第5話

『で、先日の件、考えてくれたかね?』

 図書室に現れた空半先輩は、入室するや否やぼくのノートにそう記した。あいかわらず文字が小さくかわいらしい。

『事情は昨日のとおりだ。わたしにはもう時間がない』

 空半先輩は矢継ぎ早に書いた。ぼくは先輩の顔を見ることができず、手元に散らばる返却本の山に視線を落としながら応えた。

「あの……ぼくはなんだかんだ先輩に嫌われたくないといいますか、その……ぼくの眼鏡というのは少し特殊でして……」

『嫌われる? 話が見えないな。特殊というのは、どういうこと?』

 ぼくの言葉を受け、先輩がノートに殴り書いた。ペンを乱暴に置き、こちらを見つめている。ちらと見上げると、鼻の穴が少し膨らんでいた。先輩はぼくを凝視したままで『特殊』の下に二重線を引いた。なにやら興奮しているらしい。

「ああ、いや、そんな大層な特殊さではないんですがっ!」

 空半先輩の思ってもいない反応に戸惑い、ぼくは慌てて訂正した。先輩は先ほどのメモをぐるりとマルで囲んで、数回とんとんと叩いた。興味津々である。

 もうあとには引き返せないのかもしれない。ならば、腹を括るほかない。ぼくは意を決して言った。

「あの……ぼくのこと、気持ち悪く思わないでくださるとありがたいのですが……」

 覚悟を決めてなおこの小声。つくづく自分が嫌いになる。ぼそぼそとなにごとかを言うぼくはさぞ気持ち悪いだろう。顔を真っ赤にして俯くぼくに先輩がノートを叩きつけた。

『まったくなんの話かわからんが、きみのことを気持ち悪がったりはしません! だから、眼鏡、プリーズ。はよ!』

 顔を見ると、やはり長い前髪で先輩の目は隠れていたけれど、なにやら笑っている。観念しよう。ぼくはモノクロ眼鏡を外し、受付のテーブルに置いた。

「どうぞ……」

 言って空半先輩を見上げると、彼女はぼくがいままで見たことがないような黄色に包まれていた。いままでの黄色が黄色でなかったような黄色さ。それは、きっとぼくと、ぼくをこんなふうにした神さま以外誰も見たことがないような黄色だった。人はなにかをこんなになるまで好きになれるのか……ぼくは先輩のオーラがあまりにすごくて、目を離すことができなかった。

 太陽のように輝く空半先輩は、差し出された眼鏡に固唾を飲んでいるようだった。数カ月に渡り図鑑と図鑑の隙間から観察し続けた眼鏡がいままさに自分の手に渡る瞬間。ぼくにはわからないが、先輩にとっては歴史的瞬間なのだろう。空半先輩はそっとぼくのモノクロ眼鏡を手に取り、掛けた。

「あっ、先輩の目、はじめて見た」

 思わず心の声が漏れてしまっていた。先輩の目は大きなアーモンドのかたちで、黒目が少し茶色がかっていた。眼鏡を外して色に敏感になっていたせいかもしれないけれど、ぼくは先輩の目の色をとても素敵だと思った。

 ぼくは空半先輩に見惚れていた。一方で先輩は絶句していた。牛乳瓶の底のような分厚いレンズ二枚の奥にある二つの大きな目はくわっと見開かれ、直立不動で、なぜか口がぽかんと開いてる。先輩の表情にぼくははっとして、大きな声で叫んだ。

「ぼくはっ! 先輩のことがっ!」

 言いかけて、途端に気持ち悪くなってきた。よりにもよって空半先輩のオーラで色酔いするなんて……。先輩は変わらず不動で、目だけをこちらに向けている。最悪だ。一世一代の告白の極度の緊張も相まって、吐瀉物が酸っぱい胃液とともにものすごい勢いでぼくの食道をせり上がってきていた。だいたいこのタイミングでの告白は違うのではないか? もっと脈絡というか積み重ねというか……いやいやそんなこといまはよくって……とにかくまずい。空半先輩との会話も、きっと今日が最期になるのだろうか。ぼくにとって、それはとてもかなしい出来事になるだろう。つらい。目が湿り始めた。この状況で泣くなんて、好きな人の目の前で吐くなんて、格好悪すぎて泣けてくる。

「やっと見つけた。楓(かえで)、おまえこんなとこでなにやってんだ! さっさと美術室戻ってこい!」

 図書室の扉が乱暴に開かれ、静かな図書室内に怒声が響いた。みゆき先生は出てこない。どうやら留守のようだ。

「モデルが急にいなくなったら描けねえだろうがっ!」

 図書室の扉の前に絵の具で汚れたエプロンを掛けた男子生徒が立っていた。先輩とおなじ美術部の人だろうか。オーラが赤黒い。とても怒っているみたいだ。ぼくは吐き気を堪えながら男子生徒の顔を見た。

「山田くん……?」

「あっ? 誰おまえ……? おら、楓、行くぞ!」

 空半先輩は突如現れた男子生徒に強引に手を引かれ、ぼくのモノクロ眼鏡を掛けたまま図書室から連れ去られた。

「あ、ちょ、眼鏡……」

 言いかけて吐き気が限界に達し、ぼくは図書室の床に昼食のトンカツサンドをぶちまけた。

「ういー、ただいま戻りましたーって、大丈夫? 今川くん!」

 空半先輩たちと入れ違いに図書室へ戻ってきたみゆき先生の声に安心したのか、吐いたことで少し気分が良くなったからか、ぼくはとても眠くなった。

「空半先輩が……眼鏡を……」

 その言葉を最後に、ぼくは気を失った。

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