第三章――ランナウェイ・ヒーロー――

 耶依は浅い眠りから目を覚ました。体を起こすのも億劫なくらい気だるい。

 サイドテーブルの時計を手にとって見る。まだ六時を数分回ったところだ。いつもなら走っている頃だったが仕事を終えて数日は甘やかすことにしていた。

 薄いシーツを跳ね除けて立ち上がった。背伸びをして部屋を見渡す。

 六十階に位置しているだけあって陽の入りは文句なし。朝日で眩いくらいだ。

 片隅の棚に賞状や楯、トロフィーが整列していて傍にはたくさんの写真立てがある。

 どれも兄の俊星が取ったものだ。運動会で貰ったものから地域の大会、市、県、全国と年齢を重ねるごとに活躍もランクアップしている。飾られた写真の中で兄は誇らしげに笑っていた。腕を絡ませて満面の笑顔を見せて映っている自分から視線を外す。

 その一つを取って愛おしく表面を撫でた。兄が心から笑ってくれた最後の瞬間。

 着替えを済ませながら幸せだった日々に思い耽る。自己を維持するための日課だ。

 本来なら兄の部屋にあるべき品々がここにあるのは明確な理由がある。

 脚を奪われて荒んだ兄は、過去となった栄光を直視できなくなった。

 二度と戻れない絶頂期から逃れるように全てを捨て去ろうとしたを止めたのは、いつかまた兄が自分を取り戻す日ため。幸福だった日々を忘れないため。

 まだ登校には早いが制服姿でリビングに向かうと既に兄が起きていた。

「おはよう、お兄ちゃん」

「……ああ」

 閉じこもりがちになってから兄の起床は遅い。朝に顔を合わせるのも久しぶりだった。

 生返事が気になって兄の視線を追う。壁面の大型モニターにニュースが流れている。

 せっかくだから朝食を作ろうとエプロンをつけながらオープンキッチンに入った。手を洗いながら一緒にニュースを眺める。日常は飽きることなく罪に満ちていた。

 恋愛のもつれで起きた悲惨な殺人事件、借金を苦に自殺してしまった落ちぶれたミュージシャン、飲酒運転が引き起こした悲劇に汚職政治家の末路、そして……“人体怪盗”。

 サラダにしようと冷蔵庫から取り出したレタスを耶依は床に落としてしまった。

 兄が食い入るように見ているのは昨日起きたという“人体怪盗”の事件。

 また新たな被害者が出た。今度は“鼻”を丸ごと盗まれたという。

 俊星は失った脚を求めるように毛布を掻き毟った。少しずつずれて光が漏れる。

 優しくて、かっこよくて、誠実だった兄の黒い部分が心を掻き乱す。

「あ、ああ、そうだ、私、毎朝見ている占いが――」

 慌ててリビングに戻ったがリモコンは俊星の手に握り締められていた。

 奪い取ろうとしても腕を振りかぶって邪魔をする。目がひどく血走っていた。

 狂乱する兄を目の当たりにして耶依は“あの日”を思い出してしまう。

 運命が捻じ曲げられた夜――二人はいつも通りトレーニングに励んでいた。

 体力を作り、筋肉を維持するために俊星は夜間も走ることが多い。耶依は自転車で併走して両親から貰ったストップウォッチで兄のタイムを計測する。

 何気ない、ありふれた、慎ましやかで幸せな日常は、唐突に破壊されたのだ。

 突然割り込んできた人影に兄が突き飛ばされ、驚いて止まった自分も殴られた。

 当時は強さを欲していなかった耶依は気を失いかけていた。うっすらとしか開かない目で別の人影が兄の足元に跪き、何かをする。初めて耳にする兄の絶叫に涙が溢れた。

 月明かりが曝け出した人影は男と分かる程度で、それきり耶依は気を失ってしまう。

 起きたときには病院のベッドの上。兄は命に等しい両脚を盗まれていた。

 自分が下着泥棒なんて相手をせず、“人体怪盗”を見つけ殺してさえいれば。

 いつまでも兄を苦しめ変えようとする悪夢を終わらせてあげられたなら。

 耶依は自分で背負った重責に涙を流した。俊星の胸に手を回して背中から抱き締める。

「ごめんっ、ごめんね、お兄ちゃん。私が、私が弱いから」

「……耶依」

 ニュースが終わりお天気キャスターが健やかな笑顔で登場してきた。

 俊星は電源を落として震える妹の手を撫でた。妹に“自分”を見せた迂闊さに顔を歪めながら。

「どうしてお前が謝るんだ。俺のほうこそ、びっくりさせちゃって、ごめんな」

「ううん。私だってあいつのことが許せないよ。お兄ちゃんの気持ちは」

「やめろっ! やめてくれ」

 妹の一言が引き金を引いてしまった。車椅子を前進させて耶依から離れる。

 兄の語気の鋭さに耶依はかける言葉を失う。自分に声を荒げることが認められない。

 外が見渡せる一面の窓に向かっていく背中が、どこまでも遠く感じる。

「気持ちが分かる? 冗談だろっ。誰にも分かるわけがないんだ。脚だぞ? 脚を奪われたんだ。走ることが俺の全部だったのに、根こそぎ持っていかれたんだっ。それだけじゃない! 俺が、俺が憎むのは――」

