第二章――アマチュア・ヒーロー――

耶依による過酷な訓練に慣れてきた頃、唐突に善之助のデビュー戦が訪れた。

 筋肉痛に引き攣る足で学校から秘密基地に向かおうという時にフリーから連絡が入る。

 連絡のオンオフの切り替えも学習して独り言を聞かれないで済むようになっていた。

『憑喪神が出現したわ。耶依も向かっているからあなたも急いで。場所は――』

「すぐ行く!」

 不謹慎ながら善之助は訓練からの解放と実戦に胸を躍らせた。

 放り投げかけた鞄を掴みなおして走り出す。全力疾走の彼を唖然とした同級生が無言で見送った。

 幸いにもフリーが案内してくれた場所は秘密基地の近くで迷わずに済んだ。

 目的地は市内のあちこちに放置された自転車が集まる市営の保管所。

 近づくにつれて避難してきた市民や興味本位で近づく野次馬が増えていく。人垣を掻き分けて飛び出すと、お馴染みの黄色いテープと警察官、それに耶依が立っていた。

 一目で苛立っているのが分かった。指先で組んだ腕を、爪先で道路を叩いている。

「遅い!!」

「ごめんなさいっ」

 これでも最速で来たのだが善之助は人命が関わっていることを思い出して頭を下げた。

 自分の遅れで被害者が出たりしたらヒーロー失格。その点耶依は真っ先に現場に駆けつけている。効果音つきで先輩の株がレベルアップした。

 単に獲物を横取りされたくないだけの耶依は善之助をテープの内側に引っ張っていく。

 止めに入った警察官に革張りのケースに入った“ライセンス・丙”を突き出す。

「廿楽事務所の勝瀬耶依です。私たちが憑喪神を処理します」

 若い警察官はライセンスを受け取って専用の機器で表面のコードを読み取る。

 “丙”は認可を受けた憑喪全てに与えられる共通のライセンス。社会的地位保持のため、政府の保護を受けるために認可を求めるものも多い。このライセンスを使って“憑喪・憑喪神”に対応する者は、同時に専用の登録もする必要があった。

 機器が登録を認める電子音を鳴らして警察官は渋々頷き、テープを持ち上げる。

「確認できました。こちらの方は?」

「あなたも出しなさい。愛さんから貰っているでしょ」

「うん、ちゃんと持っているよ」

 善之助の扱いは“憑喪の備品”であった。耶依が戦うための道具として認められている。

 才悟が届けを出して発行した書類には政府の捺印があった。確認した警察官が右手を眉の辺りに当てて敬礼する。未成年相手でも二人は正式な“戦力”だった。

 それでも若手の自分よりも幼い少年少女に危険な役目を任せることへの反発が無表情に表れている。

「近隣住民の避難は完了しています。ご武運を」

「ありがとうございます」

 警察官の父を持つ善之助は目の前の若き警察官の苦悩が痛いほど読み取れた。

 市民を守るべき職務にありながら、危険な役目を市民に押しつける。

 憑喪対策特別措置法に否定的な警察官は多く、父もその一人だった。善之助は心が疼くのを感じながら父から教わった敬礼を返す。

「何してるの、早くっ!」

 さっさと歩いていってしまった耶依の怒声に引っ張られて善之助も先を急いだ。

 ギギギ、ギギッ、ギギギィ、ギギ――。

 保管所に接近するほどに錆びた鉄が噛み合う不愉快な金属音が響く。

 背筋を震わせ鳥肌を立てる奇怪な音は鳴き声のように続いた。最悪の事態を考慮して広い範囲を封鎖しているために保管所まで少し歩く。

「うっわぁ……大きいなぁ」

「これは、厄介そうね」

 角を曲がると広々とした敷地を這う巨大な蛇を見つける。

 腹が一面車輪になっていて地面を擦って動くたびに赤錆が零れ落ちた。鱗の代わりにサドルが皮膚を形成し、幾重にもチェーンが重なって肉となっている。点滅する両眼はライトで出来ていた。大口に並ぶ歪曲した車輪の牙が咥えた数台の自転車をまとめて砕く。

 棄てられ、忘れられ、ぞんざいに扱われてきた自転車の集合体が蛇と化していた。

 全身のチェーンが擦れ合い車輪が回って耳障りな鳴き声を全身で発する。

 耳を塞いだ善之助と対照的に耶依は平然と多機能型携帯端末(スタイリッシュフォン)をかざしてぱしゃりとシャッターを切った。

「なぜ写真を?」

「私たちが倒したって証拠にするため。邪魔者が来る前に片付けましょう」

 ライセンスの昇格には実績が伴う。狩りを行う憑喪も少なくはない。

 耶依は格好の獲物を横取りされたくない一心で危うくスタートボタンを押すところだった。善之助が手を取って止めなければ“ダサい”ヒーローに変わっていただろう。

「耶依さんってばそれじゃあ駄目でしょ!」

「……分かったから放しなさい」

「あっごめんなさい」

 感情がまず動く善之助は女の子の手を握ったことで赤面して俯いた。

 初心過ぎて怒る気力が萎えた耶依は溜息混じりにストップウォッチを構える。

「準備いいわね。しくじらないでよ」

「任せてよ。悪は、必ず倒すっ」

 言い切って善之助は右手を腰に引いて力を溜めた。一瞬の合図を待ち。そして。

「絶対正義ッ」「ユウシャイン!」

 ちぐはぐな二人の声が重なり閃光が住宅街を引き裂いていく。

 一心不乱に自転車を咀嚼していた【自転蛇】もさすがに気づいて鎌首をもたげた。

 太く長い身体を起こしたことで改めて巨大さを痛感する。空に向かって伸びている分だけでも5メートル以上あるだろう。

 一週間の訓練で善之助は己の能力を把握、耶依は制限時間を引き上げることに成功した。

 ストップウォッチに表示された数字は3:45。彼の性能ならお釣りが来る。

「さっさと片付けて」

「了解ッ。いくぞ、化け物め!」

 【ユウシャイン】が吼えてアスファルトの道路を蹴りつけた。足元が爆ぜる。

 一歩で距離を半分に縮め、次の一歩で足跡を穿ちながら【自転蛇】の頭上に跳び上がった。彼の速度に追いつけないライトの眼光が空中を彷徨う。

「はあっ」

 気迫を込めて繰り出した拳が残骸で造られた顎を容易く粉砕した。

 捻じ切れたシャーシが、割れた車輪が、絡み合うチェーンが四散する。痛覚があるのか巨体を身悶えさせて全身で鳴く。身を捻りながら着地し、すぐに飛び退いた。

 大きく開かれた壊れかけの顎が覆いかぶさってくる。難なく避けられたがそれは攻撃ではなかった。まだ残っている自転車を幾台も一飲みにして瞬時に傷を塞ぐ。生え変わった車輪の牙を高速回転させ【自転蛇】の巨躯が迫り来る。

 自立可動する腹の車輪によって想像以上の速度で突っ込んできた。

 【ユウシャイン】の性能を持ってすれば動きを追うことに無理はない。吹き上がる火花のひとつずつを見分けることも可能だ。余裕を持って跳び、走り、追撃から逃れる。

「馬鹿っ、周りを見なさい!」

 耶依の叱責に【ユウシャイン】が踏みとどまった。背後に仕切りのフェンスがある。

 当然フェンスの向こう側には道路があり家屋がある。避難は済んでいるというので住人はいないだろうが帰るべき家を失えば、どうなるか。

「うぉぉぉぉぉっ!」

 彼は吼えた。両足を大地に打ち込んで楔とし両手を大きく広げ車輪の牙を受け止める。

 見かけは錆びて脆そうな牙だが折れることなく回転速度を増して白銀の装甲を削りとっていく。劈くような高音を響かせ牙と装甲がせめぎ合い、焦げ臭い匂いが漂う。

 体格差は圧倒的。車輪による勢いと巨体の迫力に【ユウシャイン】の踵が引きずられた。

 背中にフェンスが触れる。これ以上先に押し込まれるわけにはいかない。

 一週間の訓練で散々耶依に叩き込まれた。憑喪の戦闘によって生じた被害はある程度政府が負担する。だが憑喪の力量不足と判断さればとばっちりを受ける、と。

 彼女のお説教も恐ろしいが何よりヒーローの初陣として相応しくない。

 人命を守るのは当然。彼らが帰るべき家を守るのもまた、必然。

「んぅぅうううぁぁぁぁぁっ!!」

「ギギギギギィッ」

 手甲の性能に任せて無理やり回転ごと牙を掴み上顎と下顎を引き剥がした。

 絶叫があがり、【自転蛇】の口が真横に裂ける。続けて手を離して喉を思い切り蹴り上げた。そのまま仰け反った巨体を真正面から殴り飛ばす。保管所の中央まで転がった【自転蛇】に巻き込まれて自転車たちが潰された。痙攣しながら動きが止まる。

