竹【松型駆逐艦 二番艦】

TAKE【MATSU-class Destroyer 2nd】



起工日 昭和18年/1943年10月15日

進水日 昭和19年/1944年3月28日

竣工日 昭和19年/1944年6月16日

退役日(解体)昭和22年/1947年7月以降


建造 横須賀海軍工廠

基準排水量 1,262t

垂線間長 92.15m

全幅 9.35m

最大速度 27.8ノット

航続距離 18ノット:3,500海里

馬力 19,000馬力

主砲

40口径12.7cm連装高角砲 1基2門

40口径12.7cm単装高角砲 1基1門

魚雷 61cm四連装魚雷発射管 1基4門

機銃 25mm三連装機銃 4基12挺

25mm単装機銃 8基8挺

缶・主機 ロ号艦本式缶 2基

艦本式ギアードタービン 2基2軸




【貧弱な武装で大金星 オルモックでの勇猛さが語られる竹】


昭和19年/1944年6月、一番艦【松】の竣工から2ヶ月近く経った頃、横須賀の地で小さな勇者が誕生しました。

「松型駆逐艦」二番艦の【竹】です。

竣工後は訓練部隊となる第十一水雷戦隊で研鑽を積むことになります。


7月15日には【松・梅】らとともに第四三駆逐隊を編成し、その翌日には旗艦【長良】らとともに「ろ号作戦」のために沖縄へ出撃、物資の輸送を任せられます。

無事沖縄、大東諸島への輸送任務が完了すると、今度はいよいよ外洋に出ることとなり、8月に【清霜】とともにマニラへと進出しました。

到着後はパラオやセブ島への輸送任務を着実にこなし、【竹】は期待通りの成果を上げ続けました。

一方で、沈没した【名取】、船体断裂の被害を受けた【五月雨】の救出にも参加し、【竹】の活躍の場はどんどん増えていくことになります。


8月30日からは更に重要な船団護衛の任を受けることになります。

しかし【竹】は、ここで日本がいかに危機的状況であるかを思い知ることになるのです。

10月4日にマニラからミリへと向かう「マミ11船団」を護衛していた【竹】ですが、翌5日には【米ガトー級潜水艦 コッド】によって【辰城丸】を沈められます。

10月20日にはマニラから高雄を目指す「マタ30船団」、通称「春風船団」(旗艦が【春風】だったため)の一員としてマニラを出港。

しかし【元特設水上機母艦 君川丸】が【米ガトー級潜水艦 ソーフィッシュ】の雷撃によって沈むと、その後も次々と輸送船が餌食となってしまいます。

【春風】が【米バラオ級潜水艦 シャーク】を沈めることに成功していますが、船団は出発時の12隻が、襲撃を切り抜けたのはたった3隻と激減、船団は壊滅してしまいました。


