第3話

 そして現在、ぼくは高校生になった。今年の春に入学して、もうすぐ夏休みだ。

満員電車もモノクロ眼鏡のおかげでなんとか克服できた。色酔いも以前に比べ、ずいぶん頻度が少なくなった。オーラはあいかわらず見えているけれど、モノクロだとそれもそんなに苦ではなかった。

 モノクロ眼鏡を掛けてから困ったことを強いて言うならば、信号を待つ際に最初ほんの少し戸惑ったことぐらいだ。けれど同時に誰かの親切にも気付いた。信号機にわかりやすいイラストを加えたことは、とても配慮の行き届いた、優しさに溢れた心意気だと思う。

 高校では、中学のころとおなじで部活動には入らなかったけれど、ぼくは図書委員になった。友達はあいかわらずいないけれど、その代わりとても話をする先生がひとりできた。

 図書委員になって間もないころ、司書教諭のみゆき先生は挨拶にきたぼくを見て「今川くん、まさに図書委員って感じだね」と、褒めているのか貶されているのかわからないことを大声で言った。

 みゆき先生はだいたい四十代ぐらいだと思う。髪が短くて、体育の先生でもないのにいつもジャージを着ている。それでいて読書家で、ぼくとは比べ物にならないぐらい博学だけれど、やたらに声が大きい。『司書教諭』のパブリックイメージとはずいぶん違うみゆき先生のギャップがぼくは好きだった。先生とのくだらない話は、ぼくにとって数少ないたのしみのひとつになっている。

 放課後は、図書室が閉まる午後五時三十分まで受付に座ってずっと本を読んでいる。人はあまり来ない。

『図書室では静かに』なんて注意もほとんどしたことがない。したとしても、それは多くがみゆき先生に対してだった。

「今川くん、きみはいま青春時代真っ盛りなんだぞ。本もよいけど、外の世界も素晴らしいことばかりだ。きみがいつも受付に座っていることは実際とても助かってるけど……部活動とかどうよ? 私、剣道部の顧問してるんだけど」

「先生、声が大きいです」

 ぼくは受付に座って返却された本を棚別に整理していた。

「べつにいいじゃない。いま図書室にいるの私と今川くんだけだし」

 みゆき先生はデスクチェアの背もたれにおなかとあごを預けていた。このだらしなさは教師として少しどうかと思う。

「それは司書の先生にとって、よいことではないんじゃないですか?」

「昔と違って、いまは本よりたのしいことなんて山ほどあるじゃない? 無理にカッコつけて読書するより、自分がたのしいと思うことをするほうがよっぽど有意義だと思うわ。ケータイのアプリとか、今川くんも好きでしょ?」

「携帯電話、持ってません。ぼくは本が好きです」

「いまどき珍しいわね。まあでも、今川くん見た感じからいかにもアナログってオーラが漂ってるもんね。きみぐらいだよ、毎日図書室にかよっている生徒なんて」

「えっ? 先生もオーラが見えるんですか?」

 ぼくは少し驚いてしまって思わず声が大きくなってしまった。

「あら、今川くんオカルト的なことも好きなの? なんか意外ねー」

 たとえの話よ、とみゆき先生は付け加え、そりゃそうだよなとぼくはひとりごちた。

 そんな話をしていると、女子生徒がひとり図書室へやってきた。

「こんにちは」

 小さな声でぼくは言う。図書室にやってきた生徒に挨拶することは図書委員の仕事のひとつでもあるのだ。最初は恥ずかしかったけれど、いまではなにも思わず言えるようになった。歩幅は小さくても、ぼくだって少しずつ成長している。立派な大人になりたいのだ。

 女子生徒は軽くぼくを見て会釈し、図鑑が並ぶ本棚へと歩いていった。ぼくは図書室の壁にかかる時計をちらと見た。時計は午後四時を少し回っていた。

「先生、図書室に毎日来るのはぼくだけじゃないですよ」

 振り返り小声でそう言うと、みゆき先生はもういなかった。受付の奥にある司書教諭室兼みゆき先生のサボり部屋に戻ったらしい。

 本を借りに来る人は、決まった人たちばかりだった。ぼくは彼らに勝手な親近感を覚えているけれど、話しかけたりはしない。もとよりそんな勇気は持ち合わせていなかったし、なによりみんながあまりぼくに興味がないことが見えてしまうから。ぼくにはそれが知りたくなくてもわかってしまう。本当に困った能力だ。

