おとぎの国の君
久山橙
第1話
当時かよっていた小学校では、男の子たちのあいだで『たたかいごっこ』が流行っていた。クラスの男の子たちはみな日曜日の朝に放送されているヒーロー番組に夢中だった。
『たたかいごっこ』は、はじめに『正義のヒーロー』役を数人、『悪の怪人』役をひとり決める。ぼくはほとんど『悪の怪人』にしかなったことがない。当たり前だけれど、みんなやっぱり『正義のヒーロー』になりたいのだ。気の弱いぼくは『正義のヒーロー』チーム常連の子たちに「おまえがやれよ」と肩口をつよく押されてしまうと、もうなにも言い返すことができなかった。
語尾にこそ『ごっこ』と付いているけれど『たたかいごっこ』では実際にしっかりパンチやキックが直撃する。ヒーロー役が『世界を守る』という大義名分のもと、数人でひとりの悪役をボコボコにするのだ。ぼくはいつも為す術なくボコボコにされて、砂場のうえで『やられたー』と叫んだりしていた。数の暴力に悪役は勝てないのだ。いま思えば、あの遊びはまるで社会の縮図のようだった。
そんな『たたかいごっこ』で、あるときぼくも『正義のヒーロー』チームに入れたことがあった。なぜだか正義の味方たちに認められたような気持ちになり、とてもうれしかったことをいまでも覚えている。
そして、そのときの『悪の怪人』役が、ぼくよりさらに気の弱い、いつもひとり教室でパズルをしたり図鑑を眺めている山田くんだったことも。
「この地球を壊させるわけにはいかない」
「正義と勇気を力に変えて……」
「おまえをたおす!」
「くらえ!」
決め台詞を合図に、正義のヒーローたちは山田くんを取り囲みボコボコにし始めた。はじめて正義のヒーローの立場になり見る光景に、ぼくは戸惑っていた。とても悪の怪人扮する山田くんを殴る気持ちにはなれなかったのだ。殴られると痛いことを、ぼくはほかの正義のヒーローたちよりも少しだけ知っている気がしたから。
いつまで経っても加勢しないぼくを、ヒーローのひとりが怪訝な顔をして見た。
「はやくおまえもたたかえよ。それでも正義の味方か?」
彼はぼくにそんなことを言ったような気がする。
「遊びでも、やっぱり殴るのはかわいそうだよ」
ぼくは小さな声でそんなことを言ったと思う。
「おまえは悪者のスパイだったんだな!」
彼はそう言って、ほかの仲間にもそのことを伝えた。ぼくはすぐ正義のヒーローたちに囲まれ、ボコボコにされた。
『たたかいごっこ』が終わり、ぼくと山田くんは砂場に大の字で寝転がっていた。正義のヒーローたちは大きな笑い声をあげながら教室へと戻っていった。世界の平和は今日も人知れず守られたらしい。
「なんか、ごめん」
となりで寝転がっていた山田くんがぼくにそう言った。
「殴られると痛いことなんてみんなわかってるはずのに、あんな平気なほうがおかしいよ」
ぼくがそう言うと、気の弱い怪人は少し笑った。ぼくは続けた。
「山田くん、とっても痛そうなもやもやが出てたから。自分では痛いことしかわからないもんね。自分で自分のもやもやは見えないもんね。でもあれは本当にかなしくて痛いときにしか出ないから。だから、ぼくはとてもじゃないけど山田くんを殴ったりはできなかったんだ」
「もやもやってなに?」
山田くんはぼくに尋ねた。不思議そうな顔をしていた。
「もやもやはもやもやだよ」
ぼくは応えた。おなじくきょとんとした表情をしていたように思う。
「今川くん、ふざけてる?」
山田くんは突然少し怒ったような声でぼくに言った。
「ふざけてないよ! 痛そうなもやもやだよ」
当たり前のことを言っただけなのに、とぼくは思った。
「もういいよ。昼休み終わっちゃう。先に教室に戻ってるよ」
そう言って山田くんは行ってしまった。
「それでね、山田くん、ちょっと怒って行っちゃったんだ」
学校から帰ったぼくは、笑った父さんの写真が立てかけてある仏壇に手を合わせてから、その日あった出来事を母さんに話した。
「もやもやってなに?」
母さんも山田くんとおなじような顔をしてぼくを見ていた。
「だから、もやもやはもやもやだって!」
ぼくは少し腹が立って、母さんに怒鳴ってしまった。
