第4話

 土日を挟んで月曜日、空半さんは数日ぶりに図書室へやってきた。

「こんにちは」

 ぼくは努めて平静を装って、小さな声で挨拶をした。空半さんは会釈せず、にやにやしながらずんずんとぼくのほうへ歩いてきた。あまりにゆるぎない歩みにぼくの脆い平静は一瞬で破壊された。

 空半さんはメモ帳を取り出し、左手に持ったペンでさらさらとなにかを書いて、それを破いてぼくによこした。そこには『あなたの眼鏡、わたしに一度掛けさせてはもらえないかな?』とあった。

『なぜ筆談なのだろう?』という疑問と『この眼鏡のことがバレると、ぼくは嫌われてしまうかもしれない』という気持ちが同時に生じた。度が入ってなく、なにより世界から色を奪う眼鏡なんて、ふつうじゃない。小説だったらおもしろい設定かもしれないけれど、ぼくたちが存在するこの世界は、現実だ。きっと気味が悪いに決まっている。

 沈黙しているぼくを空半さんがじっと見下ろしていた。しばらくして彼女が先ほど差し出したメモにまたなにか書いてぼくに返した。そこには小さく綺麗な文字で『ダメ?』と書かれていた。

「あの……ここ図書室ですし、あんまりおしゃべりはよくないですけど、その……小さな声なら問題ないですよ。メモ帳ももったいないですし……」

「あれー? 私にはこないだダメって言ってなかったけー?」

 ぼくの言葉を司書教諭室で耳聡く聞いていたらしいみゆき先生が大きな声で言った。本当にあの人は……。

「みゆき先生はあんまり先生らしくないので、気にしないでください……」

 ぼくの言葉に空半さんはくつくつと喉を鳴らすようにして笑った。独特な笑い方だなと思った。モノクロの視界がシャッターを切るみたいに、ぼくの記憶にそのときの彼女の表情が色濃く焼き付いた。女性耐性というか人間耐性があまりに脆いぼくに、空半さんの笑顔がクリティカルヒットした。本で読んだことがある。これが一目惚れというものだろうか?

 空半さんは口に手をあて喉を鳴らすようにして笑いながら『ダメ?』と書かれた部分を指差した。丸く整った爪がとてもかわいいと思った。

「ダメじゃないですけど……あっ、そうだ。もしよかったら先に名前教えてくれませんか?」

 ぼくの言葉に空半さんは胸ポケットから下がる名札を指差した。目を丸くしてこちらを見つめている。

「いや、あの……本当に失礼なんですけど、ずっと読み方がわからなくって……」

 すると空半さんはまたメモ帳になにか書こうとしたので、ぼくはその手を止めて自分のかばんからノートを一冊取り出した。

「あの、もしよかったらこのノートに書いてくれれば……」

 言ってぼくがノートを開くと、そこには前に空半さんからもらった、ぼくのスケッチが描かれたメモが挟まっていた。ぼくはまた赤面して、すぐにそれを自分のポケットに入れた。その様子に空半さんがまた笑った。それからぼくのノートのすみっこに小さな文字で『絵、うまいっしょ?』と書いた。彼女は案外自信家らしかった。


 空半さんの正しい読み方は『そらなか』であるそうだった。ぼくは長年の謎が解けたような気持ちになり、とてもすっきりした。そんなぼくの様子を見て、空半さんは『さぞ読みにくかったろう?』と書いた。ぼくは「そんことないですよ」と言おうとして、しかし実際読み方がわからなかったのだから、それを言っては嘘になるなとひとりごち、どう返していいのかわからなくなり黙ってしまった。

 苗字の読み方だけでなく、ぼくは空半さんから彼女のことについて、さまざまなことを教えてもらった。彼女は、ぼくよりひとつ上の二年生で、ぼくの先輩であること。部活動は美術部に入っていること。そして、たいへんな眼鏡好きであること。彼女曰く、ぼくの眼鏡はあまり見たことがないらしく、おしゃれとは言い難い野暮ったさがたまらないそうだ。

『おしゃれとは言い難い』と本人を目の前にはっきり書いた先輩の誠実をぼくはしっかり胸で受け止めた。ダメージがなかったと言えば、それは嘘になるだろう。

 空半先輩が二年生になったころ、当時描いていた絵の参考資料にと動物図鑑を探しに図書室を訪れた際、ぼくを見つけたらしい。『一目惚れだった』と、彼女は照れもせずノートに書いた。「ぼくもおなじです」とは言えなかった。

『それからわたしは、日々きみの眼鏡を観察すべく、部活動を中抜けしては通い詰めていた、というわけだよ』

 空半先輩は小さな文字でさらさらと書いて、ぼくを見た。さっきから少し気になっていたけれど、先輩はなぜずっとなにかを気取った文体なのだろう……。

空半先輩はぼくに対して、もうすでに自身の欲望を隠すつもりがないらしい。いまは堂々とぼくを凝視している。正確には『ぼくの眼鏡』を、だけれど。

「あの、そんなじっと見られたら、恥ずかしいんですけど……」

 戸惑うぼくから、しかし空半先輩は一切目を逸らそうとしなかった。

『で、ダメ?』

 空半さんは再度ノートに書いて、とんとんと二度ほど左手の人差し指で文字を叩いた。

「あの、一度考えさせてもらえませんか?」

 ぼくはどうするべきかわからなかった。この眼鏡のことを知れば、きっと空半先輩はぼくを気味悪がるに違いない。きちんとオーラのことを話したとしても、それは逆効果に過ぎないだろう。だって、そんなことはふつうありえないことなのだから。

