フェルニゲシュ戦記 ー諦めの悪い王弟と忠実な猫ー
@amemaru237
プロローグ
死にたくなりそうなほど晴れた空だ、と暗い回廊を抜けたヴァシーリーは思った。
荒野と草原が国土の大部分を占めるフェルニゲシュ王国の、短い夏の空はとても綺麗だったけれど、何故かヴァシーリーは死を連想する。母が亡くなったのが、去年の今頃だったからかもしれない。
崩壊と解放を司る神アルードの神殿、その中庭。ヴァシーリー達が通された祭壇には、既に神官達が勢揃いしていた。
堂々と歩く父と姉に続いて、祭壇に設えられた椅子に腰かける。大仰な扱いにはあまり慣れないが、慣れなければならない。……何せ、自分はこの国の王の第二子、王子であるのだから。
黒い神官衣を纏った神官達が祭壇の下に一列に並び、恭しく礼をする。この国において国王とその子は、神の眷属である巨人の末裔とされ、神官達が傅く存在であった。
神官長である老爺、エメリヤン・パウークが両手の指を合わせる祈りの手つきを取り、しわがれた声で朗々と宣言する。
「偉大なる神の血を継ぐ畏れ多き王族の方々へ、この血を捧げましょう。我等が王、ジラント様、その子アグラーヤ様、ヴァシーリー様、御魂を捧ぐ許しをお与えくださいませ」
祭壇の椅子の上、深く腰掛けたままの父王は、鷹揚に頷いた。
「――許す」
低い声に、びくりと身を震わせる。ヴァシーリーにとって、母が亡くなってから笑わなくなった父は畏怖の対象だった。思わず隣の椅子に腰かけている姉に話しかけようとして、中庭に連れて来られた者達に気付き、息を飲む。
最初に入ってきたのは、顔を全て黒布で覆った処刑人だった。大振りの槍斧の石突でがりがりと地面を削りながら、もう片方の手で太い鎖を引き摺っている。
その鎖に繋がれているのは――ヴァシーリーよりも年下、十になるかならないかぐらいの、子供達だった。
襤褸布一枚着せられた子供達は皆やせ細り、どろりと濁った瞳をしていた。地べたに首を押えて並んで跪かされても、抵抗ひとつ、声のひとつもあげない。その体には、殴打の痕やまだ血の滲む切り傷など、数多の傷口がつけられていた。
……今日ヴァシーリーがここに連れてこられたのは、罪人の処刑を行うのでお前も見届けろ、と父王に命じられたからだ。だが、今目の前に引き立てられた子供達のどこが罪人だというのだろうか。万が一罪を犯していたといえ、ここまで痛めつけられ、処刑される道理があるのだろうか。
見ていられずに俯くと、背に一本で結わえている青髪が僅かに解れ、目の前で揺れた。巨人の血の証とされる立派な体躯と、空よりも濃い青の髪と瞳は王族の証だ。国王だけでなく、実の子に当たるアグラーヤとヴァシーリーにも確りとその血は顕現している。
「……姉上」
その髪の簾から、ほそりと呟く。今年で十二になったばかりのヴァシーリーだが、巨人の血を引く王家の体躯は、既に成人と変わりないほど背丈も厚みも出来上がっていた。隣に座る、齢十四になる姉も同様で、年齢に似合わぬ発育を迎えている。
「如何した? シューラ」
悠々と椅子に足を組んで腰かけ、笑みすら浮かべて処刑場を見ている姉は、紅も差していない筈なのに濃い赤の唇をゆうるりと引き上げて弟に応えた。公の場で、愛称で呼ばれたのは少し恥ずかしかったが、それでもそっと小声で問いかける。
「……この者達は、どのような罪を犯したのでしょうか」
弟の戸惑いを姉はどう思ったのか。対照的に髪を短く切り揃えている少女は、どこかからかうように口の端を更に引き上げ――そっとヴァシーリーの耳元に唇を近づけると、蜜のようなどろりとした声で、囁いた。
「あれらは、神の憑代として、この神殿で育てられた子供だ。七つを超えても奇跡が発現しなければ、神官には成れん。それが罪となるのだろうさ、神官共にとってはな」
驚いたように目を見開いた弟を、おかしそうに見る姉の前で――神官長は朗々と、王に向かって告げる。
「我等が父祖、崩壊と解放の神アルード様と、その愛でし子、暴虐と病と死の神へ、供物を捧げることをお許し下さいませ」
「――許す」
再び、何の感慨も籠らない王の声。その命に従い、槍斧が振り下ろされ――何の躊躇いもなく、処刑は始まった。
押さえつけられた子供の首に、無造作とも言える形で、断罪が落ちる。びしゃり、と中庭に血が散った。
