2019.04.18 労働の尊さ
目覚めると快活な朝であった。
昨日の疲れなど忘れていた。ふと、時計をみる。6時15分であった。
急いで着替え、顔を洗い、髪を濡らす。鏡を見ると滑稽な自分がそこにいた。気にしていられず、2000円と仕事道具を持って家を出る。
早朝のさっぱりとした空気を切り裂きながら、ひたすら走り、止まって、歩いた。それを繰り返した。何も食べてないからか、からっぽのはずの胃の中は、くさった水が渦を巻いているかのようで気持ち悪い。
仕事場に着いたのは始業の15分前であった。なんとか間に合ったので、最寄りのコンビニで購入したメンチカツパンとスポーツドリンクを流しこむ。これでいいのだと思いながらもさらに気持ちが悪くなる。
事務所に入り、事務員に今日が初出勤の旨を伝えると、現場でつかう靴代を取られた。1500円であった。財布に残った少ない小銭を数え、今日は最低限の飲み物しか買えないことを知って息を吐く。支給された作業服と購入した靴を持ってロッカー室に入ると、汗とタバコと芳香剤の匂いがした。それは肉体を酷使する男達の臭気であった。
着替えが終わり、外に出ると人の輪があったので、交じり待機する。前を悠々と原付や自転車が通る。しばらくすると準備を終えたそいつらが輪に交じって談笑を始めた。時刻は始業時間をとうに過ぎていた。ご飯や見た目を諦めて急いできた自分を孤独に感じていると男2人が現れ声を張り上げた。
輪が列になり朝礼が始まる。
最前のほうで列に対面して立つ男2人。彼らは30代後半に見え、いずれも胸が厚くて作業服越しに堅い筋肉が盛り上がっていた。袖をまくった腕は列の者らの誰よりも太かった。余裕も感じられたので、現場を取り仕切る者達と分かった。片方の男は背が低く、顔立ちは整っているが生え際が後退しており、ヘビースモーカーを思わせるガラガラの乾いた声を出した。もう片方はあまり印象に残らなかった。
「おはようございます!」
男2人の声とそれに続く列の者たちの声は大差なかった。
前日の売上の発表と活躍した者への言葉だけでの表彰と拍手から始まり、本日の業務連絡、作業するにあたっての注意点などを前の男2人が言っていく。最後にラジオ体操の曲が流れて皆適当に体を動かす。一番張り切っていたのは曲の音声だけだった。
朝礼が終わり、現場のリーダー達が点呼を始める。私の名前が呼ばれたので返事をして見ると、朝礼の時のあの背の低い男であった。かるくあいさつを交わし、歩きだす男に付いていく。むかうのは敷地内にたくさんあるトラックの中の1台で、男はすぐに現場に直行するという。扉を開いて内側の取手を持ち、段差に足をかけて高い車内の助手席に勢いをつけて乗り込んだ。息を吸うとロッカー室よりもひどい男の臭気を感じた。扉を閉めて姿勢を整えると後部座席に同乗者が2人いるのに気づく。男がつづいて運転席に乗り込みトラックはすぐに走り始めた。
一般道に入り、走り出してすぐのことであった。男が口を開く。
「今日はよろしく」
その言葉に私と他の者らはあいさつを返す。
「自己紹介しようか。まず、君は?高校生?」
男は私に視線を投げかけそう言った。私は肉体的にも精神的にも本当の苦労をしたことがないからなのか、実年齢より若く見られることが多々あった。私は22歳であった。
「へー、うちで働くのは何回目?」
初めてであった。
「普段は学生?それともどっかで働いとん?」
他にアルバイトをしていた。それだけであった。
「じゃあ、フリーターか」
あまり、その言葉は好きではないが、今の自分の社会の立ち位置を一言で表すとそれになってしまう。
「お前、ちゃんと働けよ。」
男は出会って間もない私にそう言った。私は身体が浮遊するような感覚を味わった。そしてそれは急落下し、潰れたトマトのようにぐちゃぐちゃになった。それでも、なんとか返答した。
「望み通りの仕事がないだあ?お前は何を望んどんな?自由な時間が欲しい?そんなら、この仕事で正社員になったらええやん。早朝に始めて夕方に終わる。どうじゃ、ここの正社員になるか?ハローワークにある仕事よりえかろうが。」
この男には何を言っても無駄だと諦めた。共通の言語を持っていない。とりあえず愛想笑いで適当に受け流す。そんな自分に反吐が出る。何者にもなれてない私に男を言い負かす術はないのだ。男は後部座席の同乗者達に視線を変えた。
「あなたは名前だけ知っているよ、今日で何回目?」