 間一髪を脱した【ユウシャイン】は悠然とした足取りで瀕死の憑喪神に歩み寄った。

 ここまで壊せばもう自転車を取り込むことも出来ない。そんな油断に不意を突かれる。

「なあっ!?」

 彼は頭のどこかで“これ”が“蛇”だと思い込んでいた。

 まさか蛇の皮膚からチェーンが触手のように伸びて絡みつくと予想もすまい。輝かしく光る白銀の装甲が締めつけられる。痛みよりも赤錆の汚れが気になった。

 力任せに両腕を振り回して千切っても次から次にチェーンが伸びて捕縛されてしまう。

「情けないヒーローね。手間がかかる」

 保管所の外から様子を窺っていた耶依は人選の誤りを再度確認した。

 何度も忠告しておいたのだが彼はヒーローだから聞いていなかったらしい。憑喪神は形を持っていても存在に囚われていない。いかような行動もありうるものだ。

 いいように持ち上げられては叩きつけられ、振り回されては叩きつけられている。

 その間に一回り小さくなった頭が引き裂かれた部分から生まれ出た。

 チェーンを束ねた舌が地面を這いながら自転車を、残骸を飲み込む。耶依は【自転蛇】の行動を観察し、答えに行き着いた。

 弄ばれている無様なヒーローに思考を送りつける。

『いつまで遊んでいるつもり? もう残り一分半なんだけど』

『でも、こいつ、何度、千切っても、千切ってもぅぅぁあああっ~……』

『この蛇の“本体”は胴体の中心にある。そこを潰さない限りいくらでも他の自転車を取り込んで再生するでしょうね』

『どうして分かるの!?』

『自転車ひとつひとつが憑喪神なら自ら集まって合体すればいい。一々蛇のように捕食するのは、核以外は取り込まなければ利用できないからでしょう。能力の性質を見極めることが大事だと教えたはずだけど』

『ごごごごめんなさぁーい』

 相変わらず【ユウシャイン】はチェーンを切っては捕まりを繰り返していた。

 埒が明かないので耶依は無謀にも単身【自転蛇】に近づいていく。脳内で喚く善之助の声を締め出して手近にあった自転車を持ち上げて投げつけた。

 何度か繰り返しているうちに【自転蛇】の注意が耶依に向けられる。ライトが眩しい。

 再生して巨大化した牙を剥き出しに全身を震わせて威嚇する。

 瞬間、【ユウシャイン】を締めつけていたチェーンの力が緩んで隙間が生まれた。

『今よ。胴体の中心を貫きなさい!』

 自身を囮にした耶依の度胸と勇気、冷静な判断力に善之助の中の彼女が神格化される。

 チェーンを手刀で両断。サドルの皮膚に着地して胴の中心まで駆け上がった。足元から生えるチェーンを右に左に避けていく。今こそ、必殺技を放つ時。

「シャィィィィィンッブゥレィカァァァァァッ――!」

 説明しよう! 【シャインブレイカー】とは!

 全身の闘気を右の手甲に集中、爆発的な加速に乗せて放つ一撃粉砕の拳だ!