 しかし、さっきの女子生徒はそうでもないのだ。とても不気味だ。彼女の苗字は空半さん。胸ポケットから下がる名札にそう書いてあった。ぼくは、彼女の苗字の正しい読み方を知らない。下の名前も、何年生なのかもわからない。

 空半さんは長くて綺麗な黒髪が特徴的だった。それはぼくの眼鏡越しからでもよくわかった。前髪も長く、顔はよく見えなかったけれど、本当に毎日やってくる。しかし不思議なのは、彼女が一度も本を借りたことがないということだった。

 空半さんは毎日図書室にやってきて、ぼくの座る受付に向かい合った図鑑の本棚でなにか探しているふりをして、たぶんぼくのことを本棚の隙間から窺っている。図鑑なんてほとんど誰も借りないし、読みたいものが貸し出し中であることも考えにくい。ぼくは彼女に声をかけてみようと思ったことがあったけれど、怖くて未だできないでいる。

 なぜ空半さんは毎日ぼくを窺いにやってくるのか? 思い当たる節もなく、謎は深まるばかりだった。ぼくは気付いていないふりをして、彼女のほうへ視線をやった。すると眼鏡がずれてしまって、世界が一気に色を取り戻した。同時に空半さんのオーラを見てしまった。彼女のオーラはとても綺麗な黄色だった。

 ぼくはずれた眼鏡をくいと定位置に戻した。レンズが大きい分、少し重いのでモノクロ眼鏡はよくずれ落ちてくる。そのときには世界の半分が鮮やかで、もう半分がモノクロのよくわからない世界になる。自分のことがなによりもわからないちぐはぐなぼくには最もお似合いな世界なのかもしれない。

 それにしたって、なんで黄色なのだろう? ぼくの研究によれば、黄色のオーラは誰かに好意を向けているときに出るものだ。空半さんはもしかして……いや、まさか! 

 ぼくはなにをひとり勝手に盛り上がっているんだろう。恥ずかしい。そんなことを思っていたら、空半さんはぼくに軽く会釈して図書室を出ていった。

 空半さんが出て行くのを見計らってみゆき先生が司書教諭室から出てきた。

「みゆき先生、いまさっきの人も毎日図書室来てますよ。まだ一冊も本借りたことないんで、ちょっと変わってますけど」

「ふーん、そーなんだー」

 みゆき先生がなぜかにやにやしながら言った。

「なにを笑ってるんですか?」

 赤くなっている顔を笑われているような気がして、ぼくは少し俯いた。

「んー? べつにー」

「先生、もしかしてなにか知ってます?」

「どーだろーねー」

 絶対になにか知っている。なんて意地の悪い大人なのだろう。

「あっ、そうだ先生、さっきの人、名札に『空半』ってあったんですけど、苗字なんて読むんですか?」

「さあ? 今川くん、レファレンスも図書委員のお仕事です。自分で聞いてみなさい」

 この先生はぼくが他人に容易に話しかけることができないのをわかって言っている。きっとぼくの困惑をたのしんでいるのだ。本当に意地が悪い。

「きっと明日もやってくるよ。そのときに聞いてみたら? さっ、そろそろ図書室閉めるよ」


 次の日、空半さんは午後四時を少し過ぎたころ、ひとり図書室へやってきた。ぼくは昨日から続く胸のざわめきを悟られぬよう努めて平静を装い、いつもとおなじ小さな声で挨拶をした。空半さんはそれに小さな会釈を返した。彼女はそのまま受付の向かいにある図鑑の本棚にいつものとおりに歩いていった。

 ぼくは返ってきた本の整理をしているふりをして空半さんに注意を向けていた。空半さんは昆虫図鑑と恐竜図鑑を少しずらして隙間をつくり、やはりぼくのほうを窺っているようだった。前髪が長く、今日も彼女の目は見えない。モノクロの世界でもはっきりわかるぐらい色の濃いオーラが彼女の周囲を照らしていた。ぼくから見える世界からでは、図鑑の本棚は遮蔽物としての意味をまったく成していなかった。