 俊星は車椅子を器用に回転させて耶依の顔を直視した。言葉が喉にひっかかる。

 目の端に涙を湛えて肩を抱いて震えているのは少女だ。唯一自分を“見捨てなかった”妹の恐怖が空気を凍らせる。制御が利かなくなりつつある自分に嫌気が差して溜息を吐く。

 取り繕うために浮かべたのは苦笑か、自嘲か。二人にも分からなかった。

「悪い……悪かった。嫌な兄貴になっちまったよな、俺」

 耶依は目元を拭って兄に駆け寄った。ここで捕まえなければ遠くにいってしまいそうで。

 まだ十分に硬くて頼りになる胸に顔を埋めて耶依は甘えた。

「私が悪いんだよ。だから大丈夫お兄ちゃん。私は、お兄ちゃんがずっと好きだもん」

「はは、優しいなお前は。でも、そろそろ兄貴離れしないと駄目だぞ」

「もうどうして意地悪いうの」

 顔をあげると兄が優しく撫でてくれた。恐怖も後悔もそれだけで帳消しになる。

 俊星はべったりとくっつく可愛らしい妹を突き放すように言った。

「もう高校生なんだぞ、いつまでも子供じゃないだろ。それに昨日は遅かったじゃないか。ええ? 連絡もなしに夜遊び。やっとデキたか」

「何よデキたって。アルバイトが忙しかっただけだもん」

「そりゃコレに決まってるだろ、コ・レ」

 古臭い表現だが俊星は親指を立てて白い歯を剥きだしにしてみせた。

 男だろと言いたいらしい。耶依は甘えた気分に水をかけらてふくれてみせた。

「お兄ちゃんのばぁーか」

「おっとっと危ないだろ、馬鹿力になりやがって」

 耶依は車椅子ごと胸を押し退けキッチンに戻ってレタスを拾い上げた。

 どうせ水洗いするのだから気にすることはない。あてつけ気味にざるにレタスを入れる。

「朝飯食べるのも久しぶりだな。何作ってくれるんだ?」

「知らない、お兄ちゃんの分はないもん」

「意地悪するなよ。な、ほーら、いいこいいこ」

 俊星は精一杯妹のために気持ちを偽って頭を撫でる素振りをして見せた。

 吹き出した妹の笑顔を見て仮初の平和が戻ってきたことを実感する。


☆ ☆ ☆


 廿楽事務所の執務机の上でまだ陽が明るいのに二人の男女が体を重ねていた。

 才悟が望めば愛はいつでも身を捧げる。それが“仕事”でもあり“本望”でもあった。彼に机に押し倒されるまま唇を奪われる。大胆でいて繊細な舌使いに溜息が逃げられない。

 フリーは窓際の日向で丸くなりながら二人の戯れを横目で見ていた。

 次第に息遣いが荒くなり愛は堪えきれずに彼のネクタイに手を伸ばした。

「おっと、そこまで。お楽しみは後にしよう」

 自分から求めておいて捨てるのも勝手だ。才悟は背もたれに寄りかかって微笑む。

 意地悪な上司なやり口にも慣れたもので愛は手早くシャツの乱れを整えた。

「相変わらずですね所長」

「二人きりの時は才悟と呼んでいいよ」

「今は嫌です」

 彼女の慎ましやかな抵抗に才悟は満足して手を組んだ。実に気分が良い。

 彼は今朝方“政府”から届いた封筒を引き出しから取り出して確かめた。

「彼女、喜ぶでしょうね」

「念願の昇格なんだから喜ばないはずがない」

 入っていたのは耶依のライセンス昇格の報告書と、新しい“乙”のライセンス。

 目論見通りの展開に才悟は清々しい気分で笑えた。作らない笑顔は心地が良い。

 耶依と善之助の二人が見事憑喪を捕らえたことで依頼は果たされ、田村渚は契約通りインタビューに応じた。彼女の警察批判と事務所の宣伝は絶大な効果があった。

「サーバーがパンクしたんじゃないかい」

「ええ、まあ」

「どれくらい“まとも”なメールがあった?」

「そうですね。九割が誹謗中傷と苦情、脅迫、悪戯でしたよ」

 愛の報告にも才悟はおどけて肩を竦めてみせた。それも想定済みだ。

 世界はまだ憑喪に優しいと言い難い。全国ネットでああも堂々と被害者を利用して宣伝すれば賞賛よりも批判が多くなるのは自然だ。だが知名度があがったことに違いはない。

 特に反応して欲しかった政府の皆さんも翌日には食いついて話を持ちかけてきた。

 ただ申請を出せば得られる丙ライセンスの憑喪の活躍を見過ごしてはおけない。

 一般市民が権力を持ちすぎることを政府はいつだって恐れている。大事になる前に自ら歩み寄り、“正義の憑喪”を政府が認めたという事実を作りたがった。

 これで廿楽事務所は名実共に対憑喪・憑喪神のスペシャリストという扱いを受ける。

 政府が功績を認めて昇格させたことが知られれば、賞賛と批判の割合も逆転するだろう。

「まともな一割の内訳は?」

「調査中ですが憑喪と断定できるのはありませんね。被害者の勘違いか妄想かと」

「いいさ。次の標的は決まっているようなものだし」

「よろしいのですか?」

 才悟が取り出した二通目の封筒を見て愛は思わず口を挟んでしまった。

 所長のやることに従うのが秘書の役目。忠告や意見は求められていない。しまったとふっくらとした唇を結んだが彼は怒ることなく封筒で机を叩いた。

「よろしいさ。放っておいたって耶依くんは勝手にやる。なら手綱は握っておかなきゃ」

「相当のじゃじゃ馬ですよ。乗り手を選びます」

「私が乗るのは君だけだ、愛くん」

 彼の手が幻のように消えて腰の回りに現れた。ぐっと引き寄せられて唇を重ねる。

 熱い口づけに今度は耐え切る。そうやって焦らして枷を外させようとしても駄目だ。

 何事もなかったように距離を開けて愛は話の種に疑問をぶつけた。

「乗り手は正部善之助、ですか。なぜ彼を選んだのです? 彼女には不釣合いでは」

「良い質問だ。その答えを理解するには耶依くんを理解しなければならない。君は彼女の能力をどう見る? 大学の講義の復習だよ。憑喪の能力は何に起因するか、分かるよね」

「精神性や感情、欲望、諸々の心的要素です」

「正解だ。その人の内側を神や霊魂が媒介を通して具現化したのが憑喪という能力」

 少しだけ首を伸ばして抗議の目を向けるフリーに才悟は謝った。

「ごめんよフリー。その人や、猫の、だ。さあ次のステップだ愛くん。君は彼女の能力からどういう“勝瀬耶依”を見る? 憑喪の研究をする者にとって大事な点だ。能力を知れば憑喪の内が分かる、内が分かれば能力を知れる」

 まるで教授のように才悟は話を続けた。教鞭の代わりにボールペンを振るっている。

 事実彼がそこいらの“エセ”研究者、学者よりも憑喪に精通することを愛だけは知っていた。彼の期待に応えるべく耶依の能力を思い描き、分析する。

「孤独を恐れ、他者を必要としている。というところでしょうか」

「八割正解。的確に言うなら耶依くんは他人に“依存”している。最初に依存していた兄が変貌したことを契機に、崩れた心が求めて生み出したのがあの能力だ」

 才悟はそのまま彼女の能力を解説した。ストップウォッチを媒介として他者を変身させる。決して自分ひとりでは意味を成さない。これは表面上は強がっていながらも根底で強く他者を望んでいることの現われ。他者を依存できるに足る頼れる存在に変える。

 相手との心の相性によって変身後の性能は0から1000まで振れるほどに幅広い。

 薄型ノートパソコンを机の上に開いて彼はこれまでの“変身者”のデータを呼び出した。

「これまでの下僕くんたちはせいぜい人間の二倍程度の性能だ。憑喪神と渡り合うのに十分と言えなかったね。特殊な能力を備えていた者は0。なぜでしょう」

「彼女が下僕を信頼せず、突き放していたから。心の距離が遠かったからですね」

「そう。耶依くんは彼らに“依存”できなかった。僕が用意した人材は大金目当てだったりスリルを求めていたり、耶依くんの体を欲していたり、彼女から見て“ろくでなし”だった。そんな相手に心を開くはずもなく、能力は本来の性能を発揮できない。だが――」

 画面に善之助と彼が変身した姿【ユウシャイン】が表示された。

 これまでのエセヒーローはコスプレしただけの格好だったのに比べて、【ユウシャイン】は煌びやかな装甲を備え、異質な存在であることを強調している。

「彼は違う。生身で憑喪神に立ち向かう勇気を持ち合わせていた。掛け値なしの正義で人助けができる。最初の変身の時、きっと耶依くんは無意識にヒーローを求めていたのだろう。憑喪神の前に置き去りにされて、誰か助けてと叫びたかった」