 滑らかな背中がシャッターの如くスライドして噴出口が露になる。ただただ真っ直ぐ、馬鹿正直なストレートを撃ちだすのに合わせて背中から膨大な空気が吐き出された。

 ボッと大気が爆ぜて全身が加速する。白銀の弾丸が白い尾を引いて疾しる。

 突き出した拳が【自転蛇】の胴体を叩き折り、粉砕し、撃ち貫いた。

 勢いは死なず叩きつけられた衝撃波に地面が戦慄き陥没する。

「ギィィィッ……」

 絶命の鳴き声を全身で奏でた巨躯がクレーターの底に倒れた。大穴と亀裂の走った地面がシャインブレイカーの壮絶さを物語っている。しばらく保管所は閉鎖になるだろう。

 【自転蛇】の肉体は制御を失って別々の残骸に分裂して死に絶えた。

 【ユウシャイン】が立ち上がったのを確認して耶依がストップボタンを押し込む。

 残り時間23秒。性能からすればもっと早く処理できただろうが及第点である。

 善之助は核となっていた子供用自転車の残骸を掬い上げた。片方だけ無事だったライトが二度、三度と光って、消える。形のない涙だった。

 憑喪神は人間の業によって生まれ出てしまうことを忘れないように彼は祈った。

「撤収よ! ぐずぐずしていると警察やマスコミが来る。私たちは事務所に帰って報告書の提出。ほら、急ぎなさい!」

 余韻に浸る間もなく善之助は駆け足で遠のいていく耶依の背中を追いかけた。

 自分ひとりでは到底こうも上手くいかなかった。負けない確信はあるが周辺の被害は増えていておかしくない。冷たく装っているが彼女の胸に秘める正義を彼は感じていた。

 それが勘違いであると知るのはまだ先のことである。


☆ ☆ ☆


『私は今手が離せないから悪いけど二人で歩いて帰ってきてね』

「そんな!」

『ごめんなさい。それじゃ』

「ちょちょっと、愛さんっ」

 帰り道、耶依は愛に迎えを頼んだが冷たく断られてしまっていた。ここから事務所は駅を挟んで反対側になってしまう。戦闘の緊張感で疲労した体にはいささか遠い。

 何より善之助と一緒に歩くのが嫌だった。彼は少し離れてついてきている。

 変身は著しく体力を使い、傷は残らなくても痛みや疲労は蓄積する。初めての実戦を経験したあとは歩くのも億劫なはずだ。

 息を切らしながら追いついてきた善之助を八つ当たりで睨みつける。

「聞こえていたでしょう?」

「ええ、ああ、その、はい」

「だから頑張って歩いて事務所まで来なさい。遅くならないでよ」

 言い捨てて足を速めた。角を曲がって立ち止まり、こっそり目線を出してみる。

 善之助は途方に暮れて立ち止まっていた。秘密基地からならばまだ事務所まで行けただろうが、戦闘現場から遠ざかるために耶依にくっついて来たから居場所が分からない。

 気が遠くなる疲れもあって頭も回らなかった。ぼんたりと泳ぐ雲を見上げてみる。

 道のど真ん中で凍りついている姿をしばらく見てから耶依は髪を掻き毟った。

 角から飛び出して腰に手を当てながらだらしない下僕を見下す。

「私についていきなさい。案内してあげる」

「へ? 耶依さんが?」

「嫌なら置き去りにするけど」

「今行きます!」

 思いがけない優しい言葉に善之助の元気が回復した。鉛を仕込まれたように重たく気だるい足を振り上げて、早歩きで行く耶依についていく。

 彼女としても彼が迷子になって事務所に来れないと困ったことになる。

 二人で報告書を書き上げて提出しなければ帰りが遅くなるからだ。

 回り回って自分に被害が出るのならここは甘んじて子守役を引き受けよう。冷たくなりきれない歯痒さに苛立ちながら、耶依は時折振り返って善之助の姿を探した。

 二人は夕方の商店街の裏を歩いていた。中央駅から程近く夜になれば賑わう歓楽街。

 空が塗り変わっていく時間帯で人目が少ない。誰に見られることもないだろうと配慮した結果が仇となった。人目がない場所には得てしてろくでもない連中がたむろしている。

 開店前の居酒屋の前にしゃがみこんで煙草を吸っている高校生が四人。

 ブレザーの校章とズボンの色合いが、後ろを子犬のようについていくる少年と同じだ。

 耶依は関わるまいと道の端を歩いて視線を前に固定する。だが無駄な努力だった。

「君たち、九十九第三高校の生徒だよね」

「ああん何だよチビ」

 卑しい笑い声が連鎖する。無視したいところだが耶依は諦めて振り返った。

 善之助は根っから正義感に染まっている。許せないのは強大な悪に限らず、小さな不正も見逃せない。特に考慮できる理由がない場合は。

 頭ひとつ大きい背に取り囲まれていても善之助は全く動じない。

 蚊帳の外に居た、唯一煙草を吹かしていない男が彼の顔を見て目を丸くする。

 善之助も視線に気づいた。周囲を無視して微笑みかける。顔見知りだった。

「やあ君崎くん。久しぶり。もう煙草は吸ってないよね?」

「あ、ああ、もちろんだ。ほら、な」

 君崎と呼ばれた男は薄く髪を染め上げている他は普通の高校生だ。無実を証明するように両手をあげてみせる。小柄な少年に下手に出る君崎を仲間たちが嘲笑う。

「何こんなチビにビビってんだよ。だっせえな」

「なあおい、あいつ見ろよ。可愛くね?」

「あ? おおマジだ。いいな、おい、アレお前の女か? なわけねえか。ははっ」

「こいつにはもったいねえな。俺らが貰ってやるか」

 ぎゃははははは。耳障りな笑い声を重ねて嫌らしい眼で露な太ももを嘗め回す。

 今すぐ駆け寄って殴り倒したい衝動に駆られたが必要がなく、耶依は黙って見ていた。

 先に善之助が動いてしまったからだ。不良の手首を捻りあげて煙草を摘み上げる。

「喫煙は成人になってからだ。それに彼女には手を出させないよ」

「いってえなてめえっ調子のんじゃ――」

 痩せ細った頬を紅潮させて不良が空いた手で殴りかかる。無駄だと耶依には分かった。

 善之助は捻った手を離しつつがむしゃらな拳を払い、同時に足を狩った。転んだ勢いに乗せて宙に浮いた手首を取って外側に反らして投げる。

 不良Aは呆気なくコンクリートに叩き伏せられた。痛みに歯茎が剥き出しになっている。

「なあもうやめろって! 俺らが悪かったから、な? お前らも煙草消せって!」

 以前、君崎は校内の隅っこで隠れて煙草を吸っていた。その時に“見回り”をしていた善之助に見つかって窘められ、彼らと同じく反論して投げ倒された覚えがある。

 だから止めようとしたのだが仲間たちは漏れなく頭に血が上りやすい。不良の性だ。

「ぶっ殺してやる!」

「殺しは良くないよ」

 暴言をすれ違い様に注意しながら善之助は後ろに回りこみ横から来た拳を屈んで避ける。

 飛び上がりながら肩を掴み、不良Bの右足を刈り取って真後ろに倒す。柔道の大外刈だ。

「ざけんなっ」

 制服を着ていなければ簡単に投げられなかっただろう。不良Cは正面から組みつこうとして懐に潜り込まれる。小柄な彼には造作もないことだった。

 襟を両手で掴み一気に引き寄せて体勢を崩し、己の腰を深く落とす。

 右肘を相手の左肘に差込んで体を跳ね上げる。流れるような一本背負いに耶依は見惚れていた。放物線を描いた不良が受身もできず背中から落ちる。あれは痛い。

 感心していたせいで不良Aが近づいていることに気づくのが遅れた。

「おいチビ! それ以上やるってんならこの女を――」

 耶依は“女”だからと扱われるのが嫌いだった。女は弱い、守るべきものだと格好つけて言っておきながら、いざという時我先に逃げ出す“下僕”たちを思い出す。

 無造作に伸びてきた手を強かに打ち払う。

 予期せぬ反抗に不良Aはさらに怒りを増して唾と汚い言葉を撒き散らした。

 助けに入ろうとした善之助の足が止まる。酷使した肉体が命令に逆らっていた。

 想像よりも変身の負荷が大きい。正直不良を投げ飛ばしながら自分も倒れそうだった。

「耶依さんっ!」

 巻き込んでしまったという後悔は、数秒で払拭される。

 耶依は容赦なく股間に爪先を刺す。次に蹲って下がった顎を拳で突き上げた。

 二重の苦しみにふらつく不良Aを蹴り飛ばして終了。不運な不良は陸に打ち上げられた魚よろしく全身で跳ねている。下手をすれば機能不全だ。

 一部始終を見届けていた君崎は仲間が落とした吸殻の火を消しポケットに突っ込む。

「もういいだろ!? こいつらには俺がよーく言っておくから。な?」

「君崎くんを信じる。じゃあまたね」

 もう会いたくねえという呟きを唾ごと飲み込んで君崎は遠ざかる二人を見つめた。

 後に『あいつはなんなんだ!』と問い詰められて彼はこう返す。

 『正義の味方らしいぜ』


「あんた馬鹿? 動くのもやっとなくせに一々不良なんかに突っかかって。信じられない」

「巻き込んでごめんなさい。でも見逃せないから。君崎くんはわかってくれたし」

「いっつもあんなことやってるの? まさかね」

「もちろん! 学校では見回りをしていて見つけたら注意してるんだ。これもヒーローになるための努力だよ。小さな悪事から戦っていこうと思ってさ」

 耶依は珍しく自分から善之助に声をかけて話を聞いていた。そして心底呆れる。

 これならばまだ口ばっかり“ヒーロー”を語っていてくれたほうが扱いやすかった。実際に行動してまう馬鹿ほど危うい存在はいない。彼の手綱はきっと千切れている。

 善之助が自分の目的を知ったらと思っただけで疲れが倍増した。

 興味をもたれたことが嬉しくて善之助は一生懸命耶依についていきながら舌を回す。

 頭ごなしに見下せないのは耶依にも思い当たる節があったからだ。

 一通り、彼の“武勇伝”を聞き終えてから耶依は口を開く。

「放っておけばいいじゃない。どうせたいしたことやってないでしょ」

「駄目だよっ。小さい悪はいつか大きな悪に変貌するものだから。ああいう人たちが憑喪になったら必ず間違いを起こす。小さいうちに悪を摘み取っておくほうがいいんだ!」

 力説する善之助は自分の正義に酔っている馬鹿な少年だった。疑念も躊躇いも感じずに信念に殉じている。それゆえに素直で言葉に裏表もない。

 彼が言うことにも一理あった。憑喪神にしても小さな怨念や感情が積み重なっていって変貌することが多い。過ちが起きる前に使い古した道具に感謝し、処分をすれば今日のような自転車の怪物が生まれることもなかった。