 ぼくの様子をしげしげと眺めた空半先輩は一度大きく頷いて、ノートにさらさらとなにか書き始めた。長文だ。ぼくはしばらく先輩の文字を書く手を眺めていた。書き終えた先輩が大きな鼻息をひとつ吐いて、その長文に手をかざした。どうやら『読め』という合図らしい。ぼくはそっとノートを覗き込んだ。

『得心いった。そりゃそうだろう。ついこないだ知り合ったどこぞの馬の骨ともわからぬ奴に、ずっと生活を共にしてきた相棒をそう易々と貸してあげることなどできないわな。いやいや、眼鏡好きとして、これは大きな失念。たいへん失礼した。きっときみの眼鏡愛はわたしのそれに優るとも劣らない大きなラヴだ。お互い今後とも精進していこう』

 空半先輩は少し不思議な人なのかもしれない。いったいなにを目指しているのだろうか。ぼくがノートを覗き込んで固まっていると、空半先輩はさらになにごとか書き加えた。

『ピーエス、いつかきみがわたしに相棒を預けてもよいと思える日が来たのなら、そのときは言ってくれ。わたしは明日からも足繁くきみのもとにかよう』

 追加された文章を読み、ぼくは先輩を見上げて首を縦に振った。それを見て、空半先輩も一度大きく頷いた。それから先輩は最後にもう一度だけノートの端になにごとか書き加え、ぼくに手を小さく振って図書室を出て行った。

『ピーエスのピーエス、夏休みが明けたら転校します。ゆえ、それまでにきみのすてきな眼鏡、どうかご一考ください』

 ノートの端には、ほかに比べ少し乱雑な字で、そのように書かれていた。


 下校して家に帰ってからも、ぼくは先輩との筆談跡が残るノートをぼんやり眺めていた。白色の紙に黒いインクが乗っているのだから、眼鏡を外しても見え方が変わるわけではないのだけれど、ぼくはモノクロ眼鏡を外してノートを眺めていた。先輩の文字は、見れば見るほど綺麗でかわいらしく思えてくる。

「いつになく勉強熱心ねえ」

 台所に立つ母さんがぼくの様子を見て言った。薄い緑色のオーラが控えめに輝いている。

「筆談ってしたことある?」

 ぼくはノートを眺めながら母さんに尋ねてみた。

「そうねえ、学生のころに何度か祐介さんとしたぐらいかしらねえ」

母さんはぼくに背を向けたまま言った。キャベツを一定のリズムで刻み続ける音が心地よい。

「父さんと? どんな話をしたの?」

 父さんの話題になるとは思わず、ぼくはノートから顔を上げた。ぼくは父さんの記憶がほとんどない。ちらと仏壇のほうを見ると、笑顔の父さんの写真が目に入った。あと十年もしないうちにぼくの年齢は父さんを追い越す。

「まだお互い学生だったからほとんど覚えてないわ。他愛ない話だったと思う。絵しりとりとかよくしたわねえ。祐介さん、とびきり絵が下手でね」

 母さんが変わらず一定のリズムでキャベツを刻みながら言った。オーラに少し暖色が差していた。母さんは過去を懐かしんでいるみたいだった。

「そのノート、まだ残ってない?」

「もう十年以上前のことよ? どっか行っちゃったわ。けど、残しとけばよかったわねえ」

「筆談はいいね。手紙とも少し違う気がする。ライブ感かな? そのときの会話がものに残るっていうのは、なんだか少し不思議だ」

「女の子?」

 なんの気なしに聞く母さんがぼくは心底恐ろしかった。いままでの会話にそんな脈絡はどこにもなかったはず……。みゆき先生といい、やはり大人は恐ろしい。

「急になんの話ですか?」

 顔が熱くなっていくのがわかる。すぐに赤面してしまうのは、どうにかして治せないだろうか。次に病院へ行ったとき、先生に聞いてみよう。

「なんの話って、なにが?」

 母さんの声がわずかに上ずった。ぼくをおもしろがっているようだった。平静を繕うべく、ぼくは傍らに置いてあった眼鏡を掛けた。一気に世界がモノクロになり、幾分か気持ちの落ち着いていくのがわかった。

「ところで、今日のごはん、なに?」

 話題の転換にしては少し強引だったろうか。母さんがくすくす笑っている。母さんのオーラも連動してゆらゆらとゆれていた。

「進展したら教えてね」

「だから、なにが?」

「良介みたいにオーラが見えなくてもね、自分の息子がなにを隠してるかなんて、母さんには手に取るようにわかるのよ? 家族ってそういうものですからねえ」

 ぼくはノートを閉じ、一度深く息を吸ってから再び尋ねた。

「今日のごはん、なに?」

 キャベツを切り終えた母さんがお皿になにか盛り付けて食卓の上に置いた。

『トンカツヨ』

お皿には数本の千切りキャベツでそう書かれていた。

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