求めすぎた結果、大損した初春型
What Is HATSUHARU-class Destroyer
日本が誇るべき駆逐艦である「特型駆逐艦」、その優秀な存在は、徐々に海軍にとって重すぎるものになってきました。
それは、建造コストです。
順調に建造が進む一方で、どんどんお金を消費していく「特型駆逐艦」に日本は遂に音を上げることとなり、「特型駆逐艦」の建造に終止符を打つ事になりました。
渡りに船とばかりに、昭和5年/1930年には「ロンドン海軍軍縮条約」が締結され、それによって駆逐艦の最大排水量は1,500tと決められました。
「特型駆逐艦」の基準排水量は1,680tで、この基準を満たしません。
見事な大義名分を得た日本は、この条約に則って【電】の建造をもって「特型駆逐艦」の建造を終了します。
そしてその後を継ぐものとして設計されたのが、「初春型」です。
「特型駆逐艦」が有名な一方で、この「初春型」も大変有名な駆逐艦です。
しかしそのベクトルは全くの逆方向、悲運の駆逐艦となってしまいます。
基準排水量1,500t以下の駆逐艦の制限を受けた日本ですが、だからといって弱体化を受け入れたわけではありません。
簡単に言えば、「特型駆逐艦を小さくしろ」というのが海軍の要望だったのです。
この要望は現実性のない、全く無茶なものでした。
駆逐艦は船です、波によって転覆しないように設計されなければなりませんし、そしてそれは何よりも重視されるものです。
そのためには重心を低くし、安定性・復原性の確保が必要です。
「特型駆逐艦」はすでにこれらの条件をクリアした上で出来うる限りの手段を使って軽量化されています。
それをさらに軽量化、しかもそれが200t以上となると、もはやできることは安全性を削るしかありませんでした。
その危険度の増大を最小限にするように必死に努力して設計されたのが、「初春型」です。
写真(【子日】)を見ていただければ感じられると思いますが、非常に重厚、狭苦しい造りです。
全長を小さくした結果、主砲と魚雷発射管はそれぞれ背負式となり、主砲においては上段側が単装砲へと変更されています。
後ろの3番砲塔は連装砲なので、門数は1門減って5門となります。
「初春型」で唯一画期的な点は、魚雷の次発装填装置を初めて搭載したことです。
これまでは予備魚雷を積んでいてもそれを装填するのは人力で、非常に時間がかかっていました。
しかしこの次発装填装置を使えば、30秒もしないうちに次の魚雷を装填することが可能、水雷戦を行う上で、非常に重要な装備でした。
苦心した軽量化ですが、全長を縮めるだけでなく、当時まださほど浸透していなかった電気溶接も積極的に採用。
缶は「暁型」で採用された新型缶を搭載しています。
これによって、「初春型」は排水量を300t近く落とすことに成功し、基準排水量1,400tで1門減、しかし次発装填装置を搭載の上、予備魚雷9本維持(計18本搭載)と、非常に強力な中型駆逐艦として生を受けます。
しかし「初春型」は、「暁型」を超えるトップヘビーとなっていました。
それはそうです、船体の短縮に加えて主砲・魚雷発射管を背負式にしているのです。
重いものがどんどん上の方に積まれてしまえば、安定性が欠落することは自明の理でした。
そしてそれは、公試航行の時に早くも明らかになります。
順調に航行していた【初春】が10度転舵すると、たったそれだけで38度も【初春】は傾斜。
ともすれば転覆するほどの大傾斜で、戦闘なんてもってのほか、通常航行ですら荒波では危なくて使えないほどのものでした。
竣工して即座に【初春】は補強工事を施されます。
両舷に30センチのバルジを取り付けて復原力を増強、これによって船が元に戻ろうとする「静復原力」は回復しました。
しかし当時はまだ殆ど研究されていなかった、「動復原力」という、船を傾けるのに必要な力というものも、真の復原力増強には必要でした。
そしてこの未知な復原力が不足していたために発生するのが、昭和9年/1934年の「友鶴事件」です。
その前に、【二番艦 子日】は【初春】と同様の処置を、【若葉・初霜】は建造の工程の中にバルジ装着を追加、さらにまだ初期段階だった【有明・夕暮】はバルジ分の全幅の拡張(30センチずつ)を行っています。
さて、ひとまず復原力は確保し、事なきを得たかに見えた「初春型」ですが、そう安々と解決できる構造ではありませんでした。
昭和9年/1934年、【千鳥型水雷艇 友鶴】がよくある程度の悪天候の中、40度の傾斜をするとそのまま復原することなく転覆。
100名が死亡及び行方不明という大惨事を引き起こします。
何が問題かというと、この【友鶴】は水雷艇ながらほとんど小型駆逐艦で、「初春型」と同じく船体に見合わない重武装、「初春型」と同じく公試で転覆すれすれの危機に陥り、「初春型」と同じくバルジ補強をされ、「初春型」と同じく復原力が回復したとされていた点です。
【友鶴】はバルジ増設の結果、100度程度の傾斜でも復原できるとされていました。
それが40度、半分にも見たない傾斜で転覆したのです。
これは大変な事件でした。
ことの重大性は、「特型駆逐艦」を生み出し、「初春型」の建造にも携わった藤本喜久雄造船少将が謹慎処分になるほどのものです。
しかし先程述べた「動復原力」の知識が不足していたほか、そもそも軍部の要求が度を越していたためにこのような設計にならざるを得なかったということから、この事故は致し方ない点もあることを留意していただきたいところです。
さて、この重大事件を受け【初霜・子日】は再びドック入りして工事に入ります。
なにせ「初春型」は【友鶴】よりも大きいのです、何としてでも改良しなければ、簡単に命と船が海の藻屑となってしまいます。
そしてこの工事は「復原力回復工事」です。
つまり、攻撃力の低下を受け入れるものでした。
艦橋の縮小・軽量化、魚雷発射管1基撤去と予備魚雷削減、単装砲を3番砲塔と背中合わせに配置、また多くの構造物を下げ、重心を下へと移します。
さらに復原力のために取り付けたバルジは重心を下げたことによって不要となり、取り外されています。
「初春型」はその姿をガラリと変え、非常に平凡な、ある意味では元の鞘に収まったような形で生まれ変わります。
ただ、これでもまだ「初春型」は真の意味で誕生はしていないのです。
昭和10年/1935年、今度は「第四艦隊事件」が発生します。
これにより、次は船体強度に欠陥があることが露呈したのです。
これはやはり軽量化を図りすぎた点と、溶接技術が未熟であった点が原因でした。
「特型駆逐艦」や同時期建造の巡洋艦等、多くの軍艦にその爪痕が刻まれてしまいます。
三度「初春型」はドックの世話になります。
そして今度の工事は外板や甲板の張替え、そして接合方法の変更など、船体に関する工事だったため、先の工事が3ヶ月足らずだったのに比べ、半年以上の時間がかかってしまいました。
そしてようやく、「初春型」はしっかりとした戦力として海上に姿を表します。
しかし強度・復原力ともに兼ね備えた「初春型」に特徴はありませんでした。
どころか基準排水量は1,700tと、なんと「特型駆逐艦」をオーバーしてしまいます。
速度に関しても33ノット超にまで低下していまい、兵装も弱体化、「初春型」は完全に失敗してしまいました。
この後、日本は「ロンドン海軍軍縮条約」が足枷となり、「陽炎型」誕生まで暗いトンネルを進み続けることになるのです。
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