 理屈ではなく本能で善之助は知っていた。正義と悪の見分け方を。

 もっともそれは多くの人にとって鬱陶しく煩わしい。正義が常に正しくはない。

 耶依は自分の下僕が彼である皮肉さに苦笑いを浮かべた。

「あなたは事情のある悪がいた場合、どうする?」

「事情のある……悪」

「そう。肉親を殺された、大切な物を奪われた、ろくでもない世界を改革したい、悪に見えても自分の思いや正義を持っていることだってある。違う?」

 耶依の鋭い問いかけに善之助は足を止めた。俯いて己の正義に問いかける。

 自分の好きな作品でもそういう悪は多く存在した。復讐、平和への犠牲、殺すことが、奪うことが全て悪なら正義もまた悪になる。葛藤はヒーローの持病のようなものだ。

 返事がないことに耶依は安堵した。所詮は正義ごっこ、身構える必要はない。

 立ち止まったままの彼を残してさっさと歩いていく。

 善之助は今見つけ出せる答えを繰り返し反芻して納得するまで考えつめた。

 そして正義を確信する。顔をあげたときに耶依は点になっていた。慌てて走っていて彼女の肩を掴んで振り返させた。息が続かず、言葉が出ない。

「何」

「……僕が、止めるよ」

「はあ?」

「事情があるなら一緒に悩み、戦う。本当の悪にならないように、僕が、止める」

 青臭さに吐き気がした。何も知らないから偉そうなことが言える。耶依は善之助の手を振り払った。指先で肩を突き瞳の奥を覗き込むように深く睨む。

「軽々しく言うな。あなたの正義ごっこは迷惑なだけ」

「それでも僕は止めてみせる。憑喪も、憑喪神も、ヒーローとして!」

 揺るぎない決意が見返してくる。本能的に頼もしさを感じて耶依は身を退いた。

 変身能力がなければ善之助は普通の人間だ。一人では何も出来ないちっぽけな存在。でも彼は生身でも憑喪神に立ち向かった。複数の不良にも物怖じせず向かっていける。

 少なくとも自分自身が“ヒーロー”であることを善之助は疑っていない。

 出なければいくらでも馬鹿にして、見下して、あしらえるはずだった。

 耶依は無駄を承知で皮肉を投げつけた。彼は当然の如く褒め言葉として受け止める。

「せいぜい頑張ることね、【ユウシャイン】」

「うん! それで相談なんだけど……師匠って呼んでもいいかな?」

「……は?」

 善之助の言動はいつも斜め上を行っていた。耶依は理解できずに首を傾げる。

 先ほどの戦いで善之助は耶依から学ぶべきことの多さを知った。可愛らしい少女でありながら不良相手にも動じず、あっという間に叩き伏せるだけの実力もある。

 これから多くの敵と戦っていくためにも彼女に師事することが絶対だと確信した。

 力が抜けている耶依の両手を取って握り締める。彼女の頬が朱に染まったことは目に入っていない。手から伝わる熱い温もりも、己の熱血に取り込んでしまう。

「僕はまだまだ未熟だって分かったんだ。耶依さんは冷静で的確な判断を下せる。経験も豊富だし、知識もある。身体能力も高い。だから色々と教えて欲しいんだ。お願いします!」

