雪風【陽炎型駆逐艦 八番艦】
YUKIKAZE【KAGERO-class Destroyer 8th】
起工日 昭和13年/1938年8月2日
進水日 昭和14年/1939年3月24日
竣工日 昭和15年/1940年1月20日
退役日(解体) 昭和45年/1970年
建造 佐世保海軍工廠
基準排水量 2,033t
垂線間長 111.00m
全幅 10.80m
最大速度 35.0ノット
航続距離 18ノット:5,000海里
馬力 52,000馬力
主砲 50口径12.7cm連装砲 3基6門
魚雷 61cm四連装魚雷発射管 2基8門(次発装填装置あり)
機銃 25mm連装機銃 2基4挺
缶・主機 ロ号艦本式缶 3基
艦本式ギアードタービン 2基2軸
【帝国海軍史に堂々君臨する幸運艦 雪風】
駆逐艦の中では文句なし、帝国海軍艦艇全ての中でも五指に入るほど有名な【雪風】です。
主力駆逐艦であった「陽炎型」、それに準ずる戦力であった「朝潮型」、「陽炎型」とほぼ同等クラスの「夕雲型」。
主戦場に優先的に動員されたこれら合計48隻の中で、終戦まで生き残ったのはこの【雪風】のみ。
海戦に不参加だったわけでも、常に逃げ腰だったわけでもなく、他の駆逐艦と同様に必死に戦い続けていました。
そして【雪風】のすごいところは、最初から最後まで一貫して戦力だったところです。
終戦時に残存していた艦艇は他にも何隻もいましたが、そのほとんどが損傷状態、または戦時中に修理を行ったり、出撃が控えられた時期がある艦でした。
開戦当初から終戦間近まで継続して主戦力だったと言える艦は、他には【利根・初霜】ぐらいしかいません。
【雪風】はさらに、戦闘に参加しながらもほとんどの戦いを無傷で切り抜け、例えダメージを受けても小破、直撃弾を受ければ不発弾、襲いかかる魚雷が船の下を通り過ぎるなど、幸運エピソードに事欠きません。
「呉の雪風、佐世保の時雨」と謳われましたが、その【時雨】も終戦まで猛攻を耐えぬくことはできませんでした。
幸運艦と呼ばれたのは他にも【瑞鶴】や【羽黒】などがいますが、彼女らもやはり終戦前に沈没しています。
彼女らは決して運だけに頼っていたわけではなく、それぞれが誇れる武勲、戦果を立てています。
それでも敗北してしまったのです。
いかに【雪風】が他を凌ぐ豪運の持ち主だったかがわかります。
当然【雪風】も運だけで終戦を迎えたわけではありません。
乗員の練度は非常に高く、戦果を挙げるだけではなくその被害を未然に防ぐ手腕も相当なものでした。
加えて歴代の艦長も優秀な人材ばかりで、乗員の実力をさらに高める力を兼ね備えていました。
日本は、簡単に言えば数と兵器の性能と燃料によって太平洋戦争で敗北しましたが、個人個人の練度は常識はずれなものを持っていた乗員が数多くいます。
【雪風】はそのような乗員を迎え入れ、またそのような乗員を艦内で育てたのです。
【雪風】は自身が持つ幸運をさらに支える人材にも恵まれました(後述)。
【無傷の強運を振りかざし、南方海域を走り回ることに】
【雪風】は竣工時には【黒潮・初風】と3隻で第一六駆逐隊を編成し、第二水雷戦隊に所属していました。
【雪風】は太平洋戦争前の最後の観艦式となる「紀元二千六百年特別観艦式」に参加しました。
観艦式が終了すると、新たに竣工した【時津風・天津風】が第一六駆逐隊に編入、【黒潮】が第一五駆逐隊へ転籍し、太平洋戦争にはこの4隻で挑みました。
昭和16年/1941年12月12日、初陣となる「レガスピ上陸作戦」に参加。
24日には「ラモン湾上陸支援」に参加したのですが、意外にも【雪風】はこの際に米戦闘機の機銃掃射によって重油タンクが損傷しています。
幸運艦ながら、初損傷は非常に早かったのです。
