時雨【白露型駆逐艦 二番艦】
SHIGURE【SHIRATSUYU-class Destroyer 2nd】
起工日 昭和8年/1933年12月9日
進水日 昭和10年/1935年5月18日
竣工日 昭和11年/1936年9月7日
退役日(沈没)昭和20年/1945年1月24日(マレー半島東岸)
建造 浦賀船渠
基準排水量 1,685t
垂線間長 103.50m
全幅 9.90m
最大速度 34.0ノット
航続距離 18ノット:4,000海里
馬力 42,000馬力
主砲
50口径12.7cm連装砲 2基4門
50口径12.7cm単装砲 1基1門
魚雷 61cm四連装魚雷発射管 2基8門(次発装填装置)
機銃 40mm単装機銃 2基2挺
缶・主機
ロ号艦本式缶 3基
艦本式ギアードタービン 2基2軸
【最初は輸送をひたすらこなす地道な任務だった】
【時雨】は横須賀生まれですが、昭和13年/1938年12月に佐世保へ転籍し、そこで第二七駆逐隊を【有明・夕暮・白露】と編成。
横須賀時代には陸軍特別演習や観艦式の際に、御召艦【比叡】の供奉艦を【白露】とともに務めた実績を持っています。
太平洋戦争緒戦、【時雨】は主に護衛任務を行い、昭和17年/1942年4月には五航戦に所属し、【翔鶴・瑞鶴】の護衛を務めました。
5月は「珊瑚海海戦」に参加しますが、この戦いで【翔鶴】は沈没こそしなかったものの大破炎上。
【米レキシントン級航空母艦 レキシントン】を撃沈しますが、この【翔鶴】の大破は痛手となり、続く「ミッドウェー海戦」には【瑞鶴】とともに不参加を余儀なくされました。
8月からは激闘のガダルカナル島へ向かい、最初は輸送任務を頻繁に行います。
一進一退の攻防が続きますが、ヘンダーソン飛行場を要する米軍の戦術的有利は揺るがず、いよいよ日本は戦艦【比叡・霧島】を中心とした挺身攻撃隊が出撃。
「第三次ソロモン海戦」が勃発します。
【時雨】ら第二七駆逐隊は【霧島】の護衛を務めていたのですが、やがて第一夜の夜戦で損傷した【比叡】の護衛へ向かうことになりました。
しかしそこにいたのは浸水が進み、舵のとれない【比叡】の姿でした。
【比叡】は雷撃処分されることになるものの、すぐにその命令は撤回され、第二十七駆逐隊は乗員を救助した【雪風】とともにその場を離れます。
【比叡】は誰にも看取られず、ひっそりと沈んできました。
【時雨】は【比叡】の元へ向かう際に空襲によって損傷していたため、トラック泊地にて修復を行います。
年が明けて昭和18年/1943年、【時雨】は再び護衛・輸送任務を任され、トラックと横須賀の往復が増加します。
7月からは「ラバウル輸送作戦、ブカ輸送作戦、コロンバンガラ輸送作戦」など立て続けに激戦地での輸送任務を行いました。
しかし一方で「コロンバンガラ島沖海戦」では第二水雷戦隊司令部と【神通】を喪失、そこで海軍は第四水雷戦隊をそのまま第二水雷戦隊へと編入し、第四水雷戦隊所属だった【時雨】も二水戦に移ることになりました。
また第二七駆逐隊は7月に【有明・夕暮】がそれぞれ沈没し、戦力は半減してしまいます。
【佐世保が誇る不滅の駆逐艦 時雨】
8月からは【時雨】が幸運艦であることを知らしめることが次々と起こります。
1ヶ月の半数近い13回の輸送任務を行った【時雨】ですが、この8月は輸送任務中に「ベラ湾海戦、第一次ベララベラ海戦」が勃発した激戦の月でもありました。
「ベラ湾海戦」は米軍のレーダーが本領発揮し、僚艦の【萩風・嵐・江風】が一気に魚雷の餌食となってしまいますが、【時雨】は辛うじてこの危機から脱しています。
続く「第一次ベララベラ海戦」も【時雨】は無傷でこの海戦を乗り切り、結局【時雨】は「ベラ湾海戦」での若干の損傷を除き、ほとんど損害を出すことがありませんでした。
続く10月には「第二次ベララベラ海戦」が起こり、ここでは【時雨】は新たに第二七駆逐隊に編入された【五月雨】とともに【米ポーター級駆逐艦 セルフリッジ】を撃破する戦果を収めています。
もちろん輸送任務も着実にこなし、【時雨】の名は一気に輝きを増していくことになりました。
豪運ぶりを発揮したのはこれだけではありません。
11月には「ブーゲンビル島沖海戦」に挑み、ここでは三水戦の旗艦【川内】が沈没、【五月雨・白露】が衝突、そして【妙高・初風】も激突し【初風】は沈没。
【羽黒】も損傷する中、【時雨】はただ1隻無傷でこの海戦を突破。