 これまで耶依の下僕たちとは違う。それは分かっていたが彼の異質さは格別だ。

 だいたいの男は俺が守るだの、君は下がっていろだの偉そうに命令しておいて実戦を経験すると怖がって逃げ出す。あてにも頼りにもならなから気軽に使い捨てられた。

 こうも熱心に取り組み、自分を認めてくれたのは善之助が初めて。

 不意に兄の俊星を思い出した。いつも努力を怠らずひたむきで真っ直ぐで諦めない。

 自分のことを一番理解してくれて頭をなでて褒めてくれる兄の面影が重なる。

 耶依は捻じ切れそうなくらい首を振り回した。兄と善之助を一緒にしたくない。

 面構えも背格好も全て兄のほうが勝っている。似ている要素があるはずがないと怒りさえ覚えた。なのにどうしてか、耶依は最後に首を縦に振った。

「いいわよ。厳しく叩き込むから覚悟しなさい」

「ほんと!? やったぁー、ありがとうございます師匠っ」

「それはやめて。恥ずかしい。報告書を作ったらすぐ勉強だからね」

「えっ……そのぉ、今日は……」

「情けない奴に興味ないよ」

「は、はいっ」

 すぐに顔を背けられたから善之助は耶依のわずかな笑みを見逃してしまった。


☆ ☆ ☆


 全面ガラス張りのエレベーターに夜空の光が差し込む。

 耶依は寄りかかりながら真ん丸のお月様を見つめた。自宅に帰る間は本当の自分に戻れる。乙女じみた空想が綻んだ心から零れ出した。

 自分はあの月と同じ。存在していも照らしてくれる“誰か”がいなければ輝けない。

 彼は――あの憎たらしい正部善之助は、燦然と座する太陽だ。

 良くも悪くも曲がらない芯の通った自分を持っていて、暑苦しいくらいに輝いている。

 彼の熱を帯びた光が傍にあるからこそ、月の自分の真価が発揮されるのだ。

 一人ぼっちでは戦うことも、守ることもできない。存在しているだけの自分。

 だからこそ求めてしまう。熱い光を、暖かな光を、照らしてくれる誰かを。

 ガラスに映った顔が微笑んでいた。エレベーターが最上階に着いて静かに止まる。

 ドアが左右にスライドするのに合わせて耶依は首を振った。

 自分にとっての太陽は善之助ではない。何を血迷った考えを巡らせている。

 弱気な心にできた綻びを無理やりに結んで塞ぎ幅広の廊下に出た。

 ここは九十九中央公園の傍に建つ六十階建ての超高層マンション。第二の都心とスローガンを打ち出し、お金持ちを誘致した結果できたものだった。この一画に勝瀬家がある。

 三ツ星ホテルに比類する艶やかな赤絨毯の敷かれた廊下に整列する多種の観葉植物。

 壁に飾られた名画はどれも本物、一級品でちょっとした美術館よりも質に優れている。

 角部屋のドアのロックを指紋認証で外して玄関のスロープを上がった。

「ただいまぁ」

 重厚な木目のドアを開けると真っ先に九十九市の夜景が飛び込んでくる。壁の一面が嵌めこみガラスになっていて外界を気の済むまで見下ろせた。

「お兄ちゃん?」

 車椅子に座って夜景を眺めていたらしい兄、俊星(しゅんせい)が首を回した。

 妹の目から見ても兄は一言“カッコイイ”と言えば事足りる。シャープな顎の線が端整な顔立ちを際立たせていて、豊かな眉と明るめの瞳が柔和な印象を与えた。

 上背があるから座っていても長身であることが分かる。上半身の筋肉は引き締まっていて未だに衰えを知らない。車椅子の車輪を回す手は力強く慣れていた。

「お帰り、耶依。今日は遅かったな」

「うん。ちょっと仕事が長引いちゃってさ。ごめんね?」

 卓上のテーブルに視線を走らせる。デジタル表示がちょうど十時に切り替わった。

 せがむ善之助の根気に負けてあれこれ教え込んでいたら遅くなってしまった。何より大切な兄を蔑ろにしてしまった自分を許せない。あの善之助のためだと思うと憎さ倍増だ。

 俊星は器用に車椅子を手繰って落ち込み俯く妹の腰を叩いた。

「謝るなよ。それより飯にしよう。俺、腹減ってるんだ」

 彼の手が動いた拍子に腰にかけていた毛布が滑り落ちた。嫌でも過去を視てしまう。

 俊星の腰から下はあの“人体怪盗”に盗まれていた。腰と脚の境界線が淡い光に包まれていて切断面を見ることはない。

 他の被害者も同様な症状だと聞かされていた。これこそ憑喪の犯行の証明になる。

 実際には“ない”のに被害者には一様に“ある”という感覚が残っていた。

 俊星もないのにある奇妙な違和感に最初は慣れず荒れ果てていた。この“光”が人目を惹くせいでろくに外出もできない。耶依はすぐに毛布を拾い上げてかけ直した。

 奪われた脚の残滓を目にするたび俊星の表情は冷え切った氷よりも寒々しく色を失う。

「何食べたい? 私張り切って作るよ!」

「いや、いい。ピザを取ろう。最近ハマってんだ」

 俊星は空っぽの笑いと交換にスタホを胸ポケットから取り出した。

 台所にピザの空箱が積み重なっているのは知っている。昼にでも食べたのだろう。

 うん、と小さく呟きながら耶依は冷蔵庫を開けた。作り置きの料理には手がついてない。

 事件に遭う前の俊星は将来を有望視されていたスプリンターだった。日本人ながら恵まれた体格と体質、飽くなき努力で世界を視野に捉えたスターの卵。

 ベストを尽すべく栄養管理に厳しく、兄のために耶依は遊ぶ暇も惜しんで料理を覚えた。

 最良のマネージャーとして献身的に尽す日々は充実していて笑顔に溢れていたのに。

 “両脚”を奪われてから兄は一変してしまった。

 将来の夢を、才能を、一夜にして根こそぎ奪われて俊星は失意のどん底に落ちた。

 自暴自棄になって抑圧されていた願望を解き放った。手当たり次第にジャンクフードを食べ漁り、お菓子を貪り、酒を浴びるほど飲む。起床時間もまばらになっている。

 変わってしまっても耶依は兄が大好きだった。ずっと面倒を看てくれた兄のことが。

 ちゃんと自分を褒めてくれる兄が、優しく頭を撫でてくれる兄が、大好き。

 好きだから兄の自由にさせてあげたかった。少しでも気が楽になるならいくらでも。

 今の耶依の日常は幸せを盗んだ“人体怪盗”に復讐すること。そうすれば兄の気持ちも晴れて、優しくてカッコイイ兄に戻ってくれるはずだ。そう信じて戦っている。

 俊星の車椅子は特注の高性能機で座椅子の高さを上下に調整することができた。

 テーブルの高さに合わせているので二人は普通に座っているようにお互いを見られた。

 俊星がテレビのスイッチを入れてニュースチャンネルに合わせる。

 彼は決まった時間にニュースを見ていた。“人体怪盗”の続報が無いかを知るために。

 無言の間が怖くて、悲しくて、耶依は意味もなくスタホの画面に視線を落とした。

 メールをする友達も、お喋りをする彼氏も、仕事一筋の両親も連絡帳に乗っていない。

 全てを終えるまで兄の傍にいる。兄のために独りでいる。彼女は心から兄を慕っていた。

「バイトは順調なのか?」

「えっ。う、うーん、うまくやっているよ」

 ニュースが終わって見るべきものがないと知ると俊星は急に話題を切り出した。

 妹が言葉を濁しながら視線を逸らすのを見て彼は薄く笑う。腕の力を使って上半身をテーブルに載りあがらせて囁くように言った。

「男でもできたか」

「ちょっやめてよお兄ちゃん! そんなやついるわけないじゃんっ」

「おやおやぁ顔が赤くなってるぞ? 図星みたいだな」

「違うってば。もう、意地悪しないで!」

 両手で空気をかき回しながら慌てふためく妹を見る俊星の瞳が鋭く光る。

 兄の傍にずっと妹がいたように、妹の傍に兄はずっといた。少しの仕草でも心が視える。

「お前は昔っから隠し事があると目を見ないよな。いつもお兄ちゃんお兄ちゃんいって甘えてくるのに、悩んでいるときは逆に離れようとする。俺にはお見通しだぞ」

 すらりと伸びた指におでこを弾かれた。何気ないやり取りが、幸せだった日々に自分を連れ戻してくれる。耶依は嬉しいのか、恥ずかしいのか、もっと顔を赤らめた。

 確かに兄に隠し事はできない。話せることは話したほうが“気づかれなくて”いい。

 大好きな人を騙すことの罪悪感に疼く胸を抑えながら耶依は兄に打ち明けた。

 まるで恋心に苦しんでいるように、俊星の目に映っていることに気づきもせず。

「バイト先にさ、新しい男の子が入ったんだけどね、その子が変わってるの」

「なんだやっぱ恋の悩みか。大人になったな、耶依」

「からかうなら話してあげないよ、べっー」

 俊星も妹の外見が優れていることを認めている。事あるごとに男の影をちらつかせてからかい反応を見て楽しんでいた。

 わざとらしく舌を出す妹に両手を合わせて頭を下げた。これも兄妹の儀礼のうち。

「ごめんごめん。ちゃんと聞く。怒らないでくれよ」

「次はないからね! ……その子ってさすごく子供っぽいの。僕は正義の味方なんだって言っててね。この前、煙草を吸ってた不良に自分から声をかけにいったんだよ? おかしいでしょ。なんだかつきまとってくるし、どうやって接すればいいのか分からない」

「確かに面倒くさそうな奴だ。正義正義っていうやつは大抵ろくでもないからな」

 明るく暖かだった声が暗く寒く落ちる。俊星の瞳は耶依ではなくスポーツの話題で盛り上がっているテレビ画面に向けられていた。横顔に陰鬱な影が差す。

 “人体怪盗”を野放しにしている“正義”を兄が憎んでいることを耶依は忘れていた。

 話してしまったことを後悔しても遅い。うな垂れていると兄が優しく慰めてくれる。

「悪い悪い。つい、な。ま、嫌ならいつもみたいにあしらってやれよ」

 俊星は笑いながら右手の拳を宙に突き上げた。

 可愛い妹は男との面倒事を切らしたことがない。相談を受けるたびに俊星は撃退法を教えてきた。冷たくしろ、馬鹿にしろ、一発くれてやれ。

 耶依も兄の教えに従ってろくでなしどもを追い払ってきた。特に、最近は。

 でも善之助には無意味だ。彼は暴言も暴力も、前向きな意味に受け取ってしまう。

「駄目なんだ、それじゃ。あいつ――彼は気持ち悪いくらい前向きだから。突き放しても、気遣ってくれている、なんて思い込むような奴。ほんと、鬱陶しい」

 鬱陶しい。なのにこうして兄に相談したり、エレベーターで思いを馳せた。

 喋れば喋るほど楔のように打ち込まれた“善之助”という存在を意識してしまう。

 力ずくで抜けない呪われた正義の杭を兄に抜いて欲しい。その一心で上目遣いで窺っていると俊星の顔が歪んだ。頬が醜く吊り上り瞳は雲泥に落ちたように濁る。

「なら期待を裏切ってやれ。そいつが思い描く理想の“お前”を、お前自身がぶっ壊せ」

「……どういうこと?」

「なあ耶依。お前は俺のこと、どう思っている?」

 思わぬ方向に話が転がっていき耶依は戸惑った。兄の目が真っ直ぐこちらに向いている。

 寒気を感じながら彼女は答えた。幼い頃から抱き続けている理想の兄を。

「お兄ちゃんはかっこよくて勉強も運動もできて優しい。いつも私のことを見ていてくれて褒めてくれるし、叱ってもくれる。私はお兄ちゃんが、大好き」

「もしも俺がその正反対、何一つできない無能で優しいどころかお前に暴力を振るうような兄だったら、大好きでいられるか?」

「それは……私はっ」

「無理するな。普通は嫌いになる。人っていうのは勝手に理想の“他人”を思い描いて、それを相手に押しつけている。だから“理想”と違っていると気づいた瞬間、嫌いになっちまう。自分勝手に裏切られた気になるんだよ」

 俊星は耶依に背中を向けて九十九市の夜景を見下した。

 脚を奪われた時点で、周囲の理想の“勝瀬俊星”は死んだ。だからみんな離れていった。

 素肌を重ねたあの女も、共に練習に励んだあの男も、自慢の生徒だと胸を張っていたあの教師も、しつこく取材に来た記者も、ミーハーなファンも、どいつも、こいつも。

 次第に“人体怪盗”よりもそういった無情な連中を憎むようになっていた。

 無意識に握った拳を車椅子の肘パットに叩きつける。何度も何度も、繰り返し。

 激情に突き動かされている兄に耶依は言葉を失っていた。こんなに感情を剥きだしにする兄を見たのは、脚を奪われた直後以来。冷静で切れ者の兄が変貌していく。

 止めるために自分が決着をつけるしかない。もし、間に合わなければ兄は――。

「いやっ、私……いやだっ」

 本能で叫んでいた。愛する人が堕ちていく姿を黙ってみていられるほど大人じゃない。

 耶依は椅子を蹴倒しながら俊星の背中を抱きしめた。どこにもいかないでと言うように。

 頬に感じる妹の匂いが、湿り気が俊星の理性を呼び止めた。頭を優しく撫でつける。

「ごめんな耶依。こんなになっちまってさ」

「ううん。お兄ちゃんはお兄ちゃん。私はずっと大好きだよ。だから離さないもん」

「いでででっ、おま、いつのまにこんな力つけたんだ!?」

 久しぶりに感じる兄の暖かさに締めつけ過ぎたようだ。タップするように腕を叩いている。でも耶依は意地悪をしてさらに締めつけた。さっきのお返しだ。

「悪い男から自分の身を守るためだよ」

「いってぇってば。俺が悪かったから、な、ほら、ピザきたぞ!」

 空気の読めないチャイムによって兄妹の悪ふざけは中断されてしまった。

 耶依は濁った空気を入れ替えるためにドアを開けっ放しにしてリビングを出る。


☆ ☆ ☆


 放課後、廿楽事務所に通うのが善之助のささやかな楽しみであり日課になっていた。

 蛇の怪物以来憑喪神の出現もなく平和な訓練と勉強の日々が続いている。

 いつのまにか部活をしているかのような感覚になっていた。早めに着いてみんなと雑談するのがまた、部活みたいで気持ちがいい。

「こんにちわ!」

 貰った合鍵で事務所に入って元気よく挨拶。手を振り上げたまま硬直した。

 応接セットのソファに来客が座っている。対面には真面目な表情を崩さない才悟。斜め後ろに愛が控え、耶依は壁に寄りかかって見れば斬られそうな眼光を放っている。

 状況が飲み込めず立ち尽くしていると足元に擦り寄ってきたフリーが囁いた。

『依頼者よ。耶依の傍で静かにしていて』

「ちょうど良かったよ善之助くん。君だけ仲間外れにするのも悪いから紹介しよう」

 才悟が立ち上がって手招きをした。来客もつられて席を立つ。

 彼の言葉に滲み出ている嘘は気づかなかったことにして善之助は素直に従った。

「彼女は田村渚(たむらなぎさ)さん。憑喪に関する事件の解決を依頼しに来てくださった。この子は正部善之助くん。あちらにいる耶依くんのパートナーです」

「はじめまして。今回は、よろしくお願いします」

「はあ。どうも、よろしくです」

 訳が分からないまま善之助は渚と握手を交わした。彼女は才悟や愛と同じ二十歳か、少し上くらいだろう。黒縁の眼鏡の奥でくっきりとした瞳が、戸惑いも露に視線を泳がせている。才悟に促されて胸にかかった長い黒髪を背中に払いつつ座りなおす。