「そこに彼がいた。彼は純粋すぎて眩しいくらいですものね」

「ああ。耶依くんはこれまで依存していた兄の代わりを本能的に見つけてしまった。現実を見るのが怖くて冷たく振舞っているが、善之助くんの熱に溶かされている」

「相性は抜群。でも彼女は受け入れないでしょう。いくら彼が頑張っても」

「だからお膳立てをするのさ。二人がお互いを求めるように」

 愛は時折才悟の笑顔にぞっとしてしまう。爽やかに見える裏には好奇心に満ち溢れた悪魔が涎を垂らしている。二人のことを微塵も気遣っていない。万事自分のため。

 訊ねるのが怖くもあったが愛は真意を知りたかった。

「正部善之助と勝瀬耶依。二人を結ばせてどうするおつもりなのですか?」

「どうって可笑しいことを訊くね、君は」

 才悟は椅子から立って窓際に歩いた。お昼寝をしているフリーの背中を撫でる。

 曇り硝子から外を見下ろすと一人の少女が歩いてくるのが分かった。

「私は知りたいだけだ。耶依くんの能力の限界を。善之助くんはうってつけの餌さ」

『彼はとてもいい子よ。使い捨てにしないで』

 フリーの声が頭に響いた。咎めるように棘があって半ば爪を立てている。

 才悟は屈んでフリーの掌に収まる小さな頭を胸に抱いた。心で語りかける。

『二人とも事務所にとって必要な戦力だ。使い捨てにはしない。探ってみるといい』

 フリーには才悟しか知らない隠された能力があった。意識を共有させてテレパシーの送受信を操作するだけでなく、対象の思考を知ることができる。

 己の意識を相手の意識に潜り込ませて同化することで仔細まで把握できた。

 真実を知れてしまうからフリーは素直な相手にしか懐かない。

 善之助は真っ直ぐで純粋で正義感に溢れた優しい子だった。心の奥も変わりない。

 耶依は才悟が説明したように冷たく装っているだけで中身は温かかった。後悔と躊躇いを復讐という炎にくべて燃やし続けている。

 今無防備に本質を曝け出している才悟もまた素直ではあった。

 心の底から二人を気遣うつもりはなく自分の好奇心を満たすことだけを考えている。

 拾われたときも彼の内側は猫を利用する方法しかなかった。フリーは小さな口で笑う。

「善之助くんがヒーローになれるかは彼次第だ。そうだろう、フリー」

『ええそうね。私はあの子が耶依を変えることを期待している』

「私もだよ。二人に協力は惜しまない。どう行動するかは二人に任せよう」

 才悟はフリーを優しく抱き上げて執務机に持っていった。彼女の手触りは良い

 数十秒の沈黙をドアが追い出した。妙にご機嫌な才悟と愛を、耶依が胡散臭そうに見る。

「こんにちは、耶依くん』

 そういって才悟は二つの封筒を耶依に見せつけた。


☆ ☆ ☆


「善之助は……来てないんですね」

 開口一番に飛び出した名前に自分で驚いた。何を訊いているのだろう、と。

 返しのついた釣り針のように彼の存在が胸に刺さって抜けない。どうしても気になる。

 それは自分の失態のせいで彼に負担をかけた後ろめたさだと言い聞かせた。

 誤魔化しても出てしまった言葉は引っ込められない。才悟が嫌みったらしく笑っている。

「変わったね、耶依くん。真っ先に下僕の心配をするなんて君らしくない」

「武器がないと戦えないでしょう」

「その武器なら休暇を与えているよ。万全になってもらわないと困るからね」

「そうですか。なら今日も活動は休止ですね。失礼します」

 武器がなければ憑喪神が出ても戦えないし、依頼を受けるはずがない。

 少しでも気を紛らわすために、甘さを鍛え直すために、耶依は秘密基地に行こうと考えていた。一人で心静かにトレーニングに励む。汗を流せば余計な思考も消え去るはずだ。

「せっかちだなあ。君に良い報せがあるのに。ねえ、愛くん」

「はい所長」

 素早く動いた足が急に止まってつんのめる。耶依は振り返って二人を見た。

 才悟が二つの封筒を振っている。ご機嫌の理由がそこにあるらしい。

「良い報せってなんです」

「君も見ただろう、田中渚のインタビューを」

「ええ、一応」

 被害者の口から出される事務所への賞賛も警察への批判も台本だと知っているから滑稽に見えた。慌ててCMに入ったが全国ネットで報道された影響はさぞ大きいだろう。

 才悟が右手の封筒を愛に渡した。愛は無表情で何を考えているのか読み取れない。

 訝しげに耶依は封筒を受け取り中の書類とライセンスを取り出した。

「さっそく反応があった。政府からね、今朝届いたものだよ」

「……これは!」

 沈んだ気分が吹っ飛ぶ良い報せに心臓が飛び跳ねて口から出そうだった。

 『乙』のライセンス。これがあれば必要な情報を警察から引き出せる。隠されている憑喪関連の資料を、あの“人体怪盗”に関する手がかりを手に入れられる。

 震える指で書類をめくって確認した。ついに昇格した実感に目が見開いていく。

「おめでとう、耶依くん。目標に一歩前進だ」

「古いライセンスはこちらで処理するので後で返してね」

 二人の声は右から入って左から流れていった。今すぐここを飛び出したい。

 このライセンスを持ち込んで駆け込めば相手は嫌々だろうが資料を開示しなければならないのだ。手がかかりがあるとは限らないが一縷の希望を託すしかない。

 そわそわと身動きしはじめたのを見て才悟が先に制した。

「君が欲しているものなら私が取り寄せておいてあげたよ」

「それじゃあそれが!?」

 才悟の左手にある封筒に飛びつこうとして愛に引き止められた。興奮が収まらない。

 一刻も早く兄の笑顔を取り戻したい。焦るばかりで彼女は暴れかかっていた。

「落ち着いて話を聞いてくれ。これは君にあげるからさ」

「……すいません」

「よろしい。さあ、座って」

 耶依は気持ちを全身全霊で押さえ込んでソファに座った。つま先がステップを踏む。

 指をせわしなく絡ませあいながら上目遣いで封筒を見つめる。早く、早く、早く。

「まず目を通すといい。きっと驚く」

 愛を経由して手渡された封筒を荒々しく破りあけた。資料は数枚に渡っている。

 彼女が食い入るように読んでいる間、愛はそっとドアまで移動して鍵をかけた。話を聞かずに耶依が飛び出していかないように壁の役目を果たしている。

「嘘……そんな……」

 最初はニュースが報じている程度の情報だった。盗まれた部位の接合部分は淡い光に包まれるだとか、犯人を目撃したものはいないとか、犯行現場や時刻とか。

 読み飛ばしていくうちに耶依の手が止まった。世の中の知らない真実が刻まれている。

「私も驚いたよ。政府も警察も、やり口が汚いねえ」

 耶依は資料を落としてしまった。驚愕が行き過ぎて力が抜けていく。

 書かれていたのは盗まれた部位が“戻ってきた”被害者の情報。

 林に捨てられていた生の腕が見つかり、切断面が光っていたことから“人体怪盗”の被害者のモノと断定。照合した結果見つかった被害者の肩に合わせてみると元通りになった。

 経過報告もある。盗まれる前と一切の違いはなく、違和感も残らず健康体。

 まさに希望だ。これが真実なら“脚”を奪い返せば兄が戻ってくる。

 やり遂げる前なのにうれし涙が染み出してくる。こぼしてはいけないと目元を拭う。

 そうと分かれば尚更じっとしている場合ではなかった。耶依が立ち上がるより早く才悟が釘を刺す。彼女にとってもっとも痛い部分を的確に。

「残念だが耶依くん、私はまだ依頼を受けていない。利にならないことはしないよ」

「でも……!」

「愛くんに被害者たちと交渉をしてもらう。それか政府が依頼を出すのが先か。ともかくまだ動くときじゃない」

「そんなっ。みんな体を盗まれているんですよ!? 生活も満足にできない、外も出歩けない! どれだけ辛いか、才悟さんには分からないんです。少しでも早く取り返さないとどうなるか――」

「身内が被害者だからといって贔屓はいけないな」

 彼女にとって禁忌の部分が無造作に触れられた。耶依が立ち上がって猛然と詰め寄る。

 廿楽事務所に雇ってもらうために耶依は全てを打ち明けていた。でなければ協力を得られなかったから。うまく弱みを転がされて頭に血が昇る。

 殴りかかりたい衝動を原動力に変換して耶依は懇願した。

「そうです、兄も被害者のひとり。だから私が兄の代わりに依頼をします。いいでしょう?」

 耶依は気づけなかった。彼が引き出したかった言葉を。

 勝利を確信した満開の笑みを浮かべて才悟は耶依の心を引き裂いた。

「まるで善之助くんのようだね」

 たった一人の名前で耶依は膝をつかされた。ああ、そうだ、これでは彼と同じ――。

 正義を妄信して被害者のために身代わりを申し出た彼の姿が重なる。兄の復讐のために、彼の正義と同じことをしようとしていた。

 いもしないのに心を圧迫する存在感を放つ正部善之助が鬱陶しくてしかたがない。

 うな垂れながら彼女は弱々しくつけ加えた。

「私は、彼とは、違う」

「どう違う?」

「お金ならあります。いくらでも、払えます。だから――!」

「私が聞きたいのはそういうことじゃない。耶依くん。素直に助けてくださいと言えばいいだろう? 君は善之助くんと同じだ」

 聞きたくない。知りたくない。耶依は耳を塞いで後ずさった。

 いや、いわないで。逃げたくても逃げられない。才悟の言葉の刃に切り捨てられる。

「一人では何もできない。認めたまえ。楽になる」

「違う……違うっ私は!」

「夜間の見回りも結構だが、それでは一生かかっても見つからない。愛くん」

 才悟は耶依が“人体怪盗”を独自で追っていることも知っていた。その手段が犯行が起きやすい時間帯に市内を見回るというのだから、つくづく二人は似ている。

 愛はドアから離れずに一度見た資料を記憶から引き出した。

「人体怪盗の初めての犯行は一年前、被害者は男性。それから何件かは男性ばかりが標的で報道はされなかった。次に女性が狙われはじめるようになると被害が報道された。男性の時は盗まれる部位が同じ部位であることが多いのに対し、女性の場合は別々の部位が狙われている。さらに、ここ数週間で被害が増えてきた」