回復後、「メナド攻略作戦、ケンダリー攻略作戦、アンボン攻略作戦」と続けて従事し、2月には初の海戦となる「スラバヤ沖海戦」に参加。
直接的な戦果はありませんでしたが、艦隊全体で多くの連合軍艦艇を撃沈、連合軍兵士約40人を救助しています。
その後、しばらくは護衛任務が多くなり、「ミッドウェー海戦」でも輸送船団の護衛を行っていました。
8月になると「ガダルカナル島の戦い」が始まり、【雪風】もこの巨大な戦いに身を投じます。
「南太平洋海戦」では【翔鶴】の護衛を担当。
【翔鶴】は残念ながら被弾して中破してしまいますが、もう1隻の幸運艦である【瑞鶴】はスコールの傘に守られて無傷。
【翔鶴】に着艦できずに海面に不時着したパイロットを救出した後、【瑞鶴】の護衛をしながら米艦載機と交戦をしています。
【初風・時津風】は損傷艦の内地回航の護衛を任され、【雪風】は【天津風】とともにトラック島に残ります。
しかし「ガダルカナル島の戦い」では徐々に日本の戦況が悪化します。
その諸悪の根源は、なんといっても制空権を握り続けているヘンダーソン飛行場でした。
幾度と無く砲撃を行いながらも、一向に壊滅しない同飛行場(米軍は重機で飛行場を建設してたため、日本が想像するよりもはるかに早く被害を回復していました)を破壊するために挺身攻撃隊を組織。
【雪風】はこの攻撃隊に所属してガダルカナル島へ突撃するのですが、それを阻止する米艦隊と激突。
ここに「第三次ソロモン海戦」が勃発します。
【夕立】や【綾波】が常識はずれの大暴れをした同海戦ですが、二夜にわたって【比叡・霧島】が沈没。
米軍も多数の沈没、損傷は出たものの2隻の戦艦はともに健在で、日本は敗北します。
第一夜で参戦した【雪風】も敵駆逐艦1隻の撃沈を認められていますが、その沈めた相手までは定かになっていません。
定かになっていないのは【比叡】の雷撃処分についても同じです。
一度雷撃処分命令が下されたのは確かなのですが、その後取り消されて自沈したのか、本当に雷撃処分されたのかがはっきりしていません。
現在では【比叡】の自沈が有力なようです。
【雪風】はこの戦いではさすがに至近弾を受けて小破、しかしそれでもまわりの被害に比べれば明らかに軽度でした。
最高速度こそ発電機の故障によって低下してしまいましたが、【明石】によって応急処置を受けたあとは【飛鷹】の護衛をしながら呉まで戻っています。
明けて昭和18年/1943年、【雪風】は再びトラック島へ帰ってくるのですが、この時にはもう日本はガダルカナル島の放棄を決定しており、作戦は攻めから撤退へと変更されていました。
【雪風】はその三次に渡る「ガダルカナル島撤退作戦(ケ号作戦)」全てに参加しています。
しかしこれまでの戦いでの損耗の上、第一次では【巻雲】が沈没、第二次では【舞風】が大破するなど被害が累積していました。
第三次では大発動艇などを使った作戦にすべきだとの声が上がりましたが、速度も収容人数も圧倒的に劣る大発動艇では作戦成功率は極めて低いとされ、また【雪風・浜風】の駆逐艦長からも「駆逐艦でやるべきだ」との具申があったことから、「第三次ガダルカナル島撤退作戦」は予定通り駆逐艦で実施されます。
そしてこの「第三次ガダルカナル島撤退作戦」は損害予想をはるかに下回る結果で成功し(【磯風】大破)、【雪風】は1万3千人の兵士を島から助けだしました。
しかし悪い流れは止まりません。
3月には、制空権を取られている海上を老朽の輸送船を護衛しながら進むという、あまりに無茶な「八十一号作戦」実施が下されます。
現場からの反発の声が止まない中、「命令」の一言で向かわされた海上では、やはり悲劇が待ち構えていました。
「ビスマルク海海戦」、通称「ダンピールの悲劇」です。