一方で、日本はアメリカとの最大の海戦「レイテ沖海戦」へ突入し、大型艦、艦隊型駆逐艦の多くはこの海戦に駆り出されていました。

そしてその多くの仲間が沈んでいくこととなり、日本はもはや虫の息、陸軍の損耗・孤立も時間の問題となり、物資の輸送が急務となっていました。

それに伴い、日本は唯一の希望であるレイテ島陸軍へ向けての輸送を積極的に行うことになります。

「多号作戦」の発令です。


のべ9回にわたって実施されたこの「多号作戦」に、【竹】は第三次作戦から参加。

11月9日、韋駄天の【島風】を旗艦とし、【竹】は他の駆逐艦や輸送船らとともにレイテ島オルモックを目指しました。

しかし翌日の10日には【輸送船 せれべす丸】が座礁して任務を断念、さらに当初隠れ蓑にと期待していた雨も上がってしまい、船団には暗雲が立ち込めることとなります。

そんな中、向こうから日本の艦隊が姿を現します。

先に輸送任務を行っていた第四次多号作戦部隊がマニラへと戻っていくところでした(第三次部隊はマニラ大空襲の影響で出発が遅れていました)。

そこで、第三次、第四次部隊はメンバーの交換を行うことになります。

第四次部隊は帰投中に空襲に晒され、輸送船を2隻失っていました。

当初から計画されていたのかは不明ですが、戦力として計算しにくい【竹】の被害を懸念してか、【竹】は【初春】とともに帰投中の第四次部隊へと移ることになりました。

変わって【長波・朝霜・若月】が第三次部隊に加わり、【竹・初春】は道中で引き返すことになります。


その第三次輸送部隊は、オルモックでの大空襲によって【朝霜】ただ1隻を除き全滅。

【島風】や「夕雲型」の雄【長波】もこの海で生涯を閉じました。


一命を取り留めた【竹】ですが、逃げ帰るわけにはいきません、輸送任務は「松型」の本懐なのです。

11月24日、【竹】は第五次多号作戦の第二梯団として参加、【第6号輸送艦、第9号輸送艦、第10号輸送艦】とともに今度こそオルモックへの突入を目指します。

しかし翌日には空襲にあい、そこで【第6号輸送艦、第10号輸送艦】が沈没。

【第9号輸送艦】も損傷を負い、【竹】でも死者15名、負傷者60名の被害が出てしまい、輸送は困難極まることになります。


ところが突入命令は取り消されず、【竹】はジャイロコンパスも破壊された状態ながらも航行を再開するつもりでした。

ただ、【第9号輸送艦】の被害は深刻でした。

輸送任務の中で、物資の次に大切とも言える物資運搬用の大発動艇を吊るすワイヤーが切断されてしまったのです。

艦艇がどこに停泊しても、砂浜の上までは移動できません。

港や桟橋が整備されていない以上、どうしても物資は海上を進む必要があり、その大きな手段が大発動艇でした。

【竹】にも小発動挺がありますが、明らかに所要時間はかかりますし、その間アメリカの襲撃はないと断言できる確証はどこにもありません。

【竹】は止むなく作戦を断念、【第9号輸送艦】とともにマニラへと引き返しました。


入港後、【竹】は数日の応急処置を受けますが、その際にジャイロコンパスは修理されませんでした。

再びの出撃がすぐそこまで迫っていたのです。

30日、【竹】は【桑】とともに第七次多号作戦に参加、前回の僚艦である【第9号輸送艦】と、【第140号輸送艦、第159号輸送艦】の5隻で三度オルモックへと出撃します。


一方、アメリカはこの時空襲だけでなく魚雷艇、駆逐艦による輸送ルート破壊も行い始めていました。

そしてこの第七次多号作戦部隊を襲撃することになるのが、【米駆逐艦 アレン・M・サムナー、モール、クーパー】の3隻です。

この3隻は「アレン・M・サムナー級駆逐艦」に属し、戦中の昭和18年/1943年から建造が始まった新型・大型駆逐艦です。

以後の駆逐艦主砲として広く採用された38口径5インチ両用砲(12.7cm)を6門搭載、魚雷発射管10門、排水量2,200t、全長119mと、日本の駆逐艦で当てはめると「陽炎型・夕雲型」をもう少し強くしたような駆逐艦になります。