「あの人はどんな依頼を?」

「これから。あなたが来る前に終わらせたかったんだけど。今日早くない?」

「掃除当番が変わったんですよ」

「ついてないな」

 こういうときの耶依は素直だった。才悟が本当に仲間外れにする気がないのならフリーを介して通信を入れれば良い。もちろん通信はなく意図的に隠したことを証明していた。

 掃除当番が変更になって早く帰れた幸運の喜びを善之助は腰に隠した拳で表現する。

「では改めてお話を聞きましょう」

「はい。まずこれを見てください。知っていますか?」

 渚は手提げ鞄の中からスタホを取り出して指先で手早く操作した。

 あるウェブサイトを開いて才悟に手渡す。彼は軽く目を通して後ろの愛に引き継いだ。会話の最中に愛と善之助もそのサイトを確認する。

「もちろん。憑喪事件被害者の会。名称は様々ありますが政府や警察の対応に憤りを感じた人たちが、ネット上で同じく憑喪の被害にあった人とコンタクトを取るサイトですね。事件の情報の共有や対策を考えている。仕事柄目を通していますよ」

「私はある事件の被害者の代表としてここに来ました。この前ニュースを見たもので」

 一巡したスタホが渚の手に戻る。彼女が言うニュースのことは善之助も知っていた。

 この前倒した憑喪神のことが取り上げられたのだ。未成年の耶依や善之助の存在は放映されていない。しかし倒したのが“廿楽事務所”であることが大々的に宣伝されていた。

 才悟曰く、活躍を世に知らしめれば引っ込み思案な依頼者が出てくる。

 まさに思惑は的中し、頼る充てのない被害者が表に出てきたというわけだ。

「ありがとうございます。私たちが必ず力になりましょう。それでどのような被害に?」

「それが……その、言い難いのですけれど」

 渚はもじもじと指を絡ませながら俯いた。目だけを動かして才悟や善之助の顔を窺う。

 被害を表沙汰にしたくないのは何も憑喪が関与した事件に限らない。被害者感情を考慮して才悟は真面目な顔で頷き、彼女が自然と言い出すのを待った。

 決意を固めるのにかかったのはわずか数秒。顔をあげた渚の瞳が意志の強さに光った。

「下着を、盗まれたのです。それも、着ている服の上から」

 憑喪が関わっていると断言するだけの根拠がはっきりと示された。

 ついうっかり善之助と顔を見合わせてしまった耶依はすぐにそっぽを向く。彼は無視されたことも忘れて一歩前に出ていた。

 遮るように愛が割り込み才悟の好みでかけている伊達眼鏡の端をくいと持ち上げる。

「その事件の内容なら覚えています。サイトの掲示板に最初の書き込みがあったのは半年前。警察に駆け込んだのに相手にされず憤慨した女性のコメントでしたね。被害の共通点がいくつかあります。全員が“服の上”から下着を盗まれていること。触られた感覚もないと言われていますね。次に下着の色。白や薄い青、ピンクといった物ばかり。被害にあった時間も学校や仕事の帰宅時間に集中している。ですよね?」

「あなたも被害に遭ったのですか……?」

 愛の口からよどみなく語られる詳細に目を丸くしながら渚が問いかけた。

 それに答えたのは才悟だった。満足そうに頬を緩めて首を横に振る。

「彼女は記憶力が非常に優れていて一度見たことは忘れられないのですよ。有能な秘書として憑喪が関与している事件の調査をしてもらっているのです。だから覚えている、と」

 これに身内の善之助も阿呆みたいに口を半開きにしていた。

 それなりに会話をする機会もあったが彼女の能力を教えてもらったことはない。つまらなさそうに爪先を眺めている耶依に近寄って裾を摘んだ。

「愛さんも憑」

「違う。そういう能力のある人って他にもいるから。瞬間記憶能力ってやつ」

 愛の微笑みに渚の緊張と不安が解されたのが傍目でも分かった。優れた能力を持っていることを披露されたことで、頼ってもいいという気持ちが生まれる。

 才悟の意図した展開に気づいているのは愛くらいのものだろう。

 まんまと術中に落ちた渚は堰を切ったように話し出す。

「彼女の言う通りです。付け加えると繰り返し被害に遭っている方もいます。私も、もう三回も盗まれました。多分、帰り道を知られているのだと思います」

 気に入った女性には何度も手を出す。見知らぬ犯人の卑猥な笑みが脳裏を過ぎった。

 これから諸々の交渉が始まるという手前で善之助が鼻息荒く前に出た。

 渚の白く滑らかな手を取って胸の前で力強く握る。そして真顔で言う。

「任せてください、渚さん。僕が、いいえ僕らがその姑息な悪党を退治してみせます!」

「は、はあ」

「憑喪として目覚めておきながら下着を盗むことに使うなんて、絶対に許せません。安心してください。ぼ――」

 才悟もこの展開が見えていたから善之助に声をかけず、来る前の時間に依頼主を呼んだ。

 予期せぬことで間に合った結果、想像通りになって苦笑を浮かべる。合図を待たずに耶依が後ろから首を絞めて壁際まで善之助を引っ張っていった。どんどん顔が青褪める。

「彼の言う通り、私たちが解決してみせましょう。つきましては契約内容についてですが」

「はい。私たちのほうでも検討してこちらにお任せすることにしていました。あまり多くはお支払いできませんが準備はしてあります」

「料金ついてはお気になさらずに。代わりにひとつ頼まれてもらえないでしょうか?」

「頼み、ですか」

 廿楽事務所は金儲けのために開いたわけではない。間違っても正義の為でもない。

 才悟と愛は国内で唯一憑喪を専門に取り扱う九十九中央大学の憑喪を専攻する学生だった。この事務所は研究の一環であり、余興であり。金銭は必要最低限で足りている。

「もがががががもがもが!」『悪に怯える人からお金を取るなんてとんでもない!』

『ごめんなさいね、善之助』

 耶依に口を封じられているものだから善之助はテレパシーで全員に語りかけた。

 そんな行動も想定の範囲内。フリーは指示された通りに彼の声を遮断する。聞こえているのは選択権のある彼女だけだ。

 相手の興味を掻きたてるだけの間を置いて才悟は契約書を差し出した。

「無事に依頼が終わったらテレビのインタビューを受けて欲しいのですよ」

「私が、インタビューに?」

「そう。あなた方被害者はみな政府や警察の対応に不満をお持ちでしょう? それをネットではなく、世間にぶつけてみたいとは思いませんか」

「確かにそういう方もいらっしゃいますけど、でも、なぜ?」

 多くの憑喪と、憑喪神と関わるために事務所の地位を向上しなければならない。

 才悟の目的はその一点に絞られていた。再び不信感を抱いた渚の心を溶かすためにとっておきの笑顔という仮面を被る。数多の女を抱きこんだ魔性の武器だ。

「警察や政府の対応を批判すると共に、私たち廿楽事務所の力で助けられたと言って欲しいのですよ。一言で言えば宣伝をお願いしたい。インタビューのセッティングはこちらでしましょう。あなたはお美しいから画面栄えもしますよ」

