2019.04.13 生活の目途が立つ
売り場の仕事が一段落ついたところで裏の事務所に戻ると店長がいた。
仕事はどうかと尋ねられたので、ぼちぼちですと当たり障りのないよう淡々と答えたけれど、内心では何か自分にとって有利な話がでるかもと期待していた。
このアルバイトを始めて約3週間、私はぐいぐいと職場で一スタッフとして存在感を出し始めていた。
説明できる理由としては今までの接客アルバイトで培った、見知らぬ人間であるお客様に対して物怖じしない度胸があるからと言えるが、一番は新人研修を担当してくださっている副店長の存在である。
さきの店長とこちらの副店長は新しく赴任してきた方たちで、私が入社する一カ月前に今の店舗を任されるようになったらしい。私を含めたその他大勢の人間をアルバイトに採用した今回の募集も、赴任した彼らの初めての募集であったという。
その新しい副店長は今までどこのアルバイト先でも類をみないほど私に、仕事を丁寧にマンツーマンで教えてくれている。自分の仕事を後回しにして、私だけのために時間を割いてまでである。これはこの職場では今までにないほどの贅沢な研修であるそうだ。しかも彼は24歳と私より2歳しか違わないし、女性が多数を占める職場での数少ない同性であるし、私のような格下だろうと無下に扱えない質でもあるので、分からないことがあってもなんの気がねもなく聞ける。
新人の私としてはやりやすくてしょうがない。
こんな環境で研修を受けていれば、どんなにとろくさい人間だろうと限られたマニュアルでやる仕事などすぐ出来るようになるのは必然である。そして、私はフリーターであるから他に採用された学生のアルバイトたちよりも、長く、濃密な時間を副店長と共に過ごしているので、習熟度は彼らよりも抜きん出ていた。
そういった事情から、まわりの私への評価は高く、めぐりめぐって店長の耳に入っているはずなのである。
事務所に入ってきた私に気づくと店長は目を細め、微笑をたたえて口を開いた。
「Tさん、仕事はどうですか?」
「ぼちぼちです。」
「なんか、もうすでにかなりなじんちゃってますよね、職場に。仕事の覚えが早いってきいていますよ。」
「それは、もったいないお言葉ですね。恐れ多いです。自分なんてまだまだです。」
私はこの時、自画自賛の言葉を抑えるのに苦労した。
そんな私の心中の葛藤などどうでも良くて、店長はあらかじめ考えていたであろうことを提案してきた。
「このまま順調に仕事を覚えられたら、来月か再来月からはフルタイムの月160時間で働けるようになりますが、どうします?後はTさんの意思次第なんですけども。」
それは、期待した以上の予想外の提案であったが、惜しいものでもあった。
面接後採用が決まり、労働に関する契約の確認を行っていた時である。
相手は副店長で机越しに膝を突き合わせながら、私は言われるがまま契約書の方に必要事項を書いていた。そして月の労働時間に関する欄に当たった私は面接の時に店長に言われたことを思い出した。
「仕事の習熟度によっては2,3カ月後にフルタイムで働けるが、最初は仕事を覚えるまで月80時間の労働になるけれど大丈夫?」
私はそれを了承していた。
月80時間と言えば、一般的な、週休2日で一日8時間労働の場合の半分しか働けないということである。これでは1人暮らしの私が最低限に理想とする文化的な生活が出来ない。
しかし、バイト探しに嫌気がさしていた私は採用されるのであれば別にいいやと考えてしまった。その時はダブルワークをすればいいと高をくくっていたし、仕事をはやく覚えれば何とかなるだろうと考えていた。なので、そのまま契約書には疑問を挟まず月の労働時間の欄には「80時間」と書いた。
けれど、実際それしか働かないというのは実に楽で、すぐに私の体はその生活リズムに順応してしまいこれ以上働くなんて面倒くさいなと思ってしまった。
今のところに入社してからこれまで、支出が収入より多い今の経済状況ではいつか生活が出来なくなるという不安もあったが、あまり働かなくてよい気楽な生活の甘美さも味わっていた。その両方に浸かっていたので、店長の提案は私を揺れ動かした。
私が動揺したのはそもそも契約書を書いた時、副店長は契約の更新は半年ごとで最低半年は月80時間の労働時間だと言われたからであった。店長が面接時に言っていたことと差異が見受けられたが私は追求せずそれを受け止めたのである。
なのに、2転して急にこの提案である。
それをいうと店長はさもなんでもないように「それは、こちらの采配でなんとでもなるんです」と言った。店長が正義であった。
もちろんゆくゆくはフルタイムで働きたいとは思っていたので、笑顔で了承した。
誰にも分からないさみしい笑顔であった。
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