宗谷【灯台補給船・砕氷船】②
SOYA【Lighthouse Supply Ship】
【灯台補給船編・南極観測計画編】
【灯台守を支える灯台の白姫】
太平洋戦争終結後、【宗谷】は名称を『宗谷丸』と改められ、復員船任務を任されます。
しかし船体に記載された船名はもとの【宗谷】のままでした。
復員船として3年ほど従事した『宗谷丸』は、19,000人以上の引揚者を日本へと送り届けました。
昭和23年/1948年11月からは外装を商船風に改めて、まだ制度・法律上日本の領土であった樺太の真岡と函館間を結ぶ輸送を行います。
(真岡はソ連侵攻時に電信局の電話交換手9人が自決をし、またその他にも真岡町内で局員が殺害された「真岡郵便電信局事件」の舞台です。)
昭和24年/1949年8月1日、『宗谷丸』は正式に復員船としての任を解かれます。
本当ならスムーズにもとの商船任務につかせてあげたいところですが、戦争期間中はずっと、しかもほぼ最前線で活動し続けた『宗谷丸』の船体は、無事ではあるものの商船としての活躍には少し無理がありました。
一方海軍改め海上保安庁は、海軍時代に徴用していた民間船の返還が進んでおり、保有する船舶の不足が目立ってきました。
その中には、「灯台補給船」という、文字の通り灯台へ補給する船も含まれていました。
海上保安庁は『宗谷丸』の行く先がなければ水路測量船として活用しようと考えていたのですが、この灯台補給船の不足は急務だったため、『宗谷丸』は灯台補給船の候補として検討されるようになります。
同じく灯台補給船として候補に上がったのが、【宗谷丸】です。
結果、灯台補給船には『宗谷丸』が選ばれました。
なんのことはありません、【宗谷丸】という別の民間の稚泊連絡船(稚内~大泊連絡船)が、同じく候補に上がったのです。
この【宗谷丸】も活動拠点がオホーツク海などの北方で、また砕氷性能も保有していました。
しかし船舶の大きさや、GHQはこの灯台補給船に「設標船」という、灯浮標など海上の道路標識のようなものを設置・回収する任務がこなせる船がいいとしており、デリックを備えていた『宗谷丸』のほうが適任と判断されます。
なお、【宗谷丸】が灯台補給船の候補に挙げられた時、宗谷丸が2隻候補に上がってしまったので、海上保安庁の『宗谷丸』はもとの【宗谷】へと再改名されています。
昭和24年/1949年12月12日、【宗谷】はGHQから正式に海上保安庁に移籍。
【宗谷】には灯台補給船にふさわしい改造が施されます。
ソナーの撤去、外装を白に統一、売店など船内設備の環境改善、その他激戦をくぐり抜けてきた船体のメンテナンス。
そして煙突には羅針盤のマークがあしらわれました。
羅針盤のマークは海上保安庁のシンボルマークです。
当時海上保安庁が保有する最大の船舶となった【宗谷】は、まさに海上保安庁のシンボルでした。
昭和25年/1950年4月1日、七代目灯台補給船【宗谷】就任。
純白の【宗谷】が任された灯台補給船という任務は、日本各地にある灯台への補給が必要なので、航路が幅広く、日本の領海内のありとあらゆるところに出張します。
スケジュールは予め決まっていて、春は本州、夏は北、秋は南、冬は瀬戸内海だったそうです。
なので、特殊な事態が発生しない限りは砕氷船としての役割を果たすケースはありませんでした。
昭和27年/昭和32年/1957年には船名もひらがな、つまり【そうや】となりました。
しかし最後まで【宗谷】と表記させていただきます。
補給される物資は、食料はもちろん、燃料や雑貨など、厳しい環境に身をおいて海の安全を護り続ける灯台守が充実した生活を送れるようにいろいろなものがありました。
灯台守は灯台に通うではなく灯台に「住む」人・家族もいるため、中にはお子様に向けたおもちゃなども含まれていました。
【宗谷】はやがて「灯台の白姫」「海のサンタクロース」と呼ばれるようになります。
どちらもとてもロマンチックな呼び名ですね。
補給船としての任務の他に、昭和28年/1953年に奄美大島が日本に返還される際には現金9億円と通貨交換に必要な人員を輸送したという経歴も持っています。
これも海上保安庁最大の船舶だったということが影響しています。
【宗谷】の灯台補給船としての任務は5年半に及びました。
安全に、大切な物資を、海の守り人へ送り続ける「灯台の白姫」の任務は、昭和30年/1955年12月26日、八代目灯台補給船【若草】に引き継がれます。
当時船齢15年を越え、そろそろお役御免かな?