 いけないとわかっていながらも、ぼくはモノクロ眼鏡をずらして彼女のオーラの色を盗み見た。やっぱり黄色……いったい誰にそんな『好き』の気持ちを向けているというのだ? 背後にわずかな気配を感じ、ちらと受付奥の司書教諭室を振り返ると、みゆき先生がにやにやしていた。意地の悪い紫のオーラが先生のまわりで薄く輝いている。ぼくはこんな大人にはならないと心に固く誓った。

 十分ほどして空半さんは図鑑の本棚から離れ、図書室の出入り口のドアノブを握った。ぼくのほうを見て会釈した空半さんを見て、ぼくは咄嗟に声をかけていた。

「あの……なにか本をお探しですか?」

 ぼくの声に驚いたのか、空半さんはドアノブを握ったまま固まってしまった。背中に一本の棒が入っているみたいに背筋がまっすぐ伸びている。

少しすると、空半さんはその姿勢のままで顔だけをぼくのほうへゆっくり向けた。前髪が長く、あいかわらず彼女の表情はわからなかったけれど、口元はなぜか少し笑っていた。

「あ……いや、ごめんなさい。余計なお世話でしたよ、ね……?」

 ぼくは彼女に声をかけたことをすでに後悔していた。空半さんは本気でヤバい人なのかもしれない……。空半さんは、今度は身体ごとぼくのほうへ向け、ロボットみたいな動きでこちらへ近付いてきた。ぼくは想定外の出来事に目が回りそうだった。恐怖を感じている。慌てふためいていたのだ。

 空半さんは受付までやってくると、そのまま直立不動でぼくを見下ろした。いまもずっと笑っている。顔は、この距離でも長くて綺麗な黒髪のせいでまったく見えない。彼女の出で立ちには、まるで悪の組織の女幹部のような不気味さがあった。ぼくはどうしたらいいのかわからなくなって司書教諭室を振り返った。いつのまにか受付と司書教室のあいだの扉が閉められていた。あの野郎……。

 時間にしてだいたい一分ぐらいだったろうか。そのあいだ、ぼくらはヘビに睨まれたカエルとカエルを睨むヘビみたいに硬直していた。その緊迫する均衡を破ったのは空半さんだった。

 空半さんはおもむろにスカートのポケットに手を突っ込んで、小さなメモ帳を取り出した。ファンシーなキャラクターが表紙に施されたかわいらしいメモ帳だ。彼女は胸ポケットに刺さっていたペンを左手に取り、さらさらとなにか書き込んで、メモ帳から一枚のメモを破ってぼくに渡した。それから空半さんは深々とお辞儀をして、図書室を出て行った。

「ど、どういうことなんだ……」

 渡されたメモには、受付に座るぼくをスケッチしたらしいとても上手な絵があった。なぜか眼鏡だけ黄色のマーカーペンで描かれていた。それから絵のとなりには、小さくて綺麗な文字で『わたしはあなたの眼鏡がだいすき』と書かれていた。


 次の日、空半さんは図書室へやってこなかった。ぼくはその日、一日中空半さんのことであたまがいっぱいだったから肩透かしを食らった気分だった。昨日のあれは本当になんだったのだろう。

「まったく今川くんも隅に置けないねー」

 みゆき先生が司書教諭室からのそのそと這い出てきて言った。ぼくは慌てて昨日もらったメモを隠した。

「なにがですか?」

 ぼくは先生の顔を見ず言った。赤面しているのが自分でもわかるぐらい顔が熱かった。

「返却された本の整理、手、止まってるわよー」

「あっ! すみません」

「べつにお仕事じゃないからいいけどさー」

 言いながらみゆき先生は終始にやにやしていた。

「ずっと思ってたんですが、先生ってけっこう意地が悪いですよね。大人としてそれってどうなんですか?」

 ぼくはついカッとなって失礼な物言いをした。しかし、みゆき先生はにやにやしながらぼくに言った。

「お、思春期だねえ。眩しいねえ。よっ、青春!」

 みゆき先生は、どうやらぼくよりずっと上手(うわて)らしいことがわかった。さすが意地の悪い大人だけある。ぼくは今後、先生の意地の悪さに歯向かうことはやめようと心に決めた。

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