【竹・桑】は12月2日夜に無事オルモックへ到着、大発が物資を懸命に陸上へと送っている間、【竹】は南西方面を、【桑】は南方面の哨戒を行っていました。

そこへ、先ほど紹介した3隻の米駆逐艦が姿を現します。

【桑】は【竹】へ向けて発光信号を送りますが、米駆逐艦は【桑】へと集中砲火を浴びせ、もともと海上戦闘用ではない【桑】はたった10分足らずで沈没してしまいました。


そして次の標的は、もちろん【竹】です。

【竹】は単独で3隻の大型駆逐艦と対峙することになります。

【桑】がたった10分で為す術もなく沈んでしまったとおり、【竹】は圧倒的不利な状況にありました。

主砲は3門、魚雷は4連装1基で予備魚雷ゼロ、さらにそのうちの1本は検査中に誤って投棄しており、撃てる魚雷はたったの3本だけです。

主砲だけでは戦えるわけがありません、相手は大型で、さらに門数は計18門、【桑】の二の舞いになるだけです。

となると、1度きりしか放てない3本の魚雷に命運を託す他にありません。


魚雷の発射は危険を伴います。

魚雷発射管は艦の中央付近にありますから、発射の際はどうしても敵へ面を多く見せることになってしまいます。

その間に砲撃を受けてしまう恐怖と戦いながら、【竹】は必死に舵を操ります。

そして10kmほど離れている敵艦へ向けて、【竹】は虎の子の魚雷を発射。

しかし4番連管がうまく作動せず、結局放たれたのは2本のみ。

水雷長は祈る思いで双眼鏡を覗き込みます。


そして突如、1隻の駆逐艦が火柱を上げました。

たった2本の魚雷のうち1本が、10km先の【クーパー】に直撃、土手っ腹に魚雷を受けた【クーパー】は真っ二つに折れ上がり、轟沈。

日本の輸送用小型駆逐艦が、アメリカの主力大型駆逐艦を魚雷一発で粉砕したのです。

やがて修理の終わった4番連管からも魚雷が放たれましたが、これはハズレ。

【竹】は命中弾を浴びて最大30度の傾斜の被害を負いますが、負けじと【竹】も【モール】へ向けて複数の命中弾を記録、【クーパー】沈没、【モール】損傷という、まさかの大損害を被った米駆逐艦隊は、ついに【竹】を沈めることができずに退却をすることになります。


大金星をあげた【竹】でしたが、輸送部隊も【竹】が懸命に戦っているうちに輸送任務を完遂。

【桑】を失ったものの、第七次多号作戦は一定以上の成果を上げることができました。

【竹】は【第9号輸送艦】から残り僅かとなっていた真水の供給を受け、同時に注水によって傾斜を回復。

【桑】の乗員の救助は、【竹】自身が中破してたことから陸上部隊へお願いし、作戦部隊はマニラへと帰っていきました。


マニラへと戻ってきた【竹】でしたが、修理を受けても機関の修復ができずに速度が上がらないことが判明し、今後の作戦投入は中止、高雄、基隆を経て佐世保へと回航されることになります。

しかし昭和20年/1945年元旦に門司港に入港した【竹】は、佐世保ではなく呉へと向かうことになりました。

修理は1月末には終わるだろうと目されていましたが、戦況悪化の影響か、修理完了は伸びに伸びて3月15日。

さらにそこから三式探信儀などの装備工事もあり、無事航行できるようになったのは4月末という有様でした。


ようやく作戦に復帰でいるかと思いきや、【竹】はとんでもないものを積まされることになります。

人間魚雷とも言われる、「回天」の搭載です。

【竹】は【楓】とともに「回天」との訓練を行い、また「回天」搭載のための工事を受けることになりました。


が、時は5月、呉や舞鶴にも頻繁に空襲が起こり、日本は数少ない艦艇の保護を考えるようになり、【竹】もまた海上に出されることを禁じられます。

これにより「回天」搭載工事も中止、【竹】は屋代島に偽装繋留されます。

そしてそのまま、終戦まで【竹】は出撃することはありませんでした。


終戦後、航行可能な【竹】は特別輸送艦として復員輸送に従事することになります。

パラオ、サイパン、旧満州と様々な場所と日本を結び、そして昭和21年/1946年、最後の役割を果たした【竹】は、賠償艦としてイギリスの手に渡り、そして解体されました。


巨像に立ち向かった1隻の小さな駆逐艦【竹】が成し得た快挙は、日本最後の敵駆逐艦撃沈として記録にも残っています。

改めて日本の酸素魚雷の威力の凄さを物語っている戦歴だと思います。

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