米軍は反跳爆弾という、水切り石の要領で爆弾を海面で弾ませながら敵艦隊を襲うという新たな攻撃方法を繰り出し、日本は初めて味わう恐怖に為す術なく敗北。
輸送船8隻全滅(うち1隻は前日沈没)、駆逐艦も半壊し4隻が沈没するという大惨事となりました。
【雪風】は、やはり無傷でした。
同じく無傷だった【朝潮】が【輸送船 野島】、【荒潮】救助の結果沈没した一方で、【雪風】は沈没した僚艦【時津風】の乗員を救助、さらに救援に来ていた【初雪】に乗員を引き渡した後再び【荒潮】の救助のために同海域に引き返しています。
休む暇はありません。
わずか2日後には「ビラ・スタンモーア夜戦」で沈没した【村雨・峯雲】の乗員救助に向かい、さらにその3日後には「コロンバンガラ輸送作戦」を実施。
そしてその後2ヶ月に渡り輸送任務に就きます。
4月、南方ばかりではなく北方でも米軍の侵攻に圧されはじめた日本は、一航戦を呼び戻すことにします。
【雪風】はその護衛のために日本に戻りますが、その際に同時に入渠、25mm機銃増設と合わせて新型装備となる逆探を搭載されました。
今後、沈没しない上に戦果を残してくれる【雪風】は優先的に新型兵装を搭載されるようになります。
これも【雪風】が最後まで戦いぬくことができた要因でしょう。
【死神】
いつしか、このように呼ばれることも増えてきました。
【雪風】が幸運を発揮するたびに、他の誰かが犠牲になります。
7月には「コロンバンガラ島沖海戦」が勃発し、帝国海軍が誇る第二水雷戦隊の旗艦【神通】が沈没。
一方逆探を搭載されていた【雪風】はこの効果を存分に発揮し、敵のレーダーが日本艦隊を察知したと同時にこちらも存在を確認。
【神通】が命をかけて探照灯を照射させ、そこで暴かれた敵艦隊に先頭を切って殴りこみます。
結果、敵軽巡洋艦3隻大破、駆逐艦2隻大破、1隻撃沈という戦果を駆逐艦5隻で達成しています。
また、この海戦では本来の目的である上陸作戦も成功させ、鬼神【神通】を失ったものの久しぶりに大成功を収めた作戦となりました。
休む間もなく1週間後にはコロンバンガラ島への輸送が実施されます。
しかしこの時に【夕暮・清波】が夜間爆撃によって沈没。
空襲直前に艦隊が回頭して左右逆となっており、【夕暮】は襲撃位置を見ると回頭しなければ【雪風】がいたであろう場所で沈没していました。
これを見て「【夕暮】は【雪風】の身代わりにされて沈んだ」という噂も流れました。
8月末、上記の空襲によって損傷を負った【熊野】を護衛して呉へと戻った【雪風】は、2度目の改装を施されます。
さらに25mm機銃を装備した【雪風】は、その幸運力を評価されたのか、10月には単艦で【瑞鳳】を護衛しながらシンガポールへ向かうことになりました。
その評価は適切で、道中で2度も潜水艦に遭遇するもののこれを排除しています。
11月に発生した「ラバウル空襲」では、事前にこの空襲を予見していた【雪風】が港外へと逃れて仮泊をしていました。
本土とトラック間の輸送任務が一段落すると、【雪風】は3度目の改装に入ります。
2番砲塔を撤去し、25mm三連装機銃を2基搭載。
これまでの2度の改装でも機銃は増設されていたため、【雪風】は防空駆逐艦と銘打たれた「秋月型」に次ぐほどの対空装備を備えることになりました。
また、22号対水上電探、13号対空電探も用意してもらい、最も時代にあった駆逐艦となったとも言えるでしょう。
昭和19年/1944年1月、代わり映えなく輸送任務を行っていた【雪風】でしたが、輸送任務中に潜水艦と遭遇。
【天津風】がこれの追撃に向かったのですが返り討ちにあってしまい、艦首を切断して大破してしまいます。
輸送任務そのものは支障なく完遂されたのですが、これで第一六駆逐隊で稼働できるのは【雪風】だけとなってしまいました(【初風・時津風】は沈没)。
