天津風【陽炎型駆逐艦 九番艦】


AMATSUKAZE【KAGERO-class Destroyer 9th】




起工日 昭和14年/1939年2月14日

進水日 昭和14年/1939年10月19日

竣工日 昭和15年/1940年10月26日

退役日(沈没) 昭和20年/1945年4月10日(アモイ湾)

建造浦賀船渠

基準排水量 2,033t

垂線間長 111.00m

全幅 10.80m

最大速度 35.0ノット

航続距離 18ノット:5,000海里

馬力 52,000馬力

主砲 50口径12.7cm連装砲 3基6門

魚雷 61cm四連装魚雷発射管 2基8門(次発装填装置)

機銃 25mm連装機銃 2基4挺

缶・主機 ロ号艦本式缶 3基

艦本式ギアードタービン 2基2軸




【特別な陽炎型 快速島風のために新型缶搭載】


【天津風】は19隻いる「陽炎型」の中でも、史実以外でもひときわ目立つ存在でした。


その理由は、帝国海軍史上最高峰の駆逐艦【島風】建造のために一役買っているところにあります。

実は日本の駆逐艦の速度は徐々に低下する一方で、「吹雪型」が38ノットに対し、「陽炎型」は35ノット。


38ノットは時速約70.3kmで、35ノットは約64.8kmですから、だいたい5kmほどの差があります。

ちなみに、1ノットとは1時間に1海里進む速度、そして1海里はおよそ1,852mとなります。


差は3ノット、果たしてこの差は大きいのでしょうか。


実は、比較対象はここではありません。


海戦において、駆逐艦が誇る魚雷を如何に優位な場所から正確に放つことができるか、これは最重要課題でした。

そしてそのためには相手を上回る速度で海上を占有し、その場所を確保しなければなりません。


そのために必要な速度差が、おおよそ10ノットとされていました。

35ノットで不足とされた理由は、その10ノットの速度差が維持できなかったためです。


当時、駆逐艦の速度とは逆に戦艦の速度は速くなる一方でした。


日本の「大和型」が27ノット、これは戦艦では最高クラスの快速性でした。

さらに速度を重視した戦艦も存在し、それは日本では「金剛型」であり、アメリカでは最新型の「アイオワ級」が33ノットの速度の計画もたてられました(実際は30~31ノット)。

33ノットの「アイオワ級」と比較すると、「陽炎型」との速度差はわずか2ノットです。

さすがに「アイオワ級」はずば抜けているにしても、やはり日本の駆逐艦の速度は課題でした。


「陽炎型」は仕方なく速度を犠牲にした経緯がありますが(36→35ノット)、このままでは水雷戦に大きな支障がでます。

そこで、「陽炎型」の後ろに控えていた「丙型駆逐艦」にはもっともっと速いものになってもらいたい、という思いから、新しい缶が製造されました。

従来の缶が温度350℃・圧力30kg/cm²の蒸気を生み出したのに対し、新型缶は温度400℃・圧力40kg/cm²の蒸気を送り出すことが可能になりました。

これよって燃料の消費量を抑え、また缶そのものも軽量であったので機関重量の軽減にもつながりました。


あとはこれを載せる駆逐艦を選ぶだけでした。


そして選ばれたのが、この【天津風】です。


【天津風】の乗員には特に優秀な面々が選ばれ、その性能を知るために事細かな情報が報告され続けました。

迎えた公試は大成功で、燃費は11%向上、航続距離は6%延伸しました。


速度に関しては「陽炎型」ベースの出力だったので変化はありませんが、これで本格的に「丙型駆逐艦」すなわち【島風】の建造がスタートしました。




【空母の護衛完遂できず 九死に一生のソロモン海】


【天津風】は【初風・雪風・時津風】とともに第一六駆逐隊を編成し、第二水雷戦隊に所属していました。


さらに第一六駆逐隊は【雪風・時津風】の第一小隊と【初風・天津風】の第二小隊に分かれていました。


太平洋戦争の初陣は、【龍驤】旗艦の第四航空戦隊の支援で、【神通・初風】らとダバオ空襲後の四航戦を誘導しています。


これを皮切りに、「レガスピー攻略作戦、ダバオ攻略作戦、ケンダリー攻略作戦」などに参加。


開戦直後から必死に働きます。


昭和17年/1942年2月の「スラバヤ沖海戦」にも参加していますが、この海戦はあまりに遠距離での攻撃だったため、命中わずか、魚雷の相次ぐ自爆(魚雷同士の衝突含む)など、日本側の勝利ではありますが無駄弾が多すぎると批判されています。


