2019.06.11 大人への一歩


「読書は自分で考えることの代わりにしかならない。自分の思索の手綱を他人にゆだねることだ」ショーペンハウアーの読書についてより

 

 この文章は確信をついているなと、最近思えてきた。ただ本を読むだけではダメなのだ。それでは読書など、ただの趣味と成り下がる。

 僕は読書という行為に対して、ものすごく期待している。

 読書は、人生の糧になり得ると信じている。趣味ではなく、僕が豊かに生きていくために不可欠な要素であると信じている。趣味は代替可能だ。気晴らしになればそれで良い。しかし、読書に代わるものは存在しないと僕は信じたい。読書は偉大であると胸を張って豪語したいのだ。僕の一部として機能して欲しいのだ。

 その為にはどうしたらよいか?

 答えは最初に引用したあの文章に含まれている。

 本を読んで作者のメッセージや考えに触れても、それは所詮他人のものである。どんなに素晴らしい事実だろうが、読んで受け取っただけでは、それはまだ借り物の贋作にすぎない。贋作のまま終わらせれば、その時味わった感動など、寝たら忘れてしまう。なら、どうすればその感動は自分の血肉となるか。

 

 得られた感動を素材として、自分で考えるしかない。

 

 なぜ自分は感動したのか。

 この感動を受けて、自分はどのように生きていきたいのか。

 その為にはどうしたら良いのか。

 以上のように考え抜くのだ。自分で考えれば考えるほど、その感動は研磨され、自分の生活に影響を与えるほどのものとなる。読書で得られるものなど、ただの種だ。それを立派な大木に育てるのは自分しかいない。

 現在の自分を俯瞰し、未来の理想とする自分の像と摺り合わせてみる。あやふやだった未来像を、自分が目指すべき確かな像へと、理論を餌に肉付けする。そうして始めて実践できる。それが出来れば、生まれた理想像とのギャップに苦しめられた時、耐えることができる。なぜなら、確かな自分の未来がみえているのだから。

 耐えられないからといって、逃げることは恥ではない。

 それに耐えられる自分を、いかに創造するのかが大切である。

 繰り返しになるが、それは他人のアドバイスを受け取るだけではなく、自分で考え抜かなくては出来ない作業である。

 これは別に読書だけに限った話ではない。

 他人に説教されたとする。その時、曲論ではなく正論を言われたとしたら、現在の自分の立ち位置が揺らぐことがある。この揺らぎはストレスだ。相手の言っていることは分かるが、到底今の自分では受け入れることが出来ない。そうなれば、足元の覚束ない持論で反論するか、最悪何も言い返せず無視することになる。

 けれど、こんな結果になろうともあきらめてはいけない。

 正論は人の数だけある。それに、他人へ堂々と言えるぐらいの説得力を持たせるのだ。そうすれば揺らぐことはなく、他人にしっかりと自分の考えを伝えられる。これも自分で考え抜くことが必要だ。その過程で、自分の考えが間違えで、他人の意見のほうが正しかったと素直に認められることもあるだろう。

 相手の正しさに屈するのではなく、自分を正当化するのだ。その為に相手の意見を取り入れることは、苦痛ではない。

 自分を正当化できず、相手の言いなりになるのが一番ダメだ。それを経て、相手の考えに染まることに成功し、自分を正当化出来たとしても、それに至るまでは大変な忍耐力を要する。染め上がるまでの期間、自分を殺して奴隷になるのだ。苦痛でないはずがない。そして、これに耐えられない人は当然いる。いくら耐えても染まらない人もいる。

 僕がそうだ。

 だから僕は、読書でもなんでも、相手の意見や全ての経験を糧にして、自分が納得できる未来像を創造していこうと思う。

 他に依存するのではなく、確かな自己を確立するのだ。他人に引け目などない、むしろ自慢できる自分になるため、僕はこれから先、物理的に考える時間を増やしていこうと誓いを立てる。

 現実逃避をしているなんて、言わせはしない。

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