その後も空母とともに輸送任務を続けた【雪風】ですが、3月31日、ついに第一六駆逐隊は解散、新たに第一七駆逐隊に編入されることになりました。
この第一七駆逐隊は【雪風】と同じく「陽炎型」で構成されていましたが、次々に沈んでいく艦が発生する中、開戦時からただの1隻も欠けることなくここまで戦い抜いている精鋭の集まりでした。
【浦風・浜風・磯風・谷風】で構成されていた第一七駆逐隊は、本来なら4隻編成が適切とされている中に特例として【雪風】を組み込んだ5隻編成となります。
しかし【谷風】の乗員は「【雪風】は一六駆で僚艦を全部食い尽くした」と【雪風】の編入を歓迎せず、自身の駆逐隊でも犠牲が出るのではないかと恐怖していました。
その予感は自身が体感することになります。
3ヶ月後の6月、【谷風】は「マリアナ沖海戦」で対潜哨戒中に【米ガトー級潜水艦 ハーダー】の雷撃によって沈没。
歴戦の猛者の一角を欠いた第一七駆逐隊は、標準の4隻編成へと戻ってしまいます。
【「慣れっこになったなぁ、こういう光景に」】
【雪風】が参加できなかった中で有名な海戦は、先述した「マリアナ沖海戦」です。
これも幸運の証なのか、5月に【雪風】は触礁によってスクリューを損傷し、本来の速力が全く発揮できない状態となってしまいます。
このため、【雪風】は第二補給部隊の護衛に回ることにあり、【卯月】とともに戦況を影から見守ることになりました。
しかし結果は大敗北。
数多くの船がこの戦いで散っていきました。
6月20日には【雪風】たちが護衛している輸送船も空襲を受けますが、【雪風】はこの攻撃部隊に対して探照灯を放ち、目をくらませるという奇策をやってのけ、結果3機の航空機を撃墜しています。
しかし輸送船をすべて守ることはできず、【玄洋丸、清洋丸】が航行不能。
それぞれを【雪風・卯月】が雷撃処分しました。
7月、再び呉へと戻った【雪風】はまたもや兵装強化をされることになります。
25mm単装機銃10挺、13mm単装機銃4挺を増備された【雪風】はもはやハリネズミのような状態でした。
10月、「レイテ沖海戦」が【雪風】を迎え入れます。
しかしこの阿鼻叫喚の海戦をもってしても、【雪風】の幸運力を抑えつけることはできませんでした。
【武蔵・愛宕】が沈没し、西村艦隊が猛る炎に身を包みながら壊滅していく中、【雪風】にも魔手が伸びていました。
空襲によって航行不能になっている【筑摩】を救助するために、【雪風】は準備をしていました。
しかし【大和】より「【雪風】は原隊に復帰、救助には【野分】があたるように」と指示があり、【雪風】は役目を【野分】へと譲ります。
これがまたも【雪風】を延命させました。
【野分】は沈没していた【筑摩】の乗員救助を行いますが、そこを米軍の航空機に襲われ、【野分】はなんとその場で沈没してしまいました。
さらに同じく航行不能になっている【鈴谷】の救助に向かった【雪風】ですが、ここでは救助が始まる前に【鈴谷】が爆発。
またも被害をうけることはありませんでした。
「マリアナ沖海戦」を上回る空前絶後の損害を被った日本の負の連鎖は止まりません。
11月には【米バラオ級潜水艦 シーライオン】が日本の戦艦を長年率いてきた【金剛】と第十七駆逐隊の僚艦【浦風】を沈めます。
そして日本の最後の切り札とも言える【信濃】も、【雪風・浜風・磯風】が護衛する中【米バラオ級潜水艦 アーチャーフィッシュ】によって4発の魚雷で撃沈。
【武蔵】が沈没までに受けた魚雷数はなんと20発です。
同型艦からの改造である【信濃】がたった4発の魚雷で沈んだのは、乗員の練度、未完成状態、そして広すぎる、という悪条件が重なりあったためでした。
この時【雪風】の水中探査機は故障しており、さらに疲労を抜く暇もなかったため乗員の集中力は保たれていませんでした。