また、この海戦の直前に【蘭病院船 オプテンノール】を臨検しています。


戦時中の臨検、拿捕は特に違法ではなく、当時輸送船団の護衛が行われていた関係で情報機密のために【オプテンノール】は自由を奪われます。

やがて【オプテンノール】は【特設病院船 天応丸】として海軍に編入されることになりました。


3月には【天津風】初の戦果となる【米ポーパス級潜水艦 パーチ】撃沈を記録。

以後も「クリスマス島攻略」や輸送任務など、相変わらず働き詰めでした。

「ミッドウェー海戦」にも護衛で参加するものの、二水戦の出番はなく撤退。

作戦の練り直しということで、【天津風】は輸送船を率いて内地に帰投、ようやく休息を得ることになるのです。


7月、【天津風】は二水戦から空母直衛の第十戦隊へ移籍。

半減した空母の護衛強化を図ります。


そして8月24日、「第二次ソロモン海戦」が勃発します。


ヘンダーソン飛行場が機能し始めたことに焦りを感じた海軍が、【龍驤】を中心として同飛行場の破壊を狙ったのです。


随伴には【利根・時津風】、そして【天津風】がつきました。


しかしこの海戦では【米ヨークタウン級航空母艦 エンタープライズ】中破に対して【龍驤】沈没、さらに【エンタープライズ】の艦載機はまさにそのヘンダーソン飛行場を利用して難を逃れるなど、大きな損失となりました。

(別方面で潜水艦が【米航空母艦 ワスプ】、後日【龍驤】を襲った【米レキシントン級航空母艦 サラトガ】を襲撃しています。)


続く「南太平洋海戦」も空母同士の海戦となり、ここでは【米ヨークタウン級航空母艦 ホーネット】を大破(のち沈没)、復活した【エンタープライズ】を再び撃破するのですが、【天津風】の奮闘むなしく日本の機動部隊は再び大きく損壊します。

【翔鶴・瑞鳳】が損傷し、多数の艦載機、パイロットを喪失した日本は、米空母を壊滅状態に追い込むものの、そこに付け入るほどの戦力がなかったため、泣く泣く撤退することになるのです。


やがて雌雄を決する11月の「第三次ソロモン海戦」を迎えます。


ここでは【天津風】が【米ベンソン級駆逐艦 バートン】を沈没させるなど、主砲・魚雷を撃ちまくり戦果を残しますが、探照灯照射によって【天津風】も甚大な被害を負ってしまいました。