「そんな、私なんか、全然」

 満更でもない様子で照れながら長い髪を指で梳く。才悟もお世辞ではなく彼女の容姿を褒めていた。トドメを刺すべく依頼料を提示する。

「引き受けていただければ料金はこれで結構です。どうでしょう?」

「……本当にいいのですか?」

 彼が弾いた電卓が示すのはたった三万円だ。これは破格の安さといっていい。

 渚が代表者として念のためにインターネットで相場を調べたときは、酷ければこれの十倍は取るところがあった。それも個人が多く、到底信じられない。

 この事務所も小さく、同年代か年下しか社員がいない点に不安が残る。

 それでもテレビのニュースが名を上げるくらいだ。個人よりは信頼が置けた。

 巧みに転がされていることにも気づかないうちに渚は契約書にサインをしていた。

 才悟は最高の笑みで彼女の手を取り励ますように肩を撫でる。

「任せてください。必ず下着泥棒は捕まえます」

 契約が終わる瞬間まで善之助は両手を振り回し両足をばたつかせていた。なんとか声を絞り出すが耶依の手は容赦なく口全体を、時折鼻まで押さえて殺しにかかってくる。

 本気を出せば彼女が鍛えていても振り解くことはできる。大人しく捕まりつつ主張をやめないのは善之助の無意識の気遣いだ。

 渚が丁寧なお辞儀をして事務所を出て行くまで彼が解放されることはなかった。


☆ ☆ ☆


 依頼者を見送ったあとで四人と一匹は三階の研修室に移った。

 愛が定位置についてプロジェクターの準備を進めている。才悟は椅子をひとつ持って彼女の隣に座り、最前列真ん中の席で不貞腐れている善之助を眺めていた。

 おやつを取り上げられた子供のように空気を含んで頬を膨らませている。

「何がそんなに不満なわけ?」

 これからの話を真剣に聞くために耶依は最前列の端の席に腰を落ち着けた。

 缶ジュースを飲みながら頑なに黙っている善之助に問いかけてみたが彼は微動にしない。

「私も気になるね。自分の意見があるならはっきりと言いたまえ。我が事務所は風通りの良さを自負している。意見は歓迎するよ」

 足を組み替えながら才悟は片手をあげて準備を終えた愛を制す。

 善之助を無視して依頼を達成するための話し合いをしてもいいが、手元にある戦力は実質彼のみ。機嫌を損ねたまま使ってしくじれば知名度を上げるまえに失墜してしまう。

 自分が話すまで重苦しい沈黙が圧しかかると気づいて善之助は息を吐いた。

「彼女は……彼女たちは悪い憑喪の欲望の被害者なんですよね」

「ああそうだ。女性にとって下着を盗まれることは、男には想像できない苦痛だろう」

 とぼけて愛と耶依にウィンクを弾いてみるが二人は息を合わせて睨みつけた。共通の敵、それが特に男の場合女子の結束力は強くなる。

 冗談を冗談と受け取れない善之助は憤慨を机に叩きつけて立ち上がった。

「だったらお金もお願いもいらないじゃないですかっ。今すぐ、無償で助けましょう!」

「善之助くん。最初に話したはずだ。私たちは慈善家じゃない」

「いいえ違います。皆さんにも正義を愛する心があるでしょう!? でなきゃ私財を投げ打って危険なことをして人助けをするはずがない」

 善之助の思考回路は極端で単純だった。

 莫大な費用がかかる秘密基地を私的に所持し、腕の立つ憑喪を雇い、憑喪神あれば駆けつけて退治し、悪の憑喪あれば善良な市民のために力を貸す。

 口で否定しても奥底に正義の炎が燃えていなければできることじゃない。

 そう信じて疑っていない。仮初の正論をぶつけられても揺るぐことがなかった。

 才悟は聞き分けのない子供をあやそうと声音を柔らかく、静かにする。

「正義の心があってもなくても同じだ。いいかい。これは仕事だ。警察官が、消防士が、自衛隊が、給料を貰って人助けするのと同じことだよ。それとも彼らも否定するのかい? 人を助けるのにお金を貰っているなんて正義のすることじゃない、と」

「正義は見返りを求めません。彼らは被害者から報酬を得ているわけじゃないっ」

 感情に任せた反撃は予想外に才悟の虚を衝いた。彼はふむと顎に手を添えて考える。

 その間も善之助は熱弁を奮う。正義とは、悪とは、まるで世界に自分だけがいるように、耶依のことも愛のことも見ず、高らかに語りかけていた。

「――……だから彼女たちから見返りを貰うことはありませんっ」

「君の言い分にも一理ある」

「やっぱりわかってくれたんですね!」

「才悟さん!?」

 認められた善之助の目が煌き、迎合したことの驚きに今度は耶依が立ち上がる。

 青臭い正義に良い様に扱われたくないと声をあげようとして言葉が喉に詰まった。

「確かに彼らは被害者に直接見返りを求めていない。だが給料を得て仕事をしていることに変わりもないし、代わりに払っている人たちがいる。ならば君も、被害者が直接支払わなくても報酬が得られる仕組みを考えたまえ。それが可能なら喜んでそうしよう」

「なら僕の給料で支払います!」

「その給料は依頼料から払われるんだよ。そうそう、君では宣伝効果を期待できないから依頼料は三十万ってとこかな。お小遣いで払えるなら君が支払っても構わないよ?」

「さ、三十万……」

 ざっと計算してみたがするまでもなく答えを知っている。フィギュアを集めるのにお年玉もお小遣いも使っていて、さらに最近大金を支払ったばかりだ。貯金は残り少ない。

 二の句が継げないのを見て才悟は満足して頷いた。耶依も同調して座った。

「無理なら今回はいつも通りにやろう。考えついたらいつでも言ってくれ」

「待ってください! お金は、その、どうにかします!」

 力強く突き出した拳を才悟が受け止める。離さず、そのまま、鼻先を近づけた。

 吐息が混じる距離で見る才悟の瞳には感情の起伏がなかった。途端に善之助は底なしの穴を覗き込んでいるような気分がして腰をひく。このままだと吸い込まれる。

 腕力も握力も善之助に分があるはずなのに才悟は彼をその場に引き止めた。

「善之助くん。君は本当にくだらない、最低の人間だね」

「えぇっ、あの、才――」

「よく聞け。お前はこれが仕事だと説明を受けた上で契約を結んだ。今のお前は約束を破ってわがままを通そうとするガキだ。私はチャンスを与えただろう。別の手段があるのなら変えてやろうと。なのにお前はできないという。代替案もなくわがままを言うのか?」

 平坦で無機質な声が淡々と現実を夢見がちな少年にぶつけていく。

 耶依も才悟の態度に驚いていたが黙って見届けた。見る見るうちに生気を失い、閉口しながら震える姿は教師に叱られる少年のそれで、どこまでも頼りない。

「お前が自分の主義主張を貫くなら行動で示せ。私を納得させられないのなら辞めろ。勝手に正義ごっこで憑喪と戦えばいい。悪と戦い破れて死ぬなら本望だろう? 無駄な時間を使っている間にも被害者が増えているかもしれない。お前のわがままが悪をのさばらせる。私たちにとっても無益だ。今すぐに選べ」

 目と目が合う。それなのに才悟はどこも見ていない。善之助は怖くてしかたがなかった。

 幼さも甘さも自覚していた。分かっていても変わらない正義の確信を彼は簡単に揺るがしてくる。感情をぶつけられたのなら善之助は動じなかっただろう。

 ただ事実だけを述べる才悟には返す言葉がなかった。一つ一つが棘だらけで胸を刺す。

「お前は耶依くんがいなければヒーローになれない、馬鹿な子供だ。自分の正義を見せるなら決断しろ。仕事として誰かを救うか、正義ごっこで誰も救えないか、選ぶ権利はやる。どうする“ヒーロー”?」