【雪風】は長大な【信濃】から脱出する乗員を救助します。
その時、艦長の寺内正道中佐は、「慣れっこになったなぁ、こういう光景に」と漏らしたといいます。
こんな光景というのはすなわち、沈んだ仲間の艦から脱出する乗員の救助光景です。
幸運艦であり、死神である【雪風】は、常に僚艦の敗北を目にしてきました。
そしてそのたびに、限りある生命を少しでも救おうと手を差し伸べ続けてきたのです。
12月、止めとばかりに【雪風】と対をなす幸運艦【時雨】が潜水艦に襲われて沈没。
【瑞鶴】もすでにこの世を去っており、幸運と謳われていた艦は【雪風】と【羽黒】だけとなっていました。
【不沈艦 雪風】
【武蔵】が敗れ、【信濃】が斃れ、残された【大和】は。
昭和20年/1945年3月、「天一号作戦」が発令されます。
もはや敗北は決定的、しかしこのままむざむざやられてなるものかと、日本は【大和】を中心として沖縄上陸を目指す米軍に玉砕必至の特攻を敢行することになるのです。
時代は航空戦、そして米軍は大小様々な空母を量産しています。
いかに世界最強の戦艦【大和】を要しようしようとも、空母1隻すら残されていない日本の勝率はゼロでした。
玉砕、特攻。
この言葉通り、各艦の乗員は生きて帰ることはないだろうと遺書や遺品を残していきました。
また、本来なら駆逐艦には記されることのない「菊花紋」も各艦の煙突に記されました。
ところが【雪風】は「うちはいつもどおりでいいんだ」と寺内艦長の命令でこれを禁止。
遺書や遺品を残すことも許されませんでした。
【雪風】は、生きて帰ってくることを信じていました。
【大和】、第二水雷戦隊旗艦【矢矧】、【雪風・浜風・磯風・初霜・霞・朝霜・涼月・冬月・花月・榧・槇】
(うち【花月・榧・槇】は戦闘前に撤退。)
4月7日、「坊ノ岬沖海戦」がはじまります。
輪形陣で挑むものの、陣を維持することは到底不可能で、開戦と同時に多くの艦が被害を負っていきます。
ひときわ目立つ【大和】に攻撃が集中し、2時間の猛攻の末、「大和型」最後の1隻【大和】が沈みます。
他にも【矢矧、浜風、朝霜、霞】が沈没。
また【冬月】が中破、【涼月、磯風】が大破しました。
【雪風】は、またも生還します。
ここでも遺憾なく幸運を発揮した【雪風】は、魚雷が深く潜りすぎて直撃を回避、ロケット弾が直撃するも信管が作動せずに不発に終わり、被害も死者がこの敗北一色の海戦の中でたった3人とまさに奇跡的な数字を残しています。
【雪風】は潜水艦の雷撃や空襲から即離脱できるよう、微速を維持しながら【大和】の乗員を救助しました。
次に【雪風】は【磯風】の救助に向かいますが、【磯風】はもはや自力航行ができないほどにズタボロでした。
曳航をしようとした【雪風】でしたが、【大和】から司令を移された【初霜】が曳航中の被害を懸念して雷撃処分を決定。
第一七駆逐隊最後の僚艦は、【雪風】の手によって沈められました。
多くの救助者を抱えた【雪風】は日本へ返ってきます。
4月にはかつて第十六駆逐隊でとも戦った【天津風】が座礁の末自沈。
これをもって、「陽炎型」は【雪風】ただ1隻となってしまいました。
舞鶴の地で【初霜】とともに空襲と戦っていた【雪風】でしたが、7月30日、【雪風】最後の戦いである「宮津空襲」の時に【初霜】が機雷に触れて擱座、沈没。
指折りの武勲艦は終戦目前で力尽きてしまいました。
やがて二度の原子爆弾投下の末、日本はポツダム宣言を受け入れて敗北。
ついに【雪風】は、一度も大規模修復を行うことなくこの戦争を生き抜きました。
太平洋戦争で亡くなった兵士は陸海合わせて179万人、【雪風】の乗員は239人でしたが、戦争中に亡くなった【雪風】の乗員はわずか13名。