主砲は動かず、魚雷も撃ち尽くした【天津風】は戦闘能力を有さず、さらに第二缶室浸水、舵故障、通信機故障、火災発生と、沈没が刻一刻と迫っていました。

なんとか人力操舵を回復した【天津風】は、火災鎮火に務め、左舷傾斜14度のまま命からがら鉄底海峡から脱出します。


その時すでに通信が途絶えていた【天津風】は沈没したとされていたため、その姿を見た艦隊からは大きく祝福の手旗信号や発光信号が送られました。




【絶体絶命の危機 大博打に勝った天津風】



ボコボコになっていた【天津風】は【明石】によって応急処置を施されたあと、呉で修理を行い、昭和18年/1943年2月に復帰します。


トラック島にいる間はこの大小様々な損傷を見によく見物人がきたそうです。

2月にはすでに「ガダルカナル島撤退作戦(ケ号作戦)」が終結しており、【天津風】は1年近く輸送任務に就くことになりました。


しかしその間に【時津風】が「ビスマルク海海戦」で、【初風】が「ブーゲンビル島沖海戦」で沈没し、第一六駆逐隊は【雪風】と2隻だけになってしまいました。

翌昭和19年/1944年1月16日、【天津風】は【雪風、千歳】とともに「ヒ31船団」を護衛してシンガポールへと向かっていました。


その道中、【天津風】は前方に潜水艦の存在を確認。

輸送船は潜水艦の格好の獲物です、【天津風】はすぐさま捜索を開始し、単艦で船団を離れます。

二時間近く捜索をしますが、ついにその存在を確認できず、【天津風】は日の入りの時間も近いことから船団に合流することにします。


衝撃はまさにその瞬間でした。


舵を切った土手っ腹をめがけて4本の魚雷が襲いかかっています。

それこそが捜索していた【米ガトー級潜水艦 レッドフィン】の放った魚雷でした。

うち1本が左舷の第一缶室、第二缶室の間に直撃して大破、当たりどころが悪く、魚雷発射管が空中に吹き飛び、船体はくの字に折れ曲がってしまいました。

やがて波も手伝って【天津風】は分断。


艦首部分は徐々に沈んでいき、脱出できなかった多くの乗員が命を落としています。

艦尾部分も浮力こそ保つものの缶室は全滅、当然航行不能です。


電信室は無事だったため救援緊急電を打ちますが、頼りになる海図等はすべて艦首部分にあった艦橋の中です。

願いは届かず、位置が大幅にずれていたため発見されることはありませんでした。


天候が悪く、「一式陸上攻撃機」が捜索に出た日が少なかったことも災いしました。


一週間、【天津風】はなにもない海を漂い続けます。

やがて食料が、そしてなによりも乗員の体力が限界を迎えました。

一か八か、田中正雄艦長は電波を発し、方位測定をしてもらうことにしました。

電波はもはや諸刃の剣であり、レーダー性能が向上しているアメリカに自分の居場所を教えることにもなりかねません。


しかし、やらねば死ぬ他ありませんでした。


そして、天は【天津風】を見放さなかったのです。


アメリカには気づかれず、電波を受信したことによって【天津風】の正確な位置が判明し、そして15時には待望の「一式陸攻」が【天津風】の上空を旋回しました。


投下された通信筒には、現在位置と翌日にやってくる救援について書かれていました。


翌24日、【朝顔、第十九駆潜艇】が現れます。


そして温かいおにぎりが乗員に配られました。


【朝顔】に曳航されて、【天津風】は29日サンジャックに入港、翌30日にはフランス海軍のドックを借りることになったためにサイゴンへと再び曳航されました。


そこで【天津風】は、10ヶ月に及ぶ「応急処置」を行うことになりました。


無茶なことに、自力で本土に帰ってこいとの通達があったのです。


とにかく浸水箇所が多すぎるため、水抜きからはじめなければなりません。

さらに人員不足、部品不足、慣れないドック等、順調に行く要素は何一つありませんでした。

10月にようやく整備が終わりますが、これはあくまで艦尾の話。


今度は艦首をくっつけなければなりません。


11月15日、【天津風】はシンガポールへと曳航されます。


ここでは仮艦首を接着しますが、不格好なんて言ってられません。

艦首のすぐ後ろにマストが設置され、そのマストには仮説の艦橋施設が用意されていました。

その後ろには1番魚雷発射管があります。


全長はわずか72.4m、測距儀どころかジャイロコンパスもない【天津風】でしたが、13mm単装機銃3基と25mm単装機銃2基を増設、速度は当初12ノットが限界とされていたところ、ボイラー1基の復旧によって20ノットにまで回復しました。