「僕は……」

 息の詰まった善之助に耶依は諦めた。所詮は彼もただの下僕の一人だったと。

 自分の心に忍び込んできた一途さは穢れ、純粋さに影が被る。

 弱気なヒーローは見ていられない。目を伏せようとして逆に見開いた。

 善之助の両手が才悟の肩を掴み返したのだ。恐怖から逃げないで瞳を直視する。

 感情がないなら己の情熱を流し込んでやればいい。善之助はどこまでも前向きなのだ。

「僕は、戦います。一人じゃ無力かもしれないけど、一人でも、戦います」

 まるで辞めると宣言しているようだった。丸まっていたフリーが体を伸ばして起きる。

 善之助は才悟から離れると地面に膝をついて額を叩きつけた。ごんと鈍い音が鳴る。

「すいませんでしたっ! ここで働かせてください。“ヒーロー”になりたいんです!」

 一人でも戦う決意はあった。いつか決別の時が来ても一人の人間として正義を全うする。

 だが敵は、悪は強大だ。自分を曲げることで対等に渡り合えるなら我が身を省みない自己犠牲もまた、“ヒーロー”の心得のひとつ。

 少しでも多くの人を救うために善之助は犬になることを決めた。

 命令には背かない。悪でない限り。伝わったのか才悟は笑みを浮かべて彼を立たせた。

「大げさだなあ。君には期待しているんだ。改めてよろしく」

「はいっ」

 仮初の握手を交わして二人は席に戻った。内心安堵している自分に気づかず耶依は端の席から一つ奥に詰めた。スクリーンがよく見えるように。

「何も悪事に加担させようっていうわけじゃない。依頼の選別はしっかりとするよ」

「もしもそうなったら僕は、あなたと戦います」

 相変わらず冗談にも真顔で返すものだから愛は小さく吹き出した。

 微笑ましくもあるようで彼を除いて笑みが連鎖する。耶依が横から彼の頭を叩いた。

「あなたのせいで無駄な時間を使ったんだから、その分働きなさい」

「もちろん!」

「それじゃあ作戦について話そうか。愛くん、よろしく」

「かしこまりました。では今回の依頼について整理しましょう」

 スクリーンに九十九市の地図が拡大表示された。九十九中央駅を中心に円が描かれている。愛がパソコンを操作すると赤い点があちらこちらに散らばった。

「事前にサイトの情報を整理し統合した結果がこれよ。犯人は駅より少し離れたところで犯行を繰り返している。どれも大通りではなく裏道や路地ね。さらに共通しているのが」

 次は点の上に日付と時間が表示された。夕方の五時から夜の八時の間が九割を占める。また最初の犯行から三日置きに犯行に及んでいるようだった。

 愛は依頼者から渡された被害者の情報もつけ加えた。被害者が同一人物の点の色が個別に変わる。それらは同じ通りに集中していた。

「犯人は捕まると考えていないのでしょうね。こんなにも足跡が明確に残されている。警察も本気になればこれくらい簡単に見つけられるでしょうに」

 口ぶりほどには批判の色合いは濃くなかった。呆れているといった感じが出ている。

 善之助は一転集中して話を聞いている。まずはこの悪を成敗することだ。

「また被害者にも共通点があるのよ。みんな肩よりも髪が長いこと、ロングスカートを履いていたこと。犯人の趣味でしょう。下着の色はさっき話したから覚えていわね?」

「ほんと最低の屑ね。見つけたら……許さない」

「うん、許せない。僕らの正義を見せてやりましょう!」

 憑喪の被害者の気持ちを耶依は嫌と言うほど理解してた。彼女らに代わって復讐を果たす。そのつもりで呟いた言葉をどうしたら正義と理解できるのか分からない。

 触れ合った手からやる気が伝わってくる。不意に兄の言葉が思い出された。

 “期待を裏切ってやればいい”。耶依はあえて微笑み頷いてみせる。

「ええ、頑張りましょう、善之助」

「はいっ……ん?」

 百八十度違う耶依の態度に違和感を覚えたものの愛の説明に意識が引き戻された。

「今回は犯人を誘き出します。幸いにも前の犯行から今日で三日目。次の獲物を探してうろついているでしょう。特に犯行の多い通りを好みの格好で歩けばすぐ出てくるはず」

「囮作戦ですね、燃えるなぁっ。で、誰が?」

 耶依は悪寒に背中を撫でられて反射的に背筋を伸ばした。

 才悟が見ている。邪悪な笑みを浮かべながら。

「耶依くん、今日の下着の色は?」

「ばっ、馬鹿ぁっ! セクハラで訴えますよ才悟さんっ」

「ふむ。愛くんは?」

「もう俊星さんったら……黒のレースです」

「おおそれはいい。私好みだ」

 さりげなく愛が彼の名前を呼んだことに気づける者はいなかった。

 耶依は卑しい視線から己を守るようにスカートの裾を引っ張り、善之助は会話を聞いただけで茹蛸になっている。こっちのほうでも彼は冗談が通じない。

「冗談はさておき、だ。相手が憑喪であることを考えると囮を務められるのは耶依くんしかいない。準備はこちらでする。急いで着替えてもらって出発だ。善之助くんは彼女を守るために近場で待機。フリーが周囲を見張って連絡を入れる。いいね?」

 良いも悪いも反論が許されないことくらい善之助でさえ学習済みだ。

 ここで憑喪を捕らえることが出来ればライセンスの昇格も近い。丙から乙になれば政府から情報を引き出せる。少しずつ前に歩み、いつか必ずあいつを殺す。

 照れている場合ではなかった。耶依は強気に胸を張りながら立ち上がった。

「いいですよ。準備お願いします」

「私がお化粧してあげる。ふふ、楽しみ」

「……愛さん、遊びじゃないんですよ」

「もちろん。お仕事よ、お仕事」

「僕が耶依さんを変態から守ってみせます。安心してくださいっ」

 善之助は両手を突き上げながら背中を伸ばした。気合を入れたのはいいが女性陣の冷たい眼差しに気勢を殺がれる。

 才悟は何を言われるか分かった上でにやにやしながら足を組み直していた。

「あなたも変態でしょ! 着替えるんだから出てけ! 才悟さんもです」

「おや残念。しょうがない、行こうか。善之助くんには事務所で地図を覚えてもらおう」

「わ、分かりました。行きましょう」

 今にも椅子が飛んできそうなので二人は足早に研修室を出て行った。


☆ ☆ ☆


 久しぶりの女の子らしい服装に耶依はむず痒くなっていた。

 市内を駆け回って憑喪神を狩る日々に合わせていつも動きやすい制服を着ている。ミニスカートの下はスパッツなので激しく動いても問題がない。

 膝丈より長いスカートを履くのはいつぶりだろうかと思い返してみる。

 初めてつけるかつらに早くも旋毛が痒い。長い髪は視線を遮って実に目障りだ。

 変態を釣り上げるために下着は上下共に白。もっともこれはいつも通りだったが。

 現行犯で捕まえるために盗ませる必要がある。わざわざ自分の下着を渡したくはないのでこれも愛が用意してくれたものだ。新品でも履いてしまえば……気分が悪くなる。

『耶依、緊張しすぎ。歩き方がぎこちないわよ』

「分かってる。慣れてないの、これ」

 どこかの死角から監視しているフリーが姉のような口ぶりで窘めてきた。

 耶依は背筋を伸ばし肩から提げた鞄を脇に抱えた。特殊警棒とスタンガンが入っている。建前は護身用だが積極的に憑喪と渡り合うための装備だ。

 だいたいの帰宅時刻になってから五分ほど犯行現場となりやすい裏道を歩いている。

 談笑しながら通り過ぎる女子高生たち。お疲れ気味のOL。みんな被害者の卵だ。

 まだ見ぬ犯人を思い描いて込み上げてきた怒りに紐を引き千切りそうになる。

 渚が勤めているバイト先から駅に向かうルートの半ばを過ぎた頃、フリーが言った。

『不審な男があなたを尾行している。振り返っちゃ駄目』

「釣れたわね。いつでも来なさい、クソ野郎」

 およそ清楚に装った外見に相応しくない暴言を溝に吐き捨てて歩調を早めてみる。

 相手が犯人なら獲物を逃がすまいと動くはずだ。彼女の予想は、的中する。

『男が横道に入った。先回りするつもりね。二つ目の角、来るわ』

『無茶しないでくださいよ、耶依さん』

「あなたに言われたくない」

 近場に身を潜めている善之助の心の声はわずかに上ずっていた。今度の悪は怪物ではなく生の人間。緊張するのも当然だ。彼女も手に汗を掻き、喉を鳴らしている。

 隙を見せるためにスタホを取り出して適当に画面をめくった。

 一つ目の角を過ぎ、二つ目の角が近づく。私は周りを見ていません、そう誇張する。

『動いた。黒いパーカーの小太り。注意して』

 神経を研ぎ澄ませた。何気なくあげた視線が横をすり抜ける小太りