第2話

 中学生になる前に母さんと病院へ行った。母さんは「病気だったら治さないとね」とぼくに言って微笑んだ。母さんのもやもやはあいかわらず青色で、それは年を追うごとに濃くなっていた。

「ほかの人の気持ちが色になって見えるんです。ぼくはあたまがおかしいんでしょうか?」

 ぼくは心療内科の先生に聞いた。

「それは良介くんにとってイヤなことなのかな?」

 先生はボールペンでなにか書きながらぼくに尋ねた。

「ほかの人と違うのは恥ずかしいです」

「個性と思うことはできない?」

「個性ってなんですか?」

「ごめんね。少し難しかったね」

「教室にはたくさんの色のもやもやがあって、黒板が見えなくなるときがあるんです。ときどき気持ち悪くなるときもあります」

「それは困ったね。治したいのかな?」

 先生は引き続きなにか書きながらぼくに聞いた。

「はい」

 ぼくは応えた。


 中学生のあいだ、ぼくは病院へ通った。部活動には入らなかった。そのかわり本をたくさん読んだ。本を読んでいるあいだはもやもやが目に入らなくて少しだけ気分がよかった。白黒の文字とあたまのなかにひろがる世界にぼくは安らぎを見出していたのだ。

 もやもやのことは学校の一部の先生と家族以外に話すことがなかった。本ばかり読んでいたからか、友達は三年間ずっとできなかった。遠足も文化祭も修学旅行も心からたのしめたと胸を張って応えることはできない。それは少しだけ残念に思う。

 学校には事情を話して、ぼくは三年間ずっと教室のいちばん前の席で授業を受けた。おかげで、誰かのもやもやのせいで黒板が見えなくなることはなくなったけれど、マンガで読んだことのある早弁や居眠りのようなことは一度もできなくて、それは少し心残りである。

 日に日に他人のもやもやがよく見えるようになった。ぼくらはちょうど思春期に入る年齢で、悩むことが増えたからだと思う。誰かを想う色、妬む色、孤独を持て余す色、理由なく怒る色など、教室には常にいろんな感情でいっぱいだった。ぼくは時折気持ち悪くなってトイレで吐いたこともある。

 この現象をぼくは個人的に『色酔い』と呼んでいる。色酔いしてしまうときの光景は、見る人が見れば綺麗だと感じるのかもしれない。けれど、ぼくにはそれがとてもうるさく思えてしまう。他人の想いにはそれだけ強いものがあるのだ。ぼくは何度も自分の目を潰したくなることがあった。見えなければ、どれだけ気分が楽になるのだろうなんてことを考えた。けれど、世界にはずっと見ていたいような美しい光景があることもぼくは知っていた。どっちに突き抜けることもないぼくは、ただ悶々と日々をやり過ごした。

 中学生にあがったあたりから、ぼくは他人のもやもやを見るとき、なぜだか少し卑怯なことをしているような気持ちになった。『あの子はいまなにかに怒っているんだ』とか、『あの子はいまだ誰かに恋をしているんだ』とか、そんなことをクラスでいちばん目立たない、友達がひとりもいないような奴がやたらと知っているなんておかしいではないか。もしまったく知らない人に自分の気持ちがバレていたら、ぼくならきっといい気はしない。ぼくの能力は、中学生のぼくにとっては自己嫌悪の理由にばかりなった。


 中学生になったぼくは、このやっかいな特殊能力の研究をした。それは、少しでもこの能力を理解しようという気持ちと、これに向かい合うことでぼくは自分自身を知ることができると思ったから。ぼくはいつからか『もやもや』のことを『オーラ』と呼ぶようになった。

 オーラは人の身体全体から漂うようにして出ている。ぼくには少し光っているようにも見えた。オーラには基本になる四つの色があって、それはだいたい喜怒哀楽に分類できるということ。『喜』はオレンジ色、『怒』は赤色、『哀』は青色、『楽』は緑といった具合いだ。

 オーラの色は、色に基づく感情が強くなれば濃く、また弱ければ薄くなるみたいだった。また、さまざまな色が混じっていることも多かった。そのときオーラは、ぼくの知っている言葉ではたとえられないような色であることも多い。そして、オーラはあまりに強くなりすぎるとだんだん濁るように黒くなっていき、その感情を向けているものに対する興味がなくなると一気に透明になるようだった。

 また、オーラは直接ぼくの目でその人そのものを見ないと見えないということ。テレビや写真で見る人のオーラはぼくには見えなかった。

 最後に、ぼくは自分のオーラが見えないということ。当たり前のことだけれど、ぼくはぼくを自分の目でぜんぶ見ることができない。鏡に映るぼくを見ても、ぼくのオーラは見えなかった。鏡で見る自分は、テレビや写真を見るのとおなじようで、直接見ていることにはならないようだった。

 だからだろうか、ぼくは自分の気持ちがあまりわからない。自分の気持ちに関しては、胸のあたりの軽さや重さで判断するしかなかった。自分の感情が色で見えないという事実にぼくは時折不安になってしまう。自分の気持ちが色でわかったらどれだけ安心できるだろうと思う。


 ぼくのかよう高校は、ぼくの住む街から電車で二十分ほどのところにある。電車通学をするようになって、ぼくは人混みに入っていくことが多くなった。中学生のころずっとかよっていた病院は徒歩で行けるところにあったから、満員電車に乗ることも初めてだった。

 車内には、教室とは比べ物にならないぐらいの色で溢れていて、ぼくは電車のなかで吐いてしまったことがある。進路に悩む中学生三年生のころ、高校の体験入学に向かう最中のことだった。ぼくの周りからさっと人が離れていったのを覚えている。ぼくを見下ろす人たちのオーラは、一様に薄くて暗い桃色をしていて、すごい速さで明滅を繰り返していた。それを見てぼくは余計に気持ち悪くなった。それ以来、ぼくはかばんにエチケット袋を常備するようになった。

 色酔いに慣れることはなかった。色の氾濫する光景というのは、ぼくにとってはこの世の終わりのように見える。目を閉じても、その光景はまぶたの裏にべったり張り付いてなかなか離れてくれない。人の気持ちというのは、当たり前のような気もするけれど、人にとても影響を与えるのだ。

「このままだと、とてもじゃないけど高校にかよえないんです。なにか対策できないですか?」

 月に一度の通院時、ぼくは病院の先生に聞いてみた。

「眼鏡をかけてみたらどうかな? 視界が変われば対策できるかも」

 そう言って先生は掛けていた眼鏡を貸してくれた。さっそくぼくは掛けてみる。先生の眼鏡は度がとても強く、世界が歪んで見えた。ぼくはたくさん本を読んでいるにもかかわらず、両目とも視力は二・〇あった。

「どう?」

 先生がなにか書きながらぼくに尋ねる。ぼくは歪んだ世界のなかで目を細め先生を見た。

「いや、見えますね……」

 先生からは薄い緑のオーラが見えた。とてもリラックスしているらしい。ぼくは落胆のため息をついた。

 先生がなにか書く手を止めて、パソコンのキーボードを叩き始めた。

「どうやら世界をモノクロに見えるようにするレンズってのがあるみたいだね。このレンズなら良介くんが言うオーラそのもの消すことはできなくても、色を白黒にすることはできるかもしれない」

「色酔いを予防できるってことですか?」

「そうだといいね」


 先生の提案を試したかったぼくは、さっそく母さんに眼鏡をせがんだ。モノクロのレンズはとても高かったけれど、母さんは快くぼくの願いを聞いてくれた。

 ぼくと母さんは週末にふたり、福井県の鯖江市というところに出かけた。モノクロのレンズはとても高価なものだったから、一度試着をしようと母さんと話し合って決めたのだ。

 ぼくは『これでもしオーラが見えたらどうしよう……』という不安を胸に小さく抱えながら行きのバスにゆられた。

 旅行中、母さんは普段に増してごきげんで、オレンジ色のオーラがずっと母さんの周りを明るく照らしていた。ぼくはそれが不快ではなくずっと見ていたいと思ったけれど、年相応の気恥ずかしさみたいなものが邪魔をして、少しいじわるな態度を取ってしまった。あとでものすごく後悔したから、今後はなるべく控えようと思う。

 モノクロのレンズを取り扱う眼鏡店で、ぼくはさっそく眼鏡の試着をした。

「本当に世界がモノクロだ。古い映画みたいだ」

 ぼくはとても感動して、思わずひとりごとを言っていた。そのまま恐る恐る母さんのほうを見た。

「オーラも白黒だよ……すごい……」

「ほんとに? よかったね、良介」

 そう言って笑った母さんの顔をぼくはいまでも覚えている。残念だったのは、母さんの顔やオーラが白黒で、色がなかったこと。ぼくは、モノクロ眼鏡を掛けたことで起こる後悔をこんなに早く経験すると考えてなかった。あのときの母さんのオーラを見れなかったことを、ぼくはこれからも後悔し続けるのだと思う。ぼくの目から見える世界は、ときどきぼくの想像を超えて美しく映るときがある。こんなとき、ぼくは複雑な気持ちになる。

『個性と思うことはできない?』

 病院へ初めて行ったとき、先生に言われた言葉を思い出す。ぼくが自分の能力を個性と思えるまで、もう少し時間はかかりそうだった。


「このレンズはまだ発展途上のもので、加工技術があまり発達してないんです。だからどうしてもレンズが厚くなってしまって、それに合うフレームも数種類しかないんです」

 眼鏡店に勤める職人さんが説明してくれた。ぼくは昔から見た目に頓着しなかったのでまったく気にしなかった。

「これがいいんじゃない?」

 母さんが選んでくれた黒のフレームに牛乳瓶の底みたいなレンズを嵌めて、ぼくのモノクロ眼鏡は完成した。

「どう? 似合う?」

「なんだかちょっとかわいいわね。さすがわたしの息子」

 そう言って母さんはまた笑った。

 帰りのバスのなか、ぼくは車窓から白黒の日本海をぼんやり眺めていた。濃い黒色がうねうねと波打って、時折きらきらと水面を反射する日光が白く眩しかった。となりで眠っている母さんをそっと見つめる。灰色の薄いオーラが彼女の周りを覆っていた。眼鏡をずらして見てみると、世界の半分が一気に色を取り戻して、母さんの周囲が薄くてきれいな緑色に光っていることがわかった。

「色酔いばかりで気付かなかったけれど、これはこれでよい世界だったのかも……」

 胸のなかで呟いて、ぼくも目を閉じた。時折ゆれるバスの振動が心地よかった。

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