宗谷【巡視船・砕氷船】③
SOYA【Patrol boat(Ice breaker)】
※スペックは一部最終の第六次観測時のものが含まれます
改造開始日 昭和31年/1956年3月12日
引渡日 昭和31年/1956年10月10日
竣工式日 昭和31年/1956年10月17日
退役日(保存) 昭和53年/1978年10月2日
改造 日本鋼管
浅野船渠
排水量(満載) 4,614t
全 長 83.7m
全 幅 15.8m
最大速度 12.3ノット
馬 力 4,800馬力
【第一次南極観測編】
【大改造を受け、白銀の大陸を目指す】
南極観測という、当時の日本にとって戦後最大の国際的研究計画を引っ張ることになった【宗谷】。
昭和30年/1955年には、灯台補給船の解任式が行われました。
日取りは12月24日、「海のサンタクロース」の名にふさわしい、クリスマスイブ。
灯台補給船としての任務は決して長くありませんでしたが、多くの人に惜しまれ、しかし今度は日本を背負って立つ【宗谷】のさらなる活躍を願い、【宗谷】は砕氷船としての本格的な改造に移ります。
解任式と共に、【宗谷】は巡視船へと種別が変更されました。
しかし感傷に浸っている暇はありません。
出発は昭和31年/1956年11月と、あと1年を切っています。
選抜されたとは言え、裏を返せばこれだけの老齢艦を動かす以外に選択肢がなかった日本です。
さらに舞台は南極という未知なる世界、突貫工事、なれど手抜きにあらず、非常に厳しいスケジュールの中で3月12日、【宗谷】の改造はスタートしました。
工事は【宗谷】が「トラック島空襲」に巻き込まれた後に修理を行った、日本鋼管浅野船渠。
設計にはあの【戦艦 大和】を設計した牧野茂氏が選ばれ、多くの人、1000にのぼる企業が協力しあって【宗谷】はみるみるうちに改造が進みました。
改造内容は専門的すぎるので簡潔にしますが、見た目で一番わかり易いのは船体色がオレンジになったことでしょう。
また、これまで石炭燃料の艦本式ボイラーだった機関をようやくディーゼルエンジンへ換装。
これにより航続距離が8ノット:4080海里から12.5ノット:14950海里と劇的に増加しました。
30年近く前の機関からの換装とは言え、これだけ性能が上がるのですから、戦中にディーゼルの採用に熱心になるのも当然でしょう。
他、もちろん砕氷能力の向上、バルジ増設、また日本で初めてヘリコプターの搭載・発着設備を備え、ソナーやレーダーも最新のものを揃えました。
細部を見るとわかりますが、半新造とも言える大改造で、これを7ヶ月でやりとげて10月10日に引き渡しが完了しているのはすごいです。
これはひとえに、あらゆる分野の企業と技術者が手を取り合って専門知識・技術を駆使した賜物なのです。
【宗谷】改造の一方で、観測隊の招集もまた難しい問題でした。
まず当然ながら南極に行ったことがある人物がいません。
どころか、今回は「探検」ではなく「観測」ですから、永田隊長以下隊員はみんな科学者です。
登山歴すらないメンバーを南極に派遣する、命を落とす危険性があるプロジェクトを、未経験者ばかりで行うことは許されません。
そこで選ばれたのが、かつて日本で初めて南極に到達した白瀬矗の講演を聞き、南極研究に精通していた西堀榮三郎という人物です。
齢53歳、しかし南極研究の知識に加え、東芝の元技術者、さらには世界的にも有名な探検家、英語が堪能で、アインシュタイン来日時に通訳を任されるなど、うってつけにもうってつけ、これ以上の経験者はいない人物でした。
観測隊は日本でも一二を争う極寒の地、網走で模擬訓練を行いましたが、氷点下20度で暴風吹き荒れる中、テントは飛ばされ、機材はバッテリーが上がる、燃料が凍るなど、散々な結果となっています。
到着時の南極は夏ですが、観測は1年を通して行われます。
西堀氏は引き続き対策と訓練を続けました。
