2019.07.17 他人の目が怖い

 僕が小説やアニメなどのフィクションが好きなのは、そこにいるのは無関係の登場人物だけで、自分が存在しないからである。ノンフィクションでも同じで、自分に関わりのない他者の物語を追う僕は、現実世界から切り離される。

 ここからは物語の中に入ることを、物語を読むと表現する。

 僕が欲する物語は、読んでいる間中は、それ以外の全てのことが見えなくなる物語である。

 しかし、美化やロマンで逃避できない程にリアルで、読んでいると、無関係なはずの自分にも感情移入をしてしまう物語もあるわけで、それを売りにしている作品はたくさんある。エッセイ、自己啓発、実体験を元にした青春小説など、エンタメから逸れて、読者の危機感を煽るような物語である。これは僕にとっては悪影響だ。

 物語が鏡となり、外の生身の自分を写した時、僕は大抵、自己嫌悪に陥ってしまう。物語を動かす登場人物は、どんなに悪者だろうが最低だろうが僕に考え方が似ていようが、自発的な行動を起こしている。彼らが行動を起こして他に影響を与えるからこそ、物語は動くわけで、何もしない登場人物など、ただのモブである。自分の人生を一つの物語と置き換えたとして、そこでモブでいいなんて思う奴はいない。そう思うからこそ、僕は現実の僕のありようを思い起こさせる物語を読むと、耐えられぬ屈辱感が沸き起こる。

 それは、僕がモブであるということを否定できないからだ。

 なぜなら、僕という一つの物語の中で、僕は何も行動していないからである。それは僕の人生が、夢も目標もなく、ただ死ねないからしかたなくという、根性だけで生活していることによる。食べないといけないから食事をするだけだし、眠らないといけないから寝るだけだし、それ以外の時は何も考えたくないから余暇を娯楽で潰すだけだし、それらをしないと生きていけないから、したくない労働をこなすだけの物語なのだ。すべては身体が欲する欲望を処理するだけの受動的な生活で、僕は、僕の未来のため他者のため、自発的に何かをして結果を残していない。

 人生の糧と言われる仕事で、僕は今、僕などいなくても替えがいくらでもいる、将来ロボットに奪われるだろう責任の伴わない単純作業を繰り返すだけの労働をしている。

 こんなリスクも何も持たない登場人物の僕が、ただ生きているだけの物語など、だれも読みたいと思わないだろう。上に悪影響と書いたが、この羨望にも似た屈辱感をきっかけに、行動を起こせればいいのだが、僕はやらないし、やろうと動いて頓挫した時は、最悪な気分になる。

 長くなったが、結論として、自己啓発やエッセイ、読むと現実の自分と比べてしまう物語は読みたくないということだ。

 僕が好む物語は、僕が入る余地のない、僕とは縁のない空想的(僕からしたらで、必ずしも作品が、ではない)な物語である。それを読んでいる時だけ、僕は、周りから僕はどう思われているのだろうか、という他人の目と、なんで僕はこうなのだろうという自分の目が、届かないところにいられる。価値観が変わるような啓蒙的で形而上学的物語(哲学とか生物学とかの学問に関する本)も好きである。そこに広がる世界は、泥のようにぬかるむ苦悩と経験に塗られたこの世界を超えた、美しいものであるからだ。

 僕は愚かである自分を認識したくないと思っているのだけれど、生活する上でそれは避けられない。なぜなら、この社会には他者が存在し、他者は僕を写す鏡だからである。他者の僕への反応を見て、僕は一喜一憂する。それになんの意味があるのだろうか、疲れるだけだ、と思っても、僕は鏡があれば覗きこまずにはいられない。

 他者の目が怖い。

 でも、他者がいなければ、僕は生きていけなのである。この状況に僕は喘ぎ続ける。

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