 彼女は情報を羅列しているだけで考えを合わせ持っていない。言われたところで耶依には先が見えず、才悟に視線を泳がせるしかなかった。

 彼は揺るぎない確信を持っているかのように言った。

「今の人体怪盗は女性のパーツを集めている。足、手、耳、鼻。残っているのは頭、口、目、胸といったところかな。実に悪趣味だ。コレクションでもしているのか、お人形でも造っているのだろう。早く揃えたくてすぐ次の獲物を見つけ出すはずだ」

 はからずも彼は正解を言い当てていたが解答を知るのはまだ先のことだった。

 才悟はフリーを持ち上げて耶依に差し出す。抱きとめようとしたが白猫は嫌がって身を捩って飛び降りた。

 切なさを感じながらも耶依はフリーから目を逸らした。

「フリーの能力を使って市内を監視してもらう。君が駆けずり回るより効果的だ。落ち着かないというなら好きに見回りすればいい。もしもフリーが何かを見つけたら連絡させる。だが、善之助くんと一緒になるまでは動かないこと。一人では無謀だ。君は失うに惜しい人材だからね」

「けど善之助はまだっ」

「仕事は仕事。彼もヒーローとして割り切るさ。お優しい善之助くんは君が傷つくくらいなら自分を傷つけるほうを選ぶはずだ」

 励ますように肩を叩こうとしてきた手を耶依は振り払う。

 才悟に指摘されたことが余韻として頭に残っていた。善之助と同じように振舞ってしまった自分。彼を探して部屋を見渡していた自分。兄に見透かされた自分。

 それでも結局のところ耶依は強がりだった。他人に弱さを見せたくない。兄を除いては。

「分かりました。もう、行っていいですか」

「目標を達成するにはどの手段を取るのが最適か、よく考えることだ」

 耶依は失礼しますと言い捨てて愛を押し退けて事務所を出て行った。

 才悟は日向にフリーを置いてやりながら走り去っていく少女の背中を見送る。

「彼女、言うこと聞きませんよ」

「知っている。フリー、このことは善之助くんに伝えてないね?」

『……ええ。仲間外れで可哀想』

「すぐに彼が必要となる。敵が見つかったらまず“善之助くん”に報せるんだ。いいね」

『彼女が素直になってくれればそれが一番だけど』

 フリーは伸びをしてから才悟が開けた窓の隙間から躍り出た。

 憑喪神に等しい存在の彼女に高さの概念は関係ない。しなやかに降り立って建物の陰に姿を消す。見届けてから才悟は愛の腰を抱き寄せた。

「あとは成り行きに任せるだけだ」

「失敗したら?」

「駒を二つ失う。惜しいが、私には君がいれば十分だ」

「もう、才悟さん」

「いけない大人は楽しむとしよう」

 今度こそ愛は才悟のネクタイを解くことに成功した。


☆ ☆ ☆


 善之助は与えられた休暇を存分に楽しんだ。

 久しぶりにランニングを休み、学校からゆっくり帰ってDVDを観る。段々体調が戻ってきて節々がむずむずしてくると筋トレをして解した。

 ちょうど父も休暇で家族三人で食卓を囲めたのが一番の幸せ。

 手料理を堪能しながら他愛ない雑談に華が咲いたあとで母がアルバイトの話を切り出す。

 肉団子を掴んだ箸に力が入りすぎて千切れてしまう。慌てて小皿に取り分けた。

「善之助、アルバイトはどうなの? 順調? 最近、休んでいるようだけど」

「うん。アルバイトって言ってもね、必要な時に手伝いをするだけなんだ。出番がないときはお休みって感じ」

「そうなの。新しいお友達はできた?」

 香子の関心はそこだった。多少怪しいところがあっても息子に友達ができるのは喜ばしい。正継は聞耳立てて黙って箸を動かしている。

 友達、と言われて善之助は耶依の不満そうな顔を思い浮かべた。

 彼女は共に戦う仲間、相棒だ。友人とは違う。どちらかといえばフリーが友達だ。

 優しい白猫は暇なときによく遊び相手になってくれる。善之助は笑いながら頷いた。

「できたよ。優しくて賢いんだ」

「なら良かった。ね、あなた」

「そうだな。友達は大切にすることだ。一生の宝になる」

「もちろ――」

『善之助!』

 その友達から脳みそに着信があって口に運んだ肉団子がテーブルに零れ落ちた。

 急に動きが止まった息子を両親が見つめる。善之助は咄嗟にズボンのポケットからスタホを取り出して“そのまま”耳にあてた。

「ど、どうしたの?」

『人体怪盗を見つけたの! 耶依が危ない。急いで向かって!』

「善之助?」

 人体怪盗。彼が知るうる限りでもっとも身近で強大な“悪”だ。

 箸を叩きつけるように置いて立ち上がった。戸惑う母の顔を見ると胸が苦しい。

「ちょっと仕事が入ったんだ。行かなくちゃ、ごめん」

「ご飯の途中でしょ? どうしちゃったのあなた」

『善之助、聞いているでしょ!? 返事して、お願い。耶依を救えるのはあなただけよ!』

 両親を前にして脳内で会話するのは難しかった。気持ちの焦りに心が乱れる。

 善之助は強引にリビングを出ようとしたが父が立ちふさがった。真実を見抜く瞳に覗き込まれる。厚い手に肩を挟まれて身動きができない。

「友達が危ないんだっ。僕が、僕が助けにいかなくちゃいけない! お願い、父さん」

 正継は息子を感じ取っていた。体が小刻みに震えている。

 力で押し留めても力で突破しようとするだろう。ならば肩ではなく背中を押してやるべきだ。どん、と息子を送り出す。

「必ず助けるんだぞ。行ってこい」

「ありがとう!」

 善之助は父の信頼に闘志を震わせた。必ず人体怪盗を――悪を倒してみせる。