10月17日、竣工式。
三度生まれ変わった【宗谷】は、随伴船として【海鷹丸】を伴い、ついに11月8日、日本を出発。
第一次南極観測隊、永田隊長、西堀副隊長以下51名、船長以下船員76名、樺太犬22頭、猫1匹、カナリア2羽。
メンバーは揃いました、まずは南アフリカ共和国のケープタウンを目指します。
しかし出発して早速大自然が【宗谷】に手荒い歓迎式を開いてくれました。
11月15日、フィリピン沖で台風19号に直撃。
更に翌日には台風20号が発生し、【宗谷】は2つの台風の真っ只中を突き進むことになってしまいます。
最大傾斜は40度とも言われ、転覆もよぎる角度まで横薙ぎと波によって【宗谷】は翻弄されます。
横揺れの原因は、この横揺れを抑えるビルジキールを、砕氷の障害となる恐れがあったため撤去していたためでした。
なんとか台風をやり過ごした【宗谷】ですが、これでは先が思いやられると感じた松本満次船長は、出港前に聞いていた「艦内神社」のことを思い出します。
「宗谷が沈まなかったのは艦内の宗谷神社のおかげ」
これを思い出した松本船長は、戦後初めての船内神社を【宗谷】に設け、改めてこの困難な旅の成功を祈念しました。
11月23日、シンガポールに到着。
補給とともに、台風遭遇時に損傷したセスナ機の「さちかぜ」の修理を行いました。
恐らく船員も相当グロッキーだったのではないでしょうか。
台風に加えて、先の紹介の通り、観測隊の大半は科学者ですから、胃袋がひっくり返る思いだったでしょう。
しっかり休養をとって、28日シンガポールを出港します。
12月1日、赤道を通過。
12月8日には謎の流星群に遭遇し、1時間あたり300個もの流れ星が【宗谷】の上空を過ぎ去りました。
願い事し放題だったこの流星群は、2005年になって、長らく行方不明となっていたブランペイン彗星であることがわかります。
当時もこの彗星がブランペイン彗星ではないかという推測はあったのですが、検証できる軌道の情報が少なく、2003年の襲来の軌道が元となってようやくこのときの流星群がブランペイン彗星だと確定したのです。
この時の【宗谷】の遭遇も、初観測の1819年以降初、つまり100年以上ぶりの発見となりました。
19日、南極到達前の最後の寄港地となるケープタウンに到着。
元旦を祝う余裕が無いため、クリスマスも兼ねて5日間盛大にお祭りを行うどんちゃん騒ぎでした。
南極観測だけでなく、基本的に船旅は長期のため、区切り区切りの行事は盛大に行います。
例えば海上自衛隊で毎週金曜日がカレーであるように、日付感覚がなくなってしまうこと、マンネリ化を防ぐ意味合いがあります。
また、この時同じくケープタウンに寄港していたソ連観測隊の隊長らとの交歓会も行われました。
29日、いよいよ誰のものでもない天然の大陸へ向けて出発します。
嵐と荒波に守られた、氷の大陸へ
南半球ですから南極は夏とは言え、それでも最低気温は氷点下、さらには分厚い氷、それこそ【宗谷】を本格的な砕氷船へ改造しなければならないほどの厳しい環境が待ち構えています。
31日には「絶叫する60度」(60度は南緯)に突入し、あの台風を思い出すほどの揺れに再び巻き込まれます。
燃料などの補給物資を積んでいる【海鷹丸】も必死に【宗谷】に続きます。
暴風域から脱出できたのは1月4日。
終始波風にさらされ続けた船員たちは、どれだけの休息、睡眠がとれたのでしょうか。
1月3日にはアメリカ観測隊の観測船【アネーブ号】がアデア岬沖で氷山に挟まれてしまい、スクリュー損傷、浸水により脱出困難な状況であるという一報を受けます。
南極の恐ろしさが船内を包んだことでしょう。
なにせ【宗谷】が任されているプリンスハラルド海岸は、夏でも特に氷が分厚い場所で、欧米が先だってトライするものの全て失敗、匙を投げている最難関の海岸です。
初めての南極でそのような場所を半ば押し付けられている【宗谷】にとって、先輩のリタイア宣言はより緊張感を走らせたに違いありません。
暴風域を抜けた1月7日、【宗谷】は搭載したヘリコプターの「ベル47G型」を飛ばし、偵察を行います。
ヘリからは大小様々な氷塊、氷山が確認できます。
いよいよ【宗谷】が砕氷船としての能力を発揮する時がやってきました。
【慎重に豪快に 一面の大自然に日の丸がはためく】
1月10日、ヘリから観測された巨大な氷塊(氷塊同士がぶつかってより大きくなるパックアイスと呼ばれるものです)の眼前までやってきました。
これまで苦楽を共にしてきた【海鷹丸】の随伴もここまでです。
【宗谷】は【海鷹丸】から燃料が詰まったドラム缶47本を受け取りました。
【宗谷】は目の前のパックアイスと、【海鷹丸】は再び暴風域との戦いに挑みます。
このパックアイスは流氷と同じで、陸ではありません。
そのため破壊して進むことができますが、ともすれば流れてきたパックアイスに傷つけられ、最悪挟まれてしまうビセットと呼ばれる状態に陥る危険性があります。
このビセットは南極・北極において最も注意しなければならない状態で、数日どころか数週間閉じ込められる危険性もあります。
しかしビセットを回避するのもまた難しく、砕氷には時間がかかるため、その間の海の流れ、氷の流れ、破砕する箇所、破砕までの時間など、ありとあらゆる情報を用いて判断を下さなければなりません。
【宗谷】は慎重に航路を選び、相対するパックアイスを見極めながら航行します。
16日、偵察に出ていた「さちかぜ」が、プリンスオラフ海岸へ沿って続く細長い水域があることを報告します。
この水路は「利根水路」と命名され、欧米を苦しめたプリンスハラルド海岸へ到達する突破口を掴んだ【宗谷】は、この水路を通じて一路プリンスハラルド海岸を目指します。
【宗谷】は分厚くした艦首とダイナマイトで障害となる流氷・氷塊・パックアイスを破壊し、着実に進んでいきます。
道中3日間行く手を阻まれながらも、焦ることなく、【宗谷】は地道な観測と計算によってゆっくりと困難を突破していきました。
そして来たる昭和32年/1957年1月24日。
前人未到、誰も足を踏み入れたことがない、オングル島プリンスハラルド海岸に接岸。
観測隊の足が、船員の足が、プリンスハラルド海岸の土を踏みしめたのです。
日の丸が南極大陸に翻り、皆涙が止まりませんでした。
(写真がありますが、この時はやはり土も十分見えていました。)
25日には観測基地をオングル島に設置することが決まります。
基地の名は「昭和基地」。
日本が初めて南極に設置した観測基地です。
以後、「みずほ基地」「あすか基地」「ドームふじ基地」が設置されていますが、そのうち「みずほ基地」「あすか基地」はすでに基地としての運用が終了しています。
そして「ドームふじ基地」は「昭和基地」から夏の短期間だけ観測のために数名の隊員が派遣されるという運用のため、現在も「昭和基地」が日本の南極観測の拠点となっているのです。
29日には公式上陸を果たし、「昭和基地」の開設も完了しました。
そして日本中でこの快挙は伝えられ、各地で号外が飛び交いました。
大人が、子どもが、南極への到達を夢見て、時間と、技術と、金と、何より熱意を注いだ南極観測。
未だ計画は道半ばとは言え、国内では【宗谷】の南極到達で歓喜に包まれました。
不可能を可能にする船【宗谷】。
それを操舵してきた船員。
そして次は、観測隊が無事に観測を終えること。
到達はゴールではありません、スタートなのです。
2月14日、最後の輸送が終了し、いよいよ【宗谷】は南極を離れます。
南極に船は残れません、ビセットによる閉じ込め以前に、暴風雪によって船体に深刻なダメージが残ってしまいます。
西堀副隊長をはじめ観測越冬隊11名の命をつなぐ輸送資材の総量は150tに達しました。
