2019.07.19 純文学はエロい

本日読んだ本

三島由紀夫「雛の宿」

吉田武「虚数の情緒」


雛の宿を読んだ時、僕は、これがエロゲになったらすごいいいなと思った。いいなっていうのは、すごくエロい作品になるなっていうことだ。エロっていうのは、ただ対象の身体(二次元だと線画と塗り)だけを見て感じるだけではなく、シチュエーションが大切だ。いくらプロポーションが美しくて顔が好みの相手でも、ただ裸を見ただけでは僕はそんなに興奮しない。その裸を見るまでの経緯があって、初めて情欲は生まれるのだ。その経緯・・・エロ物語と言おう。エロ物語は人の好みに左右されるが、一番大切なのは、日常から逸脱した時の背徳感である。正常から狂気へ移り変わるグラデーションの間に、僕は甘美さの色を見つけるのだ。純文学の作品を読んでいると、日常(僕の現実、作品の冒頭)から非日常へのシフトの仕方がとてもいいのだ。日常には、常識だったり、タブーだったり、しがらみだったりが存在する。それを突破することで非日常へいくのだが、純文学と呼ばれる作品の中には、この過程にものすごい苦痛を登場人物に与えるものがある。そんな作品は、この苦痛に悩まされる人物の描写が、真に迫っているのだ。読者である僕は、そのエロ物語に入り込み、作品の登場人物同様に、苦痛の中に快楽を感じるのだ。雛の宿は正にそれであった。試験後のどこにでいそうな大学生の日常は、絢爛に感じる雛祭りの雰囲気に呑まれ、そこから想像に及ばない非日常へと逸脱する。その後に残るものは虚脱感でもあるし、切なさでもある。


虚数の情緒は、まだ読み始めたばっかりだが、最初は数学の本だと高をくくっていた。けれど、本格的な数学の話は一向に始まらない。けれど、それは落胆になるではなく、目から鱗が落ちるほどの内容なのだ。人生の指南書になるといっても良いほどである。数学だけではない、あらゆる文化、学問の全体像というか、素晴らしさが、作者の熱い魂の本流のような文章で書かれている。この本を紹介した海猫沢めろんさんに感謝である。贅沢を言えば、これを中学生の時に読んでいれば、僕の人生は変わっていただろう。本を読んでこんな後悔を覚えたのは初めてである。



人間の力ではどうにもならない状態に追い込まれ、それを宿命として受け入れ、それに立ち向かって「ねばならない」(~せねばならない、みたいな)という気持ちで「必然」と戦う時、否応無しに強制的に与えられた枠組みの中で必死にもがく時、人間は初めてそこに「生き甲斐」というものを見出す。結果が大事なのではない。生き甲斐とは、運命的な、不可避な過程に対する生命の燃焼であり、自己選択の結果の「自由という名の逃避」からは決して生まれてこない情緒の発動なのである。


吉田武「虚数の情緒」p19~p20より

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