 突風のように飛び出していった息子を正継と香子は肩を寄せ合って見送った。不安になって夫の顔を見上げてみるが、彼は息子を信じきっている様だ。

「あの子、大丈夫かしら」

「ああ大丈夫だ。あいつも男だ。やり遂げる」

 正継は妻を抱き寄せてしっかりと頷いた。息子の正体を知らずとも感じるものがある。

 困難に立ち向かおうという男を阻むことはできない。

 頑固者の警察官である自分がそうであるように。正継は息子の戦いを応援した。


☆ ☆ ☆


『耶依! 才悟と約束したでしょう。善之助と合流してから――』

「それじゃあ手遅れになる! また被害者を出していいっていうの!? 教えなさい!」

 耶依は夜が訪れた市街をマウンテンバイクで駆け抜けていた。

 才悟に馬鹿にされようと自分の足での“人体怪盗”探しを諦めるつもりはなかった。地道な努力を重ねることが結果に結びつくと、大好きな兄から学んでいる。

 今宵も決めたルートに沿って走っているとフリーから待ち望んだ報告が入った。

 彼女は才悟に忠実で善之助との合流を促すが聞いていられない。

 あいつはこの手で殺す。兄の脚の場所を白状させてから念入りに殺してやる。

 気迫に負けたのかフリーは大人しく“怪しい影”の現在位置を教えた。

 赤信号を無視して車道を突っ切りクラクションを背に受ける。歩行者をなぎ倒す勢いで煽って怒声を浴びた。そんなことはどうだっていいとばかりに加速していく。

『見つけたのは知り合いの野良猫よ。人とは違うおかしなものを見かけたって。形は人に近いらしい。早くて追いつけないけど、連絡を回して見つけた。場所は――』

 耶依はその周辺に最近来たことがあった。頭に血が昇っていて気づかなかったが。

 【怒変態】と戦闘を繰り広げた角を折れて路地裏に入る。中心地から遠ざかるほどに九十九市は道だらけで人目につきにくい死角が多い。

『……大変っ。女性が襲われているそうよ! 耶依どこに――』

「殺してやる、殺してやる、殺してやるっ」

 ゴールは捨てられた建物の前だった。取り壊し途中で柵が巡らされている。

 悪戯者が不法侵入した跡なのか入り口の鍵は壊されて開いていた。滑り込むようにマウンテンバイクから飛び降り、奥に駆けていく。フリーの忠告は全て遮断した。

 あちこちに機材が取り残され、分解された建物の一部が残っている。

 耶依はスカートの下、太ももに巻きつけたホルスターから特殊警棒を抜いた。

 風を殴るように振って収納されていた本体を伸長させる。腰のベルトにはスタンガンを差してあった。ついに使うときが来たと興奮さえ覚える。

 血走った目が隅っこに佇む大柄な人影を見つけた。

 大胆に歩み寄っていく。半月の明かりに照らし出されたのは“甲冑”だった。

 全身を隈なく覆う黒金の装甲が月光を反射して煌く。頭部は西洋の兜を思わせる。十字に刻まれたスリットの奥で黄金の光が瞬いた。どこか、“あれ”に似ている。

 決定的な違いは攻撃的な輪郭だ。肩も膝も、装甲そのものが抜き身の刀身の如く鋭い。

 黒金の“甲冑”は耶依に気づいていたが主の命が下らないので棒立ちになっていた。

 耶依は能力の産物と理解しながらも鎧の陰に隠れた人物を見るためになおも近づく。

「実に素晴らしい瞳だ。形は完璧、歪みひとつない。色合いも文句がないし最後まで抵抗した意志の強さが光っている。良いものを手に入れた。これで――」

「見つけた……ついに。見つけた、人体怪盗ッ!」

「ん? なんだ、お前」

 その姿を見た瞬間、耶依の曖昧だった記憶が鮮明になった。

 伸ばしたままの汚い長髪に皮が張りついた骨ばりの痩躯。陰湿さが充満して濁りきった暗い瞳、死人のように青白い肌。兄の脚を盗んでいった“人体怪盗”だ。

 耶依の理性が毎日積み重ねてきた憎悪に飲み込まれて混濁する。

【彼】が両手で奪い取ったばかりの生々しい瞳を転がしていることも気にならない。

 “甲冑”の足元で臥せっている見覚えるのあるはずの女性も興味がなかった。

 殺す。たった一言の単純な原理が耶依を動かす。

「お兄ちゃんの脚はどこ!?」

 確かめるように警棒を振りながら【彼】に近づいていく。段々と足が早くなる。

 【彼】は瞳を丁寧に保存用のビニール袋に入れながら鼻を鳴らした。

「さあ。どれが誰の足か、覚えてない」

「……許さない、お前だけは私が、殺すっ!」

「【フルメタル】、そいつを黙らせろ」

 耶依は駆け出した。視線は【彼】を捉えている。他のものは視界から消し飛ばす。

 この日のために鍛えてきた脚力が距離を詰めた。平然と堕落した目を向ける【彼】に警棒を叩きつけようと振り抜き、横合いから伸びた漆黒の手に受け止められる。

 甲高い金属音が響いた。【フルメタル】の名に相応しく等身大のフィギュアは金属製だ。

「邪魔するなぁ!」

 体を捻って渾身の回し蹴り。避けるまでもなく【フルメタル】は胴体で受け止めた。

 踵が割れたように痛み足が衝撃に痺れる。反動で仰け反りながら距離をとって、兜の頬に警棒を打ち込む。効き目はなし。【彼】が嘲って笑った。

「それは全身超硬合金だ。玩具の棒じゃ傷もつかない」

「だったらお前はどうだ!」

 耶依の目的はあくまで“人体怪盗”。ばかでかいフィギュアではない。

 【フルメタル】が素早く踏み込んで腕を伸ばしてきた。喉を狙っているのが見え見え。耶依は半身を下げて手首を取り、外側に捻って足を払いつつ投げる。重量があろうとも流れに乗せれば倒すくらい造作がない。

 揺れた地面を蹴りつけて飛びかった。【彼】が目を見開いて尻餅をつく。

 一撃目は後ろに倒れたせいで空振りに終わって土を抉った。だが目標は目の前にいる。

「お兄ちゃんが味わった苦しみを、痛みを、教えてあげる。ふふ、どうなるかな」

 残虐な微笑に【彼】は魅入られた。怒りを体現した逆立つ短い髪の虜になる。

 小さな胸は激しい動きに上下していた。控えめだが形がよく実に“似合う”。

 耶依は品定めの視線に嫌悪感を覚えさっさと済ませることにした。全力で、迷いなく、痩せ細った足を折る。動けなくなったところを責めれば嫌でも答えるだろう。

 初めて振るう本当の暴力。憎悪の片隅で嘆く優しさが振り上げた手を数秒留めた。

「お前が、悪いんだっ!!」

 ぶんっ。押し出された風が唸る。警棒が途中で止まって動かない。

 【フルメタル】に後ろから羽交い絞めにされたまま持ち上げられて足が宙に浮いた。両手両足で暴れても鉄の塊に通じるはずがない。

 刹那の躊躇いに好機を逃した。耶依は全てが混ざった涙を浮かべながら叫ぶ。

「返せ! お兄ちゃんを返せっ!!」

「凶暴な女だ。けど気に入った。完成を急がせたいしこの髪と胸で我慢しよう。押さえつけておけよ。分解に失敗すると萎える」

 尻を叩きながらのろのろと立ち上がった【彼】は腰の後ろに手を伸ばした。

 工具入れの中からカッターを取り出す。どこにでもある普通のカッターだが【彼】が最高の作業をするために選んだ一品だ。【彼】が愛おしそうに撫でると淡く光る。

 分解された切断面を覆う光と同じだった。叫び暴れながらでも目が離せない。

 【彼】の能力は分解と構築。合わせて造形すること。

 とても人を切り分けられるようには見えないカッターでも【彼】が使えば別物になる。

 憑喪の力によって思い描いた通りに対象をパーツに分解できた。

「そうだな、まずは胸を取り出そう。髪は時間がかかりそうだ」

 ぶつぶつと呟きながら【彼】はカッターの刃でシャツを切り裂いた。白いブラジャーを目にしても赤らむことなく、淡々と胸元を開く。

 分解するには直接肌に刃をあてなくてはならない。準備を終えて満足そうに頷く。

 どれだけ抵抗しても無駄で近づいてきた【彼】に唾を吐くのが精一杯。

「絶対……殺してやる」

「うるさいな。口をとって黙らせるか」

 胸に触れる寸前でカッターの刃が昇ってきた。口の端に切っ先が近づく――。

「やらせるかぁぁぁぁぁぁっ――!!!」

 静まり返った空を絶叫が震撼させる。

 耶依も【彼】も、ましてフィギュアが知る由もなかった。

 ヒーローは、遅れてくることを。


 善之助はフリーの案内に導かれて工事現場まで辿りついた。

 飛び込むなりそこらに転がっていた廃材を取り上げて喉を嗄らして叫ぶ。

「やらせるかぁぁぁぁぁぁっ――!!!」

 耶依の危機はどこかで監視しているフリーから知らされていた。

 間一髪、彼は間に合う。全力で叩きつけた廃材は半ばで折れて飛んでいった。しかし不意打ちを食らえば硬くても動きに綻びが生じる。耶依は拘束から逃れられた。

 【フルメタル】が振り向き様に手を伸ばしてきた。善之助は屈んで前に飛び出す。

 前転から立ち上がりつつ耶依の腰を抱き寄せて敵から距離を開けた。

「間に合ってよかった! 大丈夫ですか、耶依さん」

 彼女を片腕で庇いながらカッターを手にした痩せた男から“甲冑”に視線を移した。

「嘘だ……」

 心の声が音になって溢れ出る。善之助は“甲冑”のデザインに見覚えがあった。

 ヒーローになったあの日に買った“断罪者エグゼクター”。黒衣の騎士にどこか共通している。それはつまり、“ツクル印”のフィギアの証。

 強さを強調するために際立たされた鋭角的な輪郭。刃の如き洗練された装甲。

 十字のスリット状の眼は【ユウシャイン】のデザインにも取り入れている。

 信じたくない一心で泳いだ視線が横向けに倒れている女性の姿に止まった。

 眼窩が淡い光に閉ざされている。善之助は虚ろな表情の彼女が誰か気づけた。

「田中さん!?」

 この間事務所に依頼を申し出に来た田中渚に間違いない。二つの瞳はカッターを弄ぶ【彼】に盗まれたのだろう。

「また邪魔者か。面倒くさいな。女は連れて行く。男は黙らせてくれ」

 了解と言うように黄金の眼光が瞬いた。あの男の寂れた容姿、確か、どこかで。

 思考は敵の接近に中断され、行動は味方の邪魔に阻まれた。

「変身よ。あいつを壊して、人体怪盗を殺す」

「何を言っているんですか!? 田中さんを助けなきゃ――」

「黙れ黙れ黙れっ。あなたは何も知らない、わかっていない! 私はあなたが想像しているような“良い人”なんかじゃない……証明してあげる」

 耶依は善之助の背中を押した。【フルメタル】に生贄として捧げるように。

 兄の教えを実戦する時。覚悟を決める時だ。

 この日のために耶依は武器を欲した。復讐を果たすに得る強力な武器を。

 戸惑いに目を見開く善之助に耶依は微笑みかけた。ごめんなさい、と呟いて。

「善之助、ヒーローになりなさい」

 あの日と同じ台詞を吐き捨ててポケットから抜いたストップウォッチを押す。

 変身の言葉を儀式も必要としない。とめどなく湧き上がる憎悪が善之助を塗り替えた。

「何っ!? なんだよ、これ……いやだ、やめああああああああっ――」

 正義の光ではなく、悪の業火が少年の小さな体を燃え上がらせる

 善之助は頭を抑えて空を仰ぎ魂を焦がしなら叫んだ。

 どす黒く、底がないほど深い憎悪が少年の正義を冒して侵して犯し尽す。

 彼は拒んだ。己の正義を貫くために。だが制御を失った力は歯止めが効かない。

 耶依は何の感慨もなく色を失った瞳で善之助の変身を見守った。


☆ ☆ ☆


 書き換えられていく自意識の中で善之助は最初の変身を思い出していた。

 あの時も唐突だった。急に体から光が溢れて自分自身が変えられた。彼女を助ける、怪物を倒す。ただそれだけの正義感が光によって形を成し力を得た。

 誰にも負ける気がしない。二つの気持ちが重なり合っているのだから。

 でも、今は、違う。自分の意志を無視して力が闇を拡げている。

 耶依の憎悪が自分に混ざっていく。そうして初めて彼は彼女の気持ちを知れた。

 殺せ殺せ殺せ殺せ殺せころせころせころコロセコロロロ――。

 まるで言い聞かせるように、己を騙すように、殺意が叫び続けている。

 破壊衝動が刺激されて爆発した。小さな体に収まりきらない暴力が解き放たれる。

 “人体怪盗”を憎む理由が善之助の正義を捻じ伏せた。

――お兄さんの仇なら、しょうがない。

 耐え難かった。彼女の嘆きが、呻きが、震えが、恐れが、喜びが、重なっていく。

 抵抗していた彼の欠片が黒く染まった。ヒーローは復讐鬼に変身する。

「ウオオオオオオオオオオオオオオンッ!」

 野獣が吼えて黒炎が舞い散った。現れた姿にヒーローの面影はない。

 装甲は皮膚と溶け合って黒光りしている。爛れた顔に菱形の罅割れが走り真っ赤な焔を灯していた。四肢は歪に曲がり捻れ、右腕が一回り大きく膨らんでいる。代わりに左手は干乾びたように細い。バランスが取れずに右側に傾いていた。

 外れた顎から猛々しい牙が覗き吐息が空気を撫ぜると火が点く。

 醜悪な容姿を目の当たりにさせられて【彼】は憤慨した。

 造形師として許せない。親指の爪を噛みながらその存在を強く否定した。

「なんて造形だ! ありえないっ。筋だらけで汚らわしい。ああ、あーああぁ、なんだその手足は。どこもかしこも歪んでいて皺だらけ! 野獣を表現するにしても野生の気高さがないじゃないかっ。燃え滓のような見栄えだ。見ていられない。ぶっ壊せ!」

「壊れるのはあなたの玩具よ……やりない」

 二人の命によって【ユウシャイン】と【フルメタル】が正面から激突する。

 姿形だけではなく動きからも洗練さが失われていた。【ユウシャイン】は低空で飛び出してがむしゃらに巨大化した右腕を叩きつける。【フルメタル】は自慢の超硬合金の装甲で拳を受け止めたが炸裂した衝撃に弾き飛ばされた。