男の質問に、後部座席の運転手側である右に座る女が、愛嬌のある笑顔で3回目です、と答える。女は身長が低く、150cmあたりの小柄であったが胸は大きかった。髪は肩までで茶色に染めており、分けた前髪からのぞく顔は化粧が濃く、目や口周りには疲れを感じさせる皺があった。30代だと思ったが本人がいうにはまだ28歳であるらしい。
「最初に言っとくけど、わしは女じゃけえって優しくせんぞ。この世は男女平等やからの。冷蔵庫とか重いもんも運ばせるから覚悟しといて、ははははは!」
男の嫌に耳障りな笑い声が車内に煩音する。それからも男は横暴な態度で女をからかって冗談を言ったりして笑った。私じゃ女性に言えないような事を平気で楽しそうに言うので聞いているこっちは女を不憫に思ったが、女は笑顔を絶やさず受け答えしていた。ときたまひきつった笑みをしていたとは思うのだが、表面上は問題なさそうであった。
後部座席の左に座っていたのは40代に見える男性だった。痩せて、気弱そうだが、肌の血色が良く、吹き出物もないのでトラックに詰め込まれたメンバーの中で一番健康そうに見えた。冗談を言って自分で笑う男、愛想笑いをする私、元気よく受け答えする女に比べたら血色の良い男は物静かで、道中あまり口を開かなかった。背の低い男は彼も知っていたようだ。昨晩一緒に作業をしたらしい。そのとき血色の良い男はりんごを丸齧りしていたが、今日は赤い実を持ってきているのかと背の低い男は笑いながら聞いた。血色の良い男は持ってきていないと答えた。そして私と女に聞いたように今日で何回目かを聞いた。血色の良い男は8回目と答えた。
最初の現場に向かう途中、トラックは窮屈なジグザグに折れる、ガードレールと民家とコンクリートの壁に囲まれた坂道で立ち往生し、何回もハンドルを切り、バックを繰り返して進もうとするが埒があかなかった。しまいには進むのも戻るのも困難な状態に陥ってしまった。運転席の男がイライラし始めるのが分かった。男は私と血色の良い男に、外にでてトラックを誘導するように言った。進まないのであれば戻るしかないとバックでその袋小路を出ようと苦戦していると、坂道に面する民家の窓から顔を出した老婆が怒声をあげる。
「あんたら、ここは私道や!こんな大きなトラックを持ってきてなんしょうるんな!」
時間をかけてなんとか坂道から抜けだしてトラックが軽快に走り始めてしばらくすると、運転席の男はひとまず安心したのか、談笑を始めた。張り詰めていた車内の緊張が解けた気がした。現場には予定到着時間より1時間遅れて着いた。
足場とブルーシートに覆われた3階建てのアパートで、依頼主は3階に住んでいた。急いで作業に取り掛かった。3階から段ボールや家電、家具をバケツリレー方式で下していく。下ろしたものはトラックにどんどん詰め込んだ。作業中、放屁する音が聞こえた。背の低い男が女に向かって屁をこいて笑わせていた。女はタメ口で笑って非難していた。私も可笑しくて笑った。作業中の背の低い男はとてもまじめで軽口をたたきながらも、みんなに指示を与えて効率よく作業を回していた。私の彼に対する心象は変わっていた。なんだか、自分が恥ずかしくなった。こんな仕事が出来て、女性にも無遠慮に振る舞える男がいいのだろう。背の低い男への感情の落とし所が分からず、その代わりなのか、最初に比べ屈託なく笑う女に憎しみを覚えた。
1時間の作業であった。現場を後にして、依頼主の新しい居住地までトラックを走らせた。似たような大きさのアパートで、2階の階段から一番近い部屋に積んだ荷物をどんどんまたバケツリレーで運び込んでいく。私はさっきも今回も階段を昇り降りしながら荷物を運んだ。今回は荷物を持って階段を昇るのですぐ息切れをおこし、汗の玉が目に入った。一瞬視界がぼやけて拭うと、2階の廊下からの景色が見渡せた。天に輝く太陽があらゆるものを照らしていた。山、道路、車、杖をつく老人、ビルがあらゆる色彩を放っていた。風が心地よかった。日に浴びて、労働して、汗をかく。作業に集中している頭は空っぽで、身体だけを動かしていた。自分が自然に溶け込んでいると思った。生きている、と思った。
その後もトラックで現場を移動しながら同じ作業を繰り返した。昼食時、背の低い男は私に1000円を貸してくれた。男はいい人なのだと素直に思った。血色の良い男はりんごではなくナッツを食べていた。菜食主義者だと分かった。日が沈んでも作業は続き、終わったのは夜の21時であった。久しぶりに酷使した肉体は、潤滑油が足りない機械のようにぎこちなかった。
帰り際、背の低い男はまた来てな、と私に手を振った。
その時、また来てもいいかなと思った。
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