海戦は敗北しますが、【時雨】はこの頃には【雪風】と並び称される存在となっていました。
11月には舵故障、12月には機関故障とこれまでの無理がたたったのか、小さな不運に見舞われますが、いずれも軽微。
1月には再び護衛任務に就いています。
しかし昭和19年/1944年2月にはトラック島空襲によって日本は大損害を被り、【時雨】も中破してパラオへ逃れます。
佐世保で修理を行った後、6月は【春雨】を失い、「マリアナ沖海戦」にも参加しますが、このあとは8月に【五月雨】が座礁して沈没してしまいます。
【時雨】の強さ、そして運のよさは際立つ一方で、日本の劣勢は僚艦を失うことでよりいっそう明確になっていきます。
そして10月には「レイテ沖海戦・スリガオ海峡海戦」に突入、西村艦隊に所属した【時雨】は【扶桑・山城】らとともに夜戦に挑みますが、徹底的に叩きのめされます。
開戦の合図のように【扶桑】が魚雷4本を受けていきなり落伍、【山雲】轟沈、【朝雲・満潮】艦首損傷による大破。
【時雨】は【山城・最上】とともに突撃しますが、【山城】も魚雷と砲撃を受けて大炎上、さらに【最上】にも砲撃が集中し、【時雨】の除いて僚艦はみな大損害を受けてしまいます。
やがて【時雨】を残して6隻は沈没。
第二七駆逐隊の仲間が全て沈み、そしてここでは艦隊が全滅、【時雨】は孤軍奮闘するも、一人ぼっちになってしまいます。
このとき時雨は、敵の砲弾1発が艦後部に命中し燃料タンクを貫通したが不発でした。
命からがら地獄の海域から逃げ切った【時雨】ですが、その豪運ぶりは未だ衰えを見せず、11月には護衛中に襲いかかってきた【米ガトー級潜水艦 グロウラー】を返り討ちにし、日本の多くの艦艇を屠ってきた恐怖の潜水艦にとどめを刺します。
また、マニラを出港した翌日にはそのマニラが火の海となり、志摩艦隊旗艦として「レイテ沖海戦」に出撃していた【那智】もこの空襲によって沈没してしまいました。
ここでも【時雨】は沈没の危機を回避しているのです。
しかし以後、【時雨】は護衛を完遂することが難しくなり、【グロウラー】撃破の一方で【油槽船 萬栄丸】撃沈、12月には【雲龍】が魚雷によって沈没してしまいます。
ちなみに、このとき【雲龍】には桜花が30機搭載されてました(すべて海没)
12月下旬から【時雨】は「ヒ87船団」の護衛を第17駆逐隊とともに任されます。
本来は途中までの同行だったのですが、練度不足による訓練のため【矢矧】が同行中止、また機関に不具合が生じた【雪風】も離脱し、【時雨】はそのまま「ヒ87船団」の護衛を継続することになりました。
しかし10日にはタンカー4隻が沈み、【給油艦 神威】が大破する大損害を被り、日本は「ヒ87船団」をふた手に分けることにしました。
【時雨】は「ヒ87A船団」を護衛し、シンガポールを目指します。
しかしその海域もまた、潜水艦が蠢く危険な進路でした。
【米バラオ級潜水艦 ブラックフィン】は4本の魚雷を【時雨】に向けて発射。
うち一本が【時雨】の左舷後部を襲い、その衝撃は凄まじいもので、すぐに【時雨】は傾斜、そしてその船体は分断されてしまいます。
被雷後10分で【時雨】は沈没。
長きに渡りその豪運とそれを上回る実力によって死地をくぐり抜けてきた【時雨】の命運はここに尽きました。
「呉の雪風、佐世保の時雨」と並び称された【時雨】ですが、【時雨】は決してその運におごることなく、必死に練度を高め、そして戦いを研究していました。
25mm機銃の性能の高さを大きく評価し、【時雨】は多くの艦載機を撃墜してきました。
戦没約1月前の機銃の状況は、25mm3連装3基、同連装1基、同単装15基、13mm単装4基。後部2番単装主砲は撤去、前部右舷の予備魚雷格納函も撤去され、短艇の一部も陸揚げされていた。水測兵器は九三式水中聴音機と探信儀を装備し、探信儀には水流覆いが着けられていた。また前マストに22号電探と13号電探を1基ずつ装備していた。
また「ベラ湾海戦」の敗北から米軍の電探・レーダーの性能の良さを認め、開発が遅れていた日本の将来に不安を覚えていますし、さらにその性能や対策の研究も熱心に行っていました。
沈没寸前にも電探射撃に自信を持っている旨を通信しています。
終戦まで生き抜くことはできなかったものの、【時雨】は実力で今に語り継がれる地位を確立したのです。
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