戦闘中に亡くなった人に限れば9名と、2桁にすら満たないという神がかり的な数字です。
寺内艦長は終戦後、【雪風】が生還した理由について乗員が優秀であったことと合わせて、「やはり運だろう」と述べています。
【駆逐艦 丹陽として中華民国での余生】
終戦後、【雪風】には第二の艦生が待っていました。
激動の太平洋戦争をくぐり抜けたとはいえ、彼女はまだ竣工してからたった5年しか経っていません。
働く場所はたくさん残されていました。
まずは復員輸送船です。
小型とはいえ、艦隊型駆逐艦では唯一まともに稼働することができた【雪風】は1年半近くで15回の復員輸送を行い、延べ1万3千人以上を日本に送り返しました。
その輸送中、【雪風】は様々な試みをしています。
まず、艦内慰安や知識思想の交流などを目的に「雪風新聞」を発行、また疲弊している復員兵たちを労うために乗員が作詞作曲した「復員者歓迎雪風の歌」を歌い、雪風楽団を結成しました。
終戦後も精力的に働き、お国のために働いた人たちを送り届けた【雪風】は、ついに新しい世界で活躍することになります。
その世界は、「中華民国(現台湾)」でした。
連合国軍にも最優秀艦に認定された【雪風】は、復員輸送を終えると戦時賠償艦として一度連合国に引き渡されました。
しかし引き渡されてからも日本の誇りある【雪風】の美しさを保ちたいと、整備士たちは最後の最後まで入念に手入れをし続けました。
その輝く姿を見た連合国側は、「敗戦国の軍艦でかくも見事に整備された艦を見たことがない。まさに脅威である」と賛辞を送っています。
抽選の結果、【雪風】は中華民国へと引き渡されることになりました。
中華民国は「支那事変(日中戦争)」によって相当な被害を被っており、かつての敵国とはいえその敵国を支えた武勲艦を迎え入れることができるのは僥倖でした。
その証拠に、【雪風】には駆逐艦でありながら「中華民国海軍旗艦」という、海軍No.1軍艦の地位を与えられています。
整備の行き届いた【雪風】に驚いたのは中華民国も同じで、台湾出身の将校たちは涙ながらに「兄からの最後の贈り物。今までの御恩は決して忘れません」と感謝の言葉を残しました。
【雪風】は名を『丹陽』と改め、他の戦時賠償艦たちとともに中華民国の貴重な戦力として活躍します。
『丹陽』は兵装が取り払われていたため、当初は日本の12.7cm連装砲や長10cm高角砲が使われていましたが、補給の問題からやがてアメリカ式の砲に交換されていきました。
アメリカ式の砲は5inch単装両用砲や7.6cm単装両用砲などで、日本のものよりも口径は小さいのですが、平射砲だった日本のものとは違い俯仰角が-15~85度、さらに速射性に優れた非常に優秀な砲です。
そして『丹陽』の何よりの武器でもある幸運力は中華民国でも健在でした。
中華民国はやがて国民党と共産党の人民解放軍の闘いが勃発。
『丹陽』は国民党側に立って人民解放軍と戦います。
国民党は共産党との争いに敗れ、『丹陽』は総統蒋介石を乗せて台湾へと避難しました。
その後の交戦中、さすがに酷使が祟って速力が低下しつつあった『丹陽』が交戦中に突如ボイラーの調子が戻り、往年の高速航行が復活。
また命中寸前の砲弾が突如爆発して直撃を免れた、という逸話もあります。
その後も【ソ連油槽船 トープス】を拿捕したり、人民解放軍のコルベット艦を1隻撃沈、1隻撃破したりと、齢20年を超えても『丹陽』は第一線で活躍し続けました。
昭和39年/1964年の観艦式でも『丹陽』の姿は今だ健在でしたが、さすがに衰えは隠しきれず、速力も29ノットにまで落ちていました。
そしていよいよ、『丹陽』にも引退の時がやってきます。
昭和40年/1965年12月16日、『丹陽』は退役、昭和41年/1966年11月16日付で除籍されました。