新たにに就任した森田友幸艦長(当時大尉)は、若干25歳です。


この25歳の青年が、【天津風】を日本へと誘導します。




【生への執着 死線をくぐり抜けた天津風の最期】



まだ25歳の森田艦長ですが、彼はこれまで【霞】の水雷長を務め、「レイテ沖海戦」や「礼号作戦」を経験している猛者でした。

長く戦地から離れ、激しさを増している情勢を直に体験していない乗員にはうってつけの人事だったと思われます。


日本からは【天津風】の本土回航を命令されました。

呉では【天津風】の新しい艦首や缶の製造、最新式の電探の準備が始まっています。

しかしすでに日本の戦況は敗色濃厚で、シンガポール近海すらも危険な海域となっていました。

第十方面司令長官であった福留繁中将は、森田艦長に回航を中止してはどうかと進言しました。

多少の兵装があるとはいえ、戦える状態とは決して言えません。


しかし、森田艦長は本土へ戻ることを決意しました。

昭和20年/1945年3月、【天津風】は「ヒ88J船団」に加わって本土へ戻ることが決定されました。

この船団は、沖縄決戦が目の前に迫る中、南方の輸送船をかき集めて日本へ物資を運ぶ最後の輸送船団でした。

輸送船7隻、海防艦6隻、そして【天津風】、総勢14隻の大型船団となります。


【天津風】はこの中で輸送船側、即ち守られる側に入る予定でしたが、森田艦長はこれを固辞、むしろ海防艦とともに船団の護衛に回りたいと進言します。

弱体著しいとはいえ、輸送船以上の速度や兵装もあり、そして何よりも【天津風】は駆逐艦です。

航行ができるのに庇護下に入るのは御免でした。


勘を取り戻すために短期間で厳しい訓練を重ね、ついに3月17日、【天津風】は外洋に出ます。

しかし、この航海がいかに危険なものであるか、【天津風】は嫌でも思い知ることになります。


出港直後から【輸送タンカー さらわく丸】が機雷に接触して沈没。

サンジャックまでは沿岸ギリギリを航行して潜水艦の侵入を抑止し、なんとか事なきを得ます。

ここで輸送船3隻と分かれ、代わりに駆潜艇を1隻編入、船団は11隻となりました。

引き続き沿岸を航行していた船団でしたが、ついにその存在が露呈します。


3月27日、米偵察機が船団を発見、翌日から地獄のような日々がはじまります。


急遽海防艦と駆潜艇を1隻追加し、3隻の輸送船を11隻で守るというなりふり構わない編成となりました。


しかし一度空襲が始まると、それはもう執拗な攻撃が終日行われました。


海防艦が米潜水艦1隻を撃沈しますが、【輸送船 阿蘇川丸・鳳南丸】が沈没。

さらに翌日には虎の子の【輸送船 海興丸】も守り切ることができず、ついに船団はその存在意義を失ってしまいました。


輸送船が失われてからも、米軍の攻撃は留まるところを知りません。

護衛艦も【第十八号海防艦、第二十六号海防艦、第八十四号海防艦、第百三十号海防艦】が失われ、他の艦も大きな被害を受けました。

【天津風】はスコールの中から敵機を攻撃するなど奮闘します。


逆に敵軍は、艦首が起こす波の大きさから速度を推測しますが、実際はそこまで速度が出ていない【天津風】への攻撃がうまくいきません。

【天津風】はその仮艦首によって敵を惑わせ、なんとか香港まで逃げ切りました。


空襲で1名の命を失った【天津風】ですが、まだ日本は遠いです。

そして香港が安全かと言われれば、全くそうではありません。

長く留まることは許されませんでした。


入港翌日の4月3日、やはり米攻撃機が香港を襲います。

これによって【海防艦 満珠】が大破着底、同行が不可能となってしまいました。

【天津風】は動けなくなった【満珠】から13mm単装機銃1基と25mm単装機銃2基を譲り受け、再び銃弾の雨が降る海へと飛び込みます。


今度は「ホモ03船団」に加わり、【天津風】は香港を出港しました。


しかしやはり米軍はその航行を許してくれません。


4月5日、【輸送船 第二東海丸、甲子丸】が爆撃によって沈没、【天津風】は【第二十号駆潜艇】とともに乗員の救助にあたりましたが、救助できたのはたったの半数でした。

【第二十号駆潜艇】は救助者を乗せて香港へ反転、【天津風】はなおも日本を目指します。


救助にあたっていなかった海防艦2隻は先行していたため、【天津風】はこの2隻を追いかけます。

天候のせいで無線機が故障した【天津風】は、先行する海防艦との連絡は取ることができませんでしたが、航路は予め決められているうえ、速度は【天津風】のほうが速いです。

順調に行けば追いつくことができます。


6日、前方から「B-25」が5機、飛来しました。

【天津風】は覚悟を決め、単艦でこの空襲に備えました。