いえいえ、【宗谷】が有名な理由はむしろここからです。
これまでの歴史はすべて、これからの活躍があったからこそ脚光を浴びているのです。
いくら激戦をくぐり抜けて生還した幸運艦とは言え、戦闘艦ではなく特務艦です。
それだけで年間維持費6千万を背負ってまで保存することはないでしょう。
【宗谷】には灯台守・海上保安庁だけでなく、全日本国民の希望を背負った、壮大なプロジェクトに身を投じる事になります。
【ある熱血記者が国を、国民を、そして宗谷を動かす 目指せ南極】
昭和30年/1955年、宇宙と同じく世界の謎が詰まった南極に足を踏み入れようという動きがありました。
「国際地球観測年(IGY)」
昭和32年/1957年7月1日から昭和33年/1958年12月31日までの期間で、世界中の自然観測を世界各国で協力して行おうという、史上最大規模の研究計画が立ち上がりました。
その中には、到達はしたものの謎の宝庫である南極大陸も含まれていました。
この招請状は日本学術会議にも届いていましたが、当時の日本は復興が進みつつあるとは言え、明らかに自国の実利、国民の幸福につながるものではないことに投資をできる余裕はありません。
政府もこの計画そのものには参加するものの、コストが掛かりすぎる南極観測には極めて消極的でした。
この硬く閉ざされた扉を開けるために奮闘した人物がいます。
朝日新聞社の記者をしている矢田喜美雄氏でした。
昭和30年/1955年3月、この計画を仕入れた当時、矢田氏はなんという偶然か、「北極と南極」というコラムを連載していました。
コラム連載の取材中にこの計画を知った矢田氏はすぐにこの計画に飛びつきます。
熱血漢だった矢田氏はさっそく日本学術会議に足を運び、茅誠司氏や東京大学理学部助教授の永田武氏をあっという間に巻き込み、ともにこの計画の遂行準備をはじめました。
当初2億円で南極観測の予算は足りると考えられていましたが、いくら大会社の朝日新聞社とは言え、2億円全額負担はさすがに無理がありました。
それでも半分の1億円を負担することは決まり、一記者の活動が会社から1億円を支払わせたと考えると、とんでもない人物です。
余談ですが、矢田氏は日本で初めて「ミロのヴィーナス」展を実施するなど、朝日新聞社の金庫の金を最も使った男と言われています。
残り1億円。
これはこの研究計画と南極観測の意義を政府に訴えるしかありません。
今も昔も予算は取り合いです、積極的にアピールしなければ、他の部門にどんどん流れていきます。
3人は文部省(当時)に突撃し、協議を重ねて南極観測賛成派を増やしていきます。
しかし具体的な話になってくるに連れ、2億円では全然足りないことがわかりました。
特に南極の分厚い氷を貫き、極寒の海上を突き進める砕氷船が見当たらなかったのです。
海外も砕氷船の数が乏しいのは、【宗谷】誕生の経緯を見れば明らかです。
あ、【宗谷】!(シャレじゃないです)
ということで白羽の矢が立ったのが、船齢が17年と古いものの、日本で唯一まともな砕氷性能を持った【宗谷】でした。
この協議の中で船舶の安全という観点から参加していた海上保安庁の鳥居辰次郎氏が、【宗谷】を提案してくれたのです。
ちなみに、この時またもや以前は稚泊連絡船で当時は石炭輸送と青森連絡船を担っていた【宗谷丸】が候補に上がっています。
結構いい船だったんでしょうね。
なんとか船に当ては見つかりました。
しかし当時は灯台補給船の【宗谷】をそのまま南極に連れてはいけません。
つまり改造、そしてそのための予算が必要でした。
3人は引き続き各省庁と協議を進めていきます。
熱意に打たれた文部省は、最終的にこの「国際地球観測年」総予算9億7500万のうち、なんと77%の7億5千万を南極観測部門に割り当ててくれました。
しかし全9部門のうちの1部門に8割弱の予算を割いたわけですから、残り2億2500万を8部門で分け合うという事態には当然猛反発がありました。
当初はこの南極観測という部門に参加することすら否定的だった政府が、蓋を開けてみれば国家事業にまで位を上げているのですから、反発も当然でしょう。
事業では海上保安庁が船舶・輸送の手配、機材や物資調達を文部省、そして南極観測隊隊長は永田氏が務めることになりました。
7月、日本は「第1回IGY南極観測会議」にて参加の意を文書で表明し、9月には第2回の会議に永田氏らを送り込みます。
しかし世界の目は冷ややかでした。
参加国は多くが連合国側、つまり戦勝国でした。
特にイギリス・オーストラリア・ニュージーランドは反対の意向が強く、オーストラリア・ニュージーランドは南極大陸から大して離れてないことから危機感をつのらせていたようです。
ところがこれを後方から援護射撃、というか圧力をかけたのが、二大大国アメリカとソ連でした。
日本には白瀬矗(しらせのぶ)という人物を中心とした南極探検隊によって明治45年/1912年に南極に上陸した実績があり、また気象観測技術力のアピールで本プロジェクトに貢献できることを主張。
またアメリカとソ連も日本の参加に協力的で、最終的には英国系列が折れる形で日本の参加が認められました。
ただ、アメリカはIGYの一環として日本が行おうとしていた赤道付近の観測網敷設を拒絶しています。
理由は簡単、赤道付近の島々は殆どが当時アメリカの占領下だったからです。
結局自国の都合の押し付け合いなのは同じです。
なんとか参加の承認が得られた日本では、スポンサーの朝日新聞社が大々的にキャンペーンを打ち上げていました。
朝日新聞社も企業ですから、1億円という投資を、「南極観測を当社は全面的に支援!」という広告で回収しようと考えていました。
(政府は一貫して『観測』と称しましたが、国民には「探検」という言葉が浸透していました。夢・ロマンがありますからね。)
このキャンペーンには他の報道機関も追随し、相乗りはしないものの、多くの報道で南極探検が取り上げられるようになりました。
また朝日新聞社は寄付も募っており、国民はこの戦後初の夢のプロジェクト実現のために積極的に寄付を行いました。
企業からの寄付も多く集まり、物資提供などの依頼も続々と増えた南極観測計画は、公私共に国家事業として浸透したのです。
矢田氏の情熱が、国民の心を動かした瞬間でした。
次回は、いよいよ【砕氷船 宗谷】の誕生。
夢があり、希望があり、悲劇があり、怒号があり。
真っ青で真っ白な冒険譚の始まりです。
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