起工昭和13年/1938年8月2日、竣工昭和15年/1940年1月20日。
竣工してから26年と10ヶ月。
長きに渡り主を守り続けた『丹陽』は、ついにその役目を終えました。
以後、『丹陽』は一線からは退いたものの、訓練艦として次世代を担う若者の力となっていました。
その一方で、日本では『丹陽』の退役を知り、あの武勲艦をもう一度日本に迎えたい、と雪風返還運動が起こります。
その交渉は順調に進み、昭和44年/1969年は翌年の返還が両者で約束される直前でした。
しかし、最後の最後で、【雪風】の幸運は尽きてしまいました。
昭和44年/1969年の夏、暴風雨にさらされた『丹陽』はその老いた身体を支えることができず、大破してしまうのです。
艦齢29年でした。
『丹陽』は昭和45年/1970年に解体され、翌年日本に戻ってきたのは舵輪と錨のみでした。
返還式典は静まり返り、「あの【雪風】がこれだけになってしまったのか」とかつての乗員たちは脇目も振らずに大泣きしたそうです。
現在、江田島の教育参考館に舵輪と錨が展示されており、スクリューは台湾の海軍軍官学校に展示されています。
【雪風】が『丹陽』となって中華民国にわたってから数年後の昭和26年/1951年、「朝鮮戦争」勃発もあり、日本ではGHQの指示により海上警備隊が創設され、貸与軍艦と平行して日本でも新たに護衛艦の建造が決定しました。
この護衛艦は日本にとって非常に重要な節目となりました。
昭和29年/1954年には海上警備隊が海上自衛隊へと改組され、今後の日本護衛の礎となる最初の護衛艦に注目が集まりました。
そしてその小さな1,700t級護衛艦の二番艦の名に、「ゆきかぜ」が採用されました。
さすがにネームシップは過去の武勲が重すぎて背負いきれないとされ、ネームシップには「はるかぜ」(先代は、2代目神風型駆逐艦の三番艦【春風】)が採用されました。
その代わり、進水は「ゆきかぜ」が先に行われ、かつての栄光を讃えています。
【雪風を雪風たらしめた人物たち】
【雪風】は武勲艦であり幸運艦であったため、それを象徴するエピソードにも事欠きません。
紹介できていないエピソードで一点、恐ろしいものがあります。
日本が劣勢に立たされるようになると、どこでもピンピンしている【雪風】は遠慮なく任務を任され、いっときの暇もないまま次の任務のために動き出していました。
やがてあちこちで護衛だの輸送だのを頼まれるうちに、ついに【雪風】が今どこにいて何の任務に就いているのか、第一七駆逐隊どころか軍司令部さえ掴みきれいないという事態が発生します。
新兵が【雪風】に着任するまで横須賀、シンガポール、台湾、呉と渡り歩き、6ヶ月もかかったという話もあります。
その時、ちょうど「マリアナ沖海戦」が勃発しており、新兵たちは「【雪風】が今どこにいるかは分からないが、戦いの過程で必ず要所の台湾を通る」と確信して台湾へ向かいます。
そして読み通り第一七駆逐隊は台湾へ寄港。
ところが肝心の【雪風】の姿がそこにはありません。
実は【雪風】はスクリュー破損のために他の第一七駆逐隊とは別行動だったのですが、台湾に向かう途中にイカダで漂流する80名の陸軍兵士を救助し、そのまま本土へ直行していたのです。
新兵たちは読みが外れたのかと落胆して呉へ向かいますが、そこでデング熱に侵されて療養することになりました。
そこへたまたま【雪風】がやってきてようやく着任、というウソのようなホントの話がありました。
冒頭でも述べていますが、【雪風】は単に運が良かっただけではなく、その結果を招くことができるほどの実力が備わっていたため、幸運艦と同時に武勲艦としても名を馳せています。
最後に、彼らの力を引き出した歴代の艦長のお話を紹介します。