しかし「B-25」からの攻撃はなく、難を逃れた【天津風】は引き続き航行を続けます。


やがて、狼煙のような煙が見えました。


それは、先行する【第一号海防艦、第百三十四号海防艦】の成れの果てでした。

先ほどの「B-25」を含む航空隊が、2隻を撃沈させたのです。


そして最後に残された【天津風】にも危機が迫ります。

今度は18機の「B-25」が【天津風】に襲いかかりました。


3機ずつ、6波にわたって攻撃を仕掛けてくる米軍に対し、【天津風】は増備された機銃を撃ちまくります。

反跳爆撃を交わしながら【天津風】は3機を撃退、また2機に損傷を与える奮闘を見せます。

しかし敵の攻撃は爆弾だけではありません。


機銃が銃手に向けて放たれ、負傷者がどんどん増えていきます。


やがて第3波の爆弾が2番、3番砲塔の間に爆弾が落下、これによって砲塔は使い物にならなくなります。

続く第4波でも2発の爆弾が【天津風】を襲い、機関・舵故障、浸水が始まり大破します。


それでも【天津風】は諦めません。


艦内の火災の鎮火を急ぐ一方で、艦上では逆に油を染み込ませた布を燃やし、さらに煙幕を張って炎上を偽装。

沈没間近と錯覚させて難を逃れようとしました。


【天津風】のこの必死の抵抗は実を結び、やがて応援に来た「零戦」が「B-25」を発見。

弾薬、爆弾を消費し、さらに目標の沈没は時間の問題とあって、「B-25」はここで無駄な争いをせず、退散します。


【天津風】はこの最大の危機を脱することができました。


しかし危険はまだあります。

艦内の炎上は未だ衰えを知らず、誘爆、爆沈の可能性は非常に高かったのです。

ところがそれを遮ったのは、浸水した海水でした。

注水弁すら破壊され、水の調達ができなかった【天津風】にとっては救世主でした。


とはいえ、浸水しているのは事実です。

沈没はしないでしょうが、機関は正にその海水にやられ、潤滑油タンクにも海水が混ざり込んでいます。

このまま機関を動かせば機関が焼きついてしまうかもしれません。

一方で、海上にとどまれば再び空襲にあう危険性もあり、そしてそうなれば今度こそ沈没です。


森田艦長は強行策を選び、機関に火を入れました。

人力操舵、6ノット、その状態で【天津風】は30海里先のアモイまで逃げ延びます。


6日夜、【天津風】はアモイを目前にします。

しかし突然の来訪で、さらに機雷の位置がわからない【天津風】は、発光信号で機雷原の位置を教えてもらうように伝えました。

その際、機関は停止せざるを得ず、もう一度動くことを願って【天津風】は一旦動きを止めます。


返答には20分もかかりました。


そして恐ろしいことにその回答は「貴艦ハ既ニ機雷堰ヲ通過シ在リ」、つまり【天津風】は波に流されているうちに自然と機雷原を通過していたのです。

ここまできてこんな運任せな事態に遭遇するとは思ってもみなかったでしょう。

とにかく、あとは接岸するだけです。


機関に再び火が入りました。


しかし、【天津風】が再び唸りを上げることはありませんでした。

機関停止が長すぎたのです。

海水によって侵された機関はついに焼きついてしまい、とうとう【天津風】は自力航行が不可能となってしまいました。

このままでは波に流されて座礁してしまいます。


しかし【天津風】の代用錨は【天津風】を繋ぎ止めることができず、ついに【天津風】は座礁。


急ぎ警備艦を手配して曳航してもらいますが、馬力が足りず、【天津風】は動く気配がありません。


翌日には波が【天津風】を救い出しますが、それもつかの間、再び座礁。

機械室も満水となってしまい、もはや【天津風】の回復は絶望的でした。


それを知ってか知らでか、匪賊が略奪を目論んで【天津風】に機銃を撃ってきました。

この不意打ちに乗員1名が亡くなってしまいますが、【天津風】はこの匪賊に対して25mm機銃を放ちます。


動かないとはいえ、【天津風】は死んではいないのです。


しかし4月8日、森田艦長は総員退艦を命令。

3度の曳航にも応えてくれなかった【天津風】の機関はもう使えませんでした。

匪賊に襲われたこともあり、【天津風】に固執して危険にさらされることを避けた苦渋の決断を下しました。


4月10日、軍艦旗降下の後、【天津風】は機雷の自爆によって爆沈。


3度の死の淵から這い上がってきた【天津風】の最期でした。

直前の「坊ノ岬沖海戦」では同じく歴戦をくぐり抜けていた【浜風・磯風】がともに沈没。


【雪風】を除き、「陽炎型」は全滅しました。


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