「いける……いけるっ。壊せ、壊すのよ!」

 耶依は狂気に満たされた瞳を輝かせながら叫んだ。【ユウシャイン】が呼応する。

 【フルメタル】が立ち上がったところに再び拳を打ち込む。受けれないことを学習したのか重厚な金属の肉体を感じさせない素早さで横に跳んだ。

 枷から放たれた能力の権化は通常時を凌ぐ凄まじい性能を発揮する。

 予備動作なしにバネだけで【フルメタル】を追撃。空中で右手が兜を捉える。

 地面に叩きつけて勢いのまま引き摺って走った。コンクリートの壁を突き破って捨てられた建物に突入。【フルメタル】は所詮造り物で表情を変えることも動じることもない。

 平然と腰を回転させて突き出した膝の尖端を【ユウシャイン】の脇腹に突き刺す。

 装甲を失った【ユウシャイン】の皮膚が破れ黒々とした血が噴出した。

「ウオオオオオオオンッ!」

 だが彼もまた全てを失っている。お構いなしに【フルメタル】を投げ飛ばした。

 想定外の衝撃に壁は容易く崩壊し建物全体が震動する。容赦なく【ユウシャイン】は跳躍し握り拳を打つ。【フルメタル】が咄嗟に出した左腕を圧し曲げた。

 膝をついて俯いた兜状の頭を右手がかち上げる。顎に皹が走り欠片が飛ぶ。

 一階の天井を貫いて飛んでいく様に金属の重みは感じられない。

 【ユウシャイン】は壁を踏み台にして右から左に跳び、【フルメタル】に突撃した。

 次は左から右。二階から三階へ。リフティングのように軽々と甲冑を殴り飛ばしていく。

 ついに屋上に飛び出した。度重なる重圧に【フルメタル】の装甲がへこんでいる。

 追い詰めた感触があるのか【ユウシャイン】の口が大きく裂けて奇怪な笑みを浮かべた。

 風を切る蹴りを屈んで避ける。振り下ろされた手刀が肩を裂く。だが止まらない。

 右手で兜を覆いこむと半月に向かって跳んだ。自由落下に任せて地面にめり込ませる。

 ここまでの戦闘は一瞬だった。人間の耶依と【彼】の理解と反応は追いついていない。

 【彼】を殺そうと耶依が警棒を構え近づいた時にはもう降ってきていた。

 二人の間の地面が陥没し震動の余波に【彼】は転びんだが耶依は踏み止まった。

 【ユウシャイン】に踏み躙られる【フルメタル】を見て勝利を確信する。

「よくやったわ! その玩具を捨てなさい」

「俺の……俺の最高傑作が。芸術品だぞ……くそっ、何するんだっ!」

 【彼】の発狂は何よりのご褒美だ。【ユウシャイン】が【フルメタル】の首根っこを掴んで遠くに投げ捨てる。左腕は捻れて千切れかけ、装甲は鋭利さを失い、顎が割れていた。

 【彼】は何事か喚きながらぼさぼさ頭を掻き毟り悔し紛れに地団駄を踏む。

 高笑いをしながら高みの見物だ。いよいよ復讐を果たす時。

「さあ、そいつの脚を奪いなさい。お兄ちゃんと同じ目に遭わすのよ」

『駄目よ善之助。あなたはヒーローでしょ!? あなたがやらなきゃ誰が耶依を救うの!』

 沈んだ地面から一歩ずつ確実に上がっていく。【彼】は逃げようともしていない。

 命令に従おうと右手を伸ばす。圧し折るのに力は必要ない。触るだけで済む。

 復讐――正義に背く行為。【彼】の脚を奪えば彼女が殺し、悪に堕ちる。

 兄の、家族の仇。気持ちは分かる。きっと自分もそうするだろう――いいや違う。

「うぁ、あああ、うぅぅ、があああ!」

 善之助は耶依の気持ちに触れた。大切な人を奪われた悲しみ、怒りを。

 だから許してしまった。憎悪に身を任せて一つになった。でも違う、そうじゃない。

 一つに混ざったから分かる。彼女の苦しみが、躊躇いが。

 正義は諦めない。善之助の欠片が色を取り戻し抵抗し始めた。復讐は果たさせない。

「どうしたの!? やっと、ここまで来たのに! あなたがやらないなら私がやるっ」

 苦しみ暴れ出した【ユウシャイン】を押し退けようとして腕を掴まれた。

 優しく、温かい。剥き出しの肉が鼓動に合わせて躍動する。

 菱形の罅割れが広がって顔が剥がれ落ちた。善之助の純粋な瞳が露になる。

「だめ、だ。耶依……さん」

 彼女を救う。言ったはずだ、自分が止めてみせると。嘘は吐かない。

 家族のための復讐を耶依が願うから善之助は自分を取り戻せた。

 父の言葉が闘志を呼び覚ましてくれる。お前の正義を信じろ、迷っても嘘を吐くな。

 どんなに憎くて怨んでいても殺してしまっては同罪だ。そんなこと見過ごせない。

 善之助は自分を信じた。培ってきた正義を。迷ってもゴールはいつも同じ。

 曇りのない目に見抜かれて耶依は絶句する。目の前にいるのは紛れもなく彼だ。

「耶依、さん。殺したら、いけない。僕は、あなたを悪に……させない。止め、るよ」

「でも! あいつはお兄ちゃんの脚を奪った! 夢を台無しにして人生をめちゃくちゃにしたんだっ。殺されたっていい悪でしょう!?」

「悪だ。悪は、正義が倒す。耶依さんは、優しい人だから。自分に嘘を吐いている。だから力が暴走、した。ごめんね。僕は何も――知らなかった」

 彼女のことを正しく理解していれば止められたはずだ。耶依を正義と妄信した結果が招いたのならそれは自分の責任。善之助は目を伏せて謝った。体は動かない。

 自意識を取り戻した彼に跳ね返されて、耶依は自分の感情を知った。

 復讐の鬼になろうとしてなりきれない自分。下僕と蔑み武器と思い込んで冷たく扱ってきた男の数々。慣れない強気の自分に嗚咽を漏らした日々。出会ってしまった善之助。

 一筋の涙が耶依の頬を伝う。彼女はただ、救って欲しかった。

「善之助――」

 声をかけようとして突き飛ばされた。善之助の胸から腕が飛び出す。

「ごほっ」

 咳き込んだ拍子に血の塊が地面を赤黒く染めた。首をどうにか回してひしゃげた黒銀の兜を見つめる。【フルメタル】は右手の指を揃えて槍の如く突き出し、腕を高速回転させて【ユウシャイン】を背中から貫いた。【彼】が仕込んだ隠し武器だ。

 善之助は朦朧とする意識で、霞んでいく視界で泣いている耶依を見つけた。

 どうにか微笑んで頷いてみせる。

「正義は、死なない。僕が……悪を倒す」

 【ユウシャイン】は回転する腕を左手で押さえ込んだ。肉が巻き込まれて削げ落ちる。

 痛覚はとっくに死んでいる。右の肘を二度三度と顔面に叩き込んで体勢を崩させた。

 最後に振り子のように後頭部を打ちつける。【フルメタル】の体が離れた。

 反動で腕が抜けて自由を取り戻す。振り向き様に右の拳を真正面から叩き込む。

「もういいやめろ! 帰るぞ。見ていられない。早く直さなくちゃ……」

 【フルメタル】は使い物にならない左腕を振って拳を逸らした。よろめきながら飛び退いて主人を右手で抱きかかえる。逃がすまいと【ユウシャイン】は踏み出したが倒れた。

 【彼】は呆然と座り込む耶依に、醜悪な造形に捨て台詞をぶつけた。

「二人とも絶対に壊してやる。俺の作品を穢したこと、後悔しろ」

 逃がしちゃいけない。被害者が増える。善之助の意志は肉体に伝わらない。

 右腕を支えに立ち上がろうとしたがもう力が入らなかった。無様に顔を地面に押しつける。目線だけをあげて半月を目指して跳ぶ【フルメタル】の背中を見た。

 耶依はふらつきながら【ユウシャイン】の――善之助の傍に座り込んだ。

 右手のストップウォッチの数字が振り切れている。ストップを押しても反応がない。

 善之助の目をした頭を胸に抱きかかえて耶依は泣いた。許しを乞うてひたすらに泣いた。

「ごめん、なさい……私、私が……ごめんなさい……」

 彼女は気づいた。憎悪に呑まれたことで能力の制御を行えず暴走させていたことを。

 他の憑喪と違うのは“神化”したのが能力者ではなく対象であったことだ。耶依の感情と混じり合った善之助を変貌させ憑喪神へと神化させた。だから装甲を纏ったヒーローではなく、凶暴性が剥き出しになった野獣に変わったのだ。