太平洋戦争開戦時の艦長だった3代目艦長、飛田健二郎中佐は、豪傑であって用心深く、【雪風】のスタイルを確立させたと言ってもいい艦長です。
平時には三等水兵(下から二番目)とも酒を飲みかわすなど人情に溢れた彼は、「スラバヤ沖海戦」でも率先して漂流中の連合軍兵士を救助しました。
また、その剛気とは裏腹に迅速さ、用心深さにも定評があり、【雪風】は「超機敏艦」とも呼ばれていました。
それは常に準備と予想を怠らなかった故で、開戦早々にタバオで修理を受けていた時に空襲に襲われた時も、事前に空襲を予見して缶の圧力をあげていたから即座に退避することができました。
この空襲では【妙高】が軽微ですが損傷しています。
4代目艦長は打って変わって物静かな立ち居振る舞いだった菅間良吉中佐。
しかしその心に秘めたる思いと確固たる自信は強靭なもので、「私が乗っている限り【雪風】は沈まん」と豪語していました。
その自信の源は、名人芸とまで言われた操舵技術にありました。
日本の駆逐艦はもともと操舵性に優れていたそうで、戦史でも多くの駆逐艦が空襲の難を逃れている事実があります。
しかし菅間艦長のそれはまさに別次元で、いともたやすく爆弾を回避して航行を続ける姿は、乗員が無条件に彼を信頼するに足るほどのものでした。
菅間艦長時代は「ガダルカナル島の戦い」があり、輸送・護衛・海戦を続けざまにこなし、さらに疲労困憊の中でも確実に生還してきた【雪風】を守っていたのは紛れも無く彼でした。
しかし、彼は【雪風】を退艦するときにこう述べています。
「かつて私は運がいい男だと大見得を切ったが間違いだった。武運の神に守られているのは【雪風】だ。私が去っても【雪風】は沈まない。【雪風】に神宿る、【雪風】に神宿るだ」
そしてその神が次に迎え入れた艦長、寺内正道中佐もまた偉大な人物でした。
大きな身体で豪放磊落、酒豪でヒゲがトレードマークの寺内艦長は、文字上では3代目艦長の飛田健二郎氏を彷彿とさせる人物ですが、繊細な性格を持っていた飛田氏と違って寺内艦長は本当に豪快な人物でした。
就任時、菅間氏同様「わしが乗っている限り【雪風】は沈まん」と宣言した寺内艦長は、部下を可愛がり上司に歯向かう性格が受けて瞬く間に乗員の信任を得ます。
もちろん彼の腕も相当なもので、菅間氏に並び立つほどのものでした。
その真価を発揮した史実が、「坊ノ岬沖海戦」で残されています。
空から無数の航空機が艦隊を狙って爆弾を落としてくる中、寺内艦長は艦橋の天蓋から鉄兜も被らずに身を乗り出し、三角定規で爆撃の落下位置を読みつつ航海長の肩を蹴って面舵・取舵を指示したといいます。
この肩を蹴って進路方向を決定する方法は、本来戦車で行われるものです。
鉄兜を被るように進言したら「俺に弾は当たらん!」と突っぱね、タバコをふかしながら絶望的な海戦を乗り切ったのです。
この抑えきれない自信は、前述している「坊ノ岬沖海戦」前の遺書・遺品の用意や「菊花紋」の塗装を中止した点からも伺えます。
「雪風の守護神」として崇められた寺内艦長が出したこれらの指示は乗員にあっさり受け入れられ、「うちの艦長は操舵日本一だ、任せておけば間違いない」と玉砕作戦において全く悲観視していませんでした。
【雪風】最後の戦いとなった「宮津空襲」では飛田氏の置き土産とも言える「超機敏艦」の実力も存分に活かされ、空襲を未然に予見して早めの抜錨からの対空射撃と流れるように戦闘態勢を整えています。
彼らの活躍と、それを信頼し、彼らの厳しい訓練に耐え、そして【雪風】が本来備えていた強運が合わさって、【雪風】は29年間生き抜きました。
【雪風】の名は今後も掠れることなく、力強く刻まれ続けることでしょう。
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