないと思うんですよね。僕のことを借り出すのなら、それなりに理由はほしいんじゃないですかね」


「それは、たとえば? デートとか言っとけばいい?」


 真顔。見つめ合って三十秒。苦笑すらない。


 ____どれだけ理性と美貌で上塗りされていようとも、比良シズクという凶暴性が僕の目からは消え去らない。

 それは彼女が僕に感じる異物感とも類似したもの。


「……納得してもらえると思うなら、どうぞ」


「じょーだんですよー」


 上ずった声は、徹夜明けの喉が起こしたエラーだと思う。


 ____僕の言いたかったことは、「せっかくモルモットを貸すのだから有効利用してみてはどうだろうか」という、以前所長がこぼしていた独り言によくまとめられている。


北 乃守きたののもりの体はなのだから。




「……じゃあそういうわけで、お願いを聞いてくれるってことでいい?」


 そういって彼女の白い片手がスラリと僕の腕をつかもうとするが、それを避けて、僕はまだ逃げの言葉を繰り返した。


「いや、普通にやりたくないんですけど。なにやるかも聞いていないし」


「いーじゃーん!」


 こちらの腕をつかもうと次々と出してくる両手を躱しながら……、この人このまま席立って掴みかかってくるんじゃないか? ____諦めて右腕を掴ませて、それから言った。


「大体、シズクさんだったら僕の助け要らないでしょ。お願いが何であったとしても、どのみち一人で解決できるんじゃないですか。一人でやっといてくださよ」


「……なんか今日、思った以上に厳しくない?」


「そうですかね?」


 

 お互いに寝ていない、この極限状態で会話しているのだから多少言葉が荒くなっているだけ。そういうことだ。



「……まあ、私にも苦手なことがあるわけ。 出来ないことだってあるし、誰かとやったほうが楽なことも、ね。今回は二人でやりたくて、乃守クンと一緒にやりたい仕事だから」



 前のめりになった、琥珀色の瞳。見開くわけでも、にらみつけるわけでもないシズクの目は僕のことを釘付けにした。いつのまにか絡め取られていた両腕は、柔らかく、ほどけない。


 今、必要とされていた。……それも、シズクさんかてないひとに。


「じゃあ、お願いについて詳しく、教えてください」


 よし。そんな安堵が聞こえて、すぐさま彼女は戦闘服のポケットから小型の通信端末を取り出し机にのせた。


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