『落ち着いて耶依。今愛が向かっている。じっとしているのよ、いいわね。善之助の心はまだ生きている。諦めないで!』

 もう取り返しがつかない。フリーが何か喋っていても理解する余裕がない。

 不意に【ユウシャイン】の全身が燃え尽きた灰のように色褪せて崩れ落ちた。

 両手で灰を払うと善之助の姿があった。彼は弱々しくだが微笑み親指を立てる。

「なか、ない、で。せい、ぎ、は、しな、ない」

「善之助っ!」

「ぼくが――やよ、……を」

 強制的な神化を伴う変身に善之助の心身は力尽きた。手が、力なく脇に垂れる。

「うぅ、うぅう……うああああああ!」

 耶依は彼を抱きしめた。どこにも行かないように、手離さないように力強く。

 失って初めて認められる。正部善之助を、その正義を必要としてことを。

 手遅れになっても彼女は素直になりきれず、ただ泣き叫ぶ。


☆ ☆ ☆


 善之助は夢を見ていた。

 視界は真っ白で目の前に真っ黒な自分が立っている。彼は気さくに手をあげた。

「やあ、僕」

 黒い手が差し出される。彼は自分の握手に応じずに首を振った。己の闇を拒絶する。

 妙に愛嬌に溢れた仕草を見せる自分を見ていると気味が悪かった。

「受け入れてよ。僕は君だ」

「ああ君は僕の悪だ。だから手は握れないよ」

「ひどいなあ。君はまだあの性悪女を信じているのかい? 分かっただろう。理想なんていうのは脆く儚い。正義はすぐ騙されちゃう」

 真っ黒な自分が染みになって白い視界に広がった。たちまち耶依の姿を作り出す。

 善之助は分かっていた。黒い染みは憎悪の感情で耶依の一部が溶け出したものだ。強引な変身と神化の名残で彼女の欠片が取り残されたのだろう。

 体はまだ動かないし、視線は真っ直ぐに固定されていて自分を見下ろすこともできない。

 黒い耶依が近づいてくる。歩くのではなく、映像がぶれたかと思えば、少し前にいた。

「あなたは私の下僕、復讐のための武器。それだけ」

「違う」

「なぜ言い切れる? あなたは私を知らないのに」

 悪が嗤う。低く、高く、荒れ狂う波のように緩急をつけて繰り返される。

 情けないことに悪の言う通りだった。耶依のことを何も知らず理解もしていなかった。

 勝手な理想を押しつけて信じ込んでいた。やっと自分の身勝手さを思い知る。

 だがおかげで善之助は耶依と一つになれた。彼女の奥底にある本音を厳重な建前をすり抜けて聞くことができた。黒塗りの耶依は、いわば彼女の皮に過ぎない。

 頬を包み込もうと闇の手が迫る。善之助は微笑んだつもりで謝った。

「ごめんね。もう僕は負けないよ。どれだけ憎悪が強くても、救いを求める声があるなら僕が手を伸ばす。捕まえて引き上げる。それがヒーローだから」

「ははは。誰もあなたの正義ごっこに助けてもらいたいなんて思ってない」

「うん、僕は遊んでいただけだった。本当のヒーローになるのはこれからだ」

 耶依から滲み出た闇が白を塗りつぶそうとずるずる這っていく。

 己が侵食される感触にも善之助は自分を見失わなかった。正義を信じればいい。

「なら助けて。あいつを殺すために、あなたという器を私に――」

「僕が助けるのは耶依さんだ。お前じゃない」

「私は彼女よ。彼女の憎悪。この憎悪が彼女そのもの。まだ分からない?」

「分かっている。耶依さんは優しい人だってこと。君には、自分の声が聞こえない?」

 善之助は顔をあげた。白の先から光が降り注ぐ。それが声だった。


☆ ☆ ☆


「ねえ、フリー、善之助はどう? 生きている? それとも――」

 耶依がベッドで静かな寝息を立てている彼の安否を気遣うのはもう十度目だ。

 【フルメタル】に破れた善之助と耶依は愛に回収されて事務所に連れて行かれた。四階の病室代わりの部屋で寝かせてそれっきり数時間。彼は目を覚まさない。

 シーツを払いのけてシャツをまくりあげる。胸の大穴は完璧に塞がっていた。

 どれだけ確認しても実感が沸かず耶依はシャツを元に戻してシーツをかけ直す。

 脇から垂れた手を両手で包み込む。あの温かさは冷め切って痛いくらいだ。

 フリーは懇意の野良猫たちを連れて【人体怪盗】と【フルメタル】を追跡している。同時に善之助の心に問いかけ続けていた。息遣い分遅れて彼女の声が頭に届く。

『大丈夫よ耶依。善之助は生きている。ちょっと眠っているだけ』

「嘘。だって目を覚まさないもん。心の声だって聞こえていないんでしょ」

『それは……そうよ』

 心苦しそうな呟きだった。フリーは共有能力を使って善之助の意識にアクセスしていたが靄がかかっていて近づいても迷わされて追い返される。

 憑喪の異能を妨げるのは同じく異能しかありえない。フリーは薄々気づいていた。

 変身能力の後遺症で昏睡状態にあるのだと。耶依も馬鹿じゃない。知っていた。

「全部、私のせいね」

 そうだと罵って欲しかったがフリーは黙ってしまった。これでは気が楽にならない。

 耶依は泣き腫らして赤くなった目元を擦りながら心の声の送受信を遮断した。

 懺悔を聞くのは善之助ひとりでいい。猫も上司も神父だっていらない。

 彼の手を胸に押し当てた。自分の鼓動が彼の鼓動を突き動かすことを願って。

「ごめんなさい、善之助。私は酷い女でしょう? あなたを利用していた」

 覚悟はしていた。復讐のために武器を犠牲にする可能性を忘れたわけではない。

 失っても耐えられるように距離を開けて接していた。ろくでもない人間ばかりを用意してもらった。この喪失感は、自業自得だ。

「あいつを殺すのが私の目的だった。憑喪神を倒すのも、他の憑喪を捕まえるのも、ライセンスを昇格させて、あいつに近づく情報を得るため。正義なんて私は持っていない」

 悪が許せない気持ちは復讐心。断じて正義ではないと耶依は決めつけている。

 殺意も本物だ。けれどどれだけ強がったところで、鍛えたところで、心はわずか十六歳の少女。本当なら勉強に遊びに、恋に忙しい年頃だ。

 兄の仇だからと簡単に人は殺せない。その甘さが善之助を傷つけ、失敗を招いた。

 貫けない意志は容易く綻び能力の制御を失わせた。ポケットのストップウォッチが重い。

「……本当は、羨ましかったのかもしれない。あなたの真っ直ぐさが。誰のためでもある正義感が。私は……ヒーローを求めていた。兄の仇を討ってくれる正義の味方。私を救ってくれるヒーロー。だから、あなたに……惹かれて、いたのかもね」

 認めずにはいられない。そうしないと彼に謝れなかった。

 善之助は自分を認めてくれた二人目の男だ。戦うためにトレーニングすることを馬鹿にしないし、笑いもしない。俺に任せて黙ってみていろなんて絶対に言わなかった。

 一緒に戦おうとしてくれた。救いの手をずっと、差し伸ばしてくれていたのに。

「ごめんなさい……ごめんなさい」

 涙が零れた。滝のように流しても涸れることはないだろう。

 才悟の忠告に従って初めから素直に協力を求めていれば違ったのだろうか。

 泣きながら耶依は笑った。復讐の手助けをヒーローがするはずがない。

 でも彼は見捨てもしなかったはずだ。どこかで彼の正義を信じていたから文句を言いながら離れられなかった。もしも善之助が目を覚ますなら笑って許してくれるに違いない。

 だから耶依は離れる決心ができた。もう誰かを巻き込むのは止めだ。

 復讐心は少しも薄れていない。憎悪は昂り続けている。殺意の刃は研ぎ澄ましてある。

 正義の傍に悪は必要ないのだ。やるならひとりでやればいい。そう、最初から。

「ありがとう善之助。でもこれでお別れ。私はひとりでもやる。やらないと……自分がなくなっちゃうよ。復讐に、頑張ってきたから」

 離した手が凍えないようにシーツの下に入れてあげた。彼の寝息が聞こえる。

 覗きこんでみると中々良い顔をしていることに気づいた。兄のような美形ではないが愛嬌があって母性をくすぐる。頬を軽く撫でて耶依は別れを告げた。

「さようなら、ヒーロー」

 勝ち目がなくても立ち向かうことが破れかけた皮を取り繕う唯一の手段。

 もしも。もしも、ヒーローが――いや、正部善之助がそれでも手を差し伸べてくれたら。

 今度はきっと素直に手を握り返すだろう。そして助けて欲しいと懇願する。

 最初で最後の望みは彼女の欠片を通じて眠ったままのヒーローに届いた。


☆ ☆ ☆


「ええ、聞こえたわ。さようならっていう、私の声がね」

 勝ち誇ったようにせせら笑う耶依の輪郭が滲み始めていた。

 さようならの真意は別れじゃない。傷つけたくないという優しさの想い。

 彼女に躊躇う心が一欠片もなかったなら、自分は悪に堕ちていた。

 そして自分を取り戻せず憑喪神として暴虐の限りを尽したに違いない。

 善之助は白い視界に溶け始めている耶依の残滓に告げた。

「僕が必ず助ける。もう悪には屈しない」

「頑固だなあ。僕は」

 耶依は再び善之助になった。彼が浮かべることのない皮肉な笑みを湛えている。

 いつまでも寝ているわけにはいかないという意志が光となって昇った。照らし出された白し視界は眩しく、悪が存在することを許さない。

 神化しかけたもう一人の自分が黒い粒子になって昇華していく。

 善之助は自分に手を出した。約束を結ぶ握手をしようと。

「約束するよ。耶依さんを守ってみせる」

「……嘘は吐くな。僕なら分かっているよね」

 白い手と黒い手がお互いを結び、混じり合い、一つになって自分を取り戻した。

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