アルードを初めとするこの国で信奉される神々を奉じる神官達は、神に祈りと血肉を捧げることによって奇跡を起こす。その血腥さから、他国からは邪教扱いされていても、内戦が続くこの国では戦力の一つとして捉えられている。存在自体に疑問を持ったことは、ヴァシーリーも今まで無かった。
「ッ、……っ」
だが、今目の前で行われている行為の、血みどろの恐ろしさから目を逸らせないまま、悲鳴をあげることを堪えている時、ヴァシーリーは見た。
一人の子供が、緩慢な動きで空を仰ぎ、その青を見て――非常に不愉快そうに、顔を顰めたのを。
そしてすぐに頭を押さえつけられたけれど、その一瞬。子供のぼさぼさの黒髪の間から覗く瞳が、綺麗な金色に輝いたのを、確かに見たのだ。
×××
ぶん、と風切音がひとつ。びしゃり、と石畳に散る水音。
僅かな悲鳴はすぐに封じられ、音が少しずつ自分に近づいてきても、その子供の心には何の波も立たなかった。
何せ、物心ついた時には既に、体にはありったけの傷がつけられていた。祝詞を刃で皮膚に刻まれ、神官達がそれを唱える度に、子供の血肉は搾り取られ、痛みにのたうち回った。
『奇跡を発現させよ。お前の体は我らが神の妻と等しい、陰と陽を共に満たした器なのだから!』
神官達はそう言いながら、何度も何度も、傷を刻んだ。彼らの言葉は下らない戯言にしか聞こえなかったけれど、逆らえば飯も抜かれてしまうから、我慢するしかなかった。
それでも、子供なりに努力はしたのだ。奇跡を発現させることが出来れば、神官としての地位を与えられる。そうすればもう少し、楽な暮らしができる。例え体の外と内を何度もぐちゃぐちゃに弄られても、耐えられた。
その結果が、今である。作業のように処刑が続く中、譫言のように祝詞を唱え続けている神官長。あれに寝台へ連れて行かれそうになり――当然、ただ寝るだけで済むことがないことを、子供は既に知っていた――、必死に抵抗した結果、あの老爺の爪を一枚齧りとってやった。当然その後、怒りに任せた折檻を受けて、今、ここにいる。
……だからすっかり、その子供は諦めてしまっていた。結局自分は、何にもなれないままここで死ぬのだと。
空を仰ぐと、どうしようもないぐらい青く澄んでいて、唾を吐きたくなった。すぐに斧を引き摺る処刑人達に俯かされてしまったので、目の端に空よりも綺麗な青が見えた気がしたのも、気のせいだと思った。
斧が引きずられる音が近づく。そろそろ自分の番らしい。
ああ、嫌だな。
子供が最後に思ったのはそんな悪態だけで。自分の終わりに何の感慨も持てず、ただ目を閉じた。
×××
ぶん、と風切音がひとつ。びしゃり、と石畳に散る水音。
それが自分の耳に届いたことに気付いて、あれ、まだだったのか、と子供は目を開く。
ぶん、と風切音がもうひとつ。どしゃり、と派手な音がして、ふっと体が軽くなった。
何が起こったのか解らなくて、身を起こす。周りに立っていた筈の処刑人が二人、自分を押えていた者と斧を構えていた者、どちらもその場に倒れ伏していた。首や背中に大きな傷をつけて、どくどくと血を流しながら。
「ヴァシーリー! 何をしているか!」
「は、ははは、シューラ! そうだな、お前はそういう奴だ!」
厳めしい男の咎めるような声を、少女のどこか螺子が外れたような笑い声が遮る。周りの神官達は突然の暴挙に動くことが出来ず、神官長も祝詞を止めて何やら叫んでいる。
しかし当の子供は、自分が命を長らえたことを実感することも無く――目の前に立つ、空よりも深い青を見ていた。
「……はっ! はっ、はっ、は……!」
荒い息。今まで我慢していた呼吸をやっと出来た、というように大きく肩を動かす、少年にしては大きな体躯で、青年にしてはあどけない男。
その両手には、腰に佩いていたらしい幅広の剣を持ち、刀身はべったりと血に塗れていた。高そうな衣服にも、身分の高い人らしい染みの無い肌にも、真っ青な髪の毛にも血飛沫が飛んでいる。勿論、全て返り血だった。
全くもって、子供には意味が解らなかったけれど。どうやら、自分の命は、この青い人に助けられたらしいと、漸く気づく。
子供の濁った金瞳にほんの少しだけ、光が灯ったことに気付いたのか。
空よりもずっとずっと深く青い瞳が、嬉しそうに微笑んだのを、子供ははっきりと見た。
これ以降――その子供は、諦めることが出来なくなってしまった。
命を救ってくれた相手が、この世で一番諦めの悪い、いずれ王弟となる男だったが故に。
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