「なによ、急におおきな声出して……それよりなにその『たたかいごっこ』って? 良介、あんたもしかしてイジメられたりしてない?」
「そんなのべつにいいんだよ。イジメられてるなんて思ったことない。それよりいまはもやもやの話だよ。母さんはもやもや、見えないの?」
「テレビの見過ぎじゃない? 馬鹿言ってないで宿題しなさい」
そう言って母親は台所へ消えてしまった。母さんのもやもやは深い青色になっていた。なぜだかぼくを心配しているみたいだった。ぼくは納得いかなかった。だって、人の気持ちは誰にでも見える当たり前のものだと思っていたから。だから、先生や母さんはぼくによく『人の気持ちを考えなさい』と言って聞かせているのだと思っていた。
そのときは、それが『ぼくにしか見えていない』なんてふうに考えられなかったのだ。だって、感じることのできないことや見えないものをどうやって考えるのか、当時のぼくにはとても想像できなかったから。
母さんに話した次の日、ぼくが登校すると、担任の先生はぼくを職員室に呼んだ。『たたかいごっこ』について聞かれ、ぼくは素直に応えた。先生の話を聞いていると、どうやら母さんが昨日学校に電話したらしい。
担任の先生は少し残念そうな顔をして、ぼくに「気付けなくてごめんな」と謝った。大人に謝られたことなんてそれまでなかったから、ぼくは驚いた。
その日の五時間目は図画工作の時間だったけれど、急遽ホームルームに変更された。
担任の先生が黒板に白いチョークで大きく『たたかいごっこ』と書いた。それを見た途端、同じクラスの正義のヒーローたちがぼくを見た。彼らのもやもやが真っ黒に染まっていくのを見て、ぼくの心臓はバクバクと鳴った。ヒーローたちはとても怒っていた。山田くんが少し心配そうにぼくを見ていた。
先生が『たたかいごっこ』の禁止を発表し、ぼくと山田くんは晴れて『悪の怪人』を卒業した。『正義のヒーロー』だった子たちもふつうの男の子へ戻り、ぼくらを殴ることはなくなった。そのかわり、元ヒーローたちはときどきぼくらの上靴を隠したり、えんぴつの芯を折るなどした。どうやら彼らにとって、ぼくと山田くんは『ごっこ遊びの悪者役』から『本当の悪者』になったらしかった。
正義の味方でなくなった彼らは、口を揃えて「このチクリめ!」と言い、ぼくらを非難するのだった。そのときも彼らのもやもやは変わらず真っ黒だった。
「今川くん、もう抵抗するのはよそう。ぼくらは悪者なんだ」
ときどき山田くんはそのようなことを言った。山田くんはとても落ち込んでいて、すっかり疲れた様子だった。
「違う、ぼくらは悪者なんかじゃない。あれはごっこ遊びだったんだ」
ぼくがそう言うと、山田くんはもやもやを黒く濁らせ、ぼくを睨んだ。
「まだ殴られてたほうがよかったよ。だって悪者になりさえすれば、ぼくも彼らと遊べたんだから」
「遊びでも殴られるのは痛いよ」
「そんなの、いまのクラスでの立場よりよっぽどマシだって言ってんだよ!」
ぼくの言葉に山田くんは声を荒げた。山田くんが早口で続ける。
「べつにパズルや図鑑なんか、本当は好きじゃない。悪者でもなんでも『仲間に入れてもらえたんだ』って……ぼくはうれしかったんだ! それなのにきみが先生に話したせいで! ぼくはなにもしてないのに……」
言い終わるころ、山田くんのもやもやは正義のヒーローたちとおなじ真っ黒になっていた。目には少し涙も浮かんでいたように思う。
「山田くん、もやもやが真っ黒だと苦しくない? そういうときは一度深呼吸するべきだ」
ぼくが慌ててそう言うと、山田くんはしらけたような顔をしてぼくを見つめた。もやもやが一気に透明になっていった。
「今川くんって、あたまおかしいんだね」
ぼくは、ぼくが正しいと思うことを言った。当時のぼくには、人それぞれに『正しさ』というものがあるということなど考えたこともなかった。それから、その『正しさ』から目を逸らしてでも手に入れたいものがあることも。
ぼくと山田くんの会話はそれきりになった。
それから山田くんは、だんだん学校に来なくなった。
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