2019.05.25 生きる意味なんてなかった

 サルトルの『嘔吐』という小説を読み終わった。結果、私には生きている意味などなかったのだと思った。

 私の中には自意識などは存在しない。私が私だと思うこの意識は、外にあり、あらゆる物の存在に付着したものである。物があるから私もあり、私と物は同じく、偶然の元に誕生し、この世に不要な物なのだ。私の周りから全ての物を失くせば、私は、「私は私である」という意識を感じることが出来ず、存在できない。外にある物を感じて、初めて自己を認識できる日常は、無意味で退屈であり、物と他人に囲まれて生活している私は、絶えず煩雑な自意識を受信して気持ち悪くなるのだ。冒険を夢見たり、濃厚な経験をしたと悦に浸っても、完璧な瞬間など存在せず、今、生きているこの時は退屈でしかたがないのだ。完璧な瞬間や生きる喜びなど追い求めても、そんなものには一生たどり着けないし、冷めればまた空虚な日々を生きることになるので失敗する。未来は大概見えている。行動を起こし、出来事が起こる。それは予想できたことではなかったか。こういう事が起これば自分はこういう対応をするだろう、と必然ではないあらゆる偶然をシュミレーションできる。ならば、この先私が生きる意味などあるのだろうか?

 サルトルは日々を生きる上でこのような感覚を「吐き気」と表し、厭世的で、ヒューマニズムを認めず、生まれながらに自分には役割がある、と自信過剰な世俗どもを唾棄した。私は河原にある、泥のついた石ころと変わらないし、腐って樹皮が爛れた大木と変わらない。

 でも、サルトルはこの作品の最後にこう記す。


一冊の本を書く。自分にはそれぐらいしか出来ないから。もちろん、最初は退屈で疲れる仕事だろう。いつだって嫌な自分の存在を感じる、その妨げにもならないだろう。しかし、書き上げることが出来れば、それは私の後ろの荒野のような過去に、一筋の光をもたらす。過去を振り返った時、光に照らされた私を見出して初めて、私は過去においてのみ、自分を受け入れることができるだろう。


 生きる意味が欲しいのであれば、未来の自分が納得できる「今の自分」を残さなくてはならない。


*この記述は、サルトルの『嘔吐』を読んで、私が感じたことです。見当違いな見解や主張があると思われますが、深読みする前に、今の気持ちを残したいと思い書きました。ご了承ください。

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