15日、お互い声を振り絞り、【宗谷】乗員と越冬隊は互いの無事を祈りながら【宗谷】はプリンスハラルド海岸を離岸。
一路日本へと向かいます。
しかし翌16日、ついに恐れていた事態が起こります。
天候が急変し、一面の猛吹雪の中を進んでいるうちに、ついに【宗谷】はビセットされてしまいます。
ビセットされた際の対策としてヒーリング装置(船体を揺さぶって周囲の氷を破壊する装置)が搭載されていますが、こう風が強いと効果が出ません。
やむなく【宗谷】は天候回復を座して待つことになりました。
しかし1日、2日、5日、1週間、10日。
待てども待てども天候は荒れたまま、さらに氷に流されているので、予定していた航路からはずいぶん引き離されてしまいます。
やむなく海上保安庁はアメリカとソ連に救援を要請。
【宗谷】は急ごしらえの砕氷船ですが、アメリカとソ連の砕氷船は大きいものだと倍近くのサイズになるので、天候が落ち着けば十分【宗谷】を救出できる能力を持っています。
2月28日、ようやく天候が回復し、【宗谷】も自力で砕氷活動を再開。
救援前に【宗谷】は無事にビセットから解放され、航路修正、改めてケープタウンを目指しました。
そして自力脱出後すぐに、ソ連の砕氷船【オビ号】が【海鷹丸】に連れられて【宗谷】救援のために駆けつけてくれました。
万一【宗谷】が自力で脱出ができていなくても、ちゃんと【オビ号】が救い出してくれたことでしょう。
【海鷹丸】は流氷内には入れないために外洋で待機しており、【オビ号】は【宗谷】を無事に【海鷹丸】の元まで連れてきてくれました。
しかし困難はまだ終わりません、次は再び暴風域へ飛び込まなければなりません。
今回は行きよりも更に強い60度以上という傾斜に振り回され、もはや壁、ともすれば海面が間近に迫るほどの傾斜の中を航行します。
これも辛くも突破した【宗谷】は、【海鷹丸】とともに3月10日に無事にケープタウンへと到達しました。
やがて13日には【オビ号】も到着。
祝宴と研究者同時の交歓会も行われ、親密な関係を築くことができました。
15日には先に永田隊長と山本順一航海長が日本へ空路で帰国。
特に【宗谷】についての報告が急務で、果たして代わりを用意すべきか、改造すべきか、改造するならどこなのか、詳細に早急に議論しなければなりません。
なにしろ今は3月ですから、越冬隊を迎えに行くための日取りを考えると出発までもう半年ちょっとしかないのです。
つい1ヶ月前に南極を離れたのに、出発まであと半年と考えなければならないのです。
【宗谷】もまた、同じく15日にケープタウンを出港。
ケープタウンからの帰路は順調だったようで、4月5日にシンガポール到着。
再び休養をとった【宗谷】は13日にシンガポールを出港し、台湾を経由して日本を目指しました。
この時【海鷹丸】は随伴していないようで、スリランカのコロンボと香港を経由する航路をとっています。
23日夜には羽田沖で2隻が合流し、そして翌24日、東京中が、日本中が注目する中、【宗谷】は東京日の出桟橋にゆっくりと帰港。
数えきれないどこまでも続く観衆、船から【宗谷】到着を見守るツアー、撮影用のヘリコプター。
360度から【宗谷】の帰港が祝福されました。
幸運艦【宗谷】が、船齢18年になって成し遂げた南極到達。
「もはや戦後ではない」
昭和31年/1956年、【宗谷】が日本を出発した年、経済企画庁が経済白書で記載したというこの言葉。
その言葉にふさわしく、【宗谷】は戦後苦しい生活を耐え抜いてきた日本を鼓舞し、日本国ここにありと知らしめ、欧米が諦めた地に拠点を置き、大きな被害もなく帰ってきたのです。
しかし、【宗谷】の功績に初めて影を落とす出来事はすぐそこまで迫っていました。
南極の、自然の猛威が容赦なく【宗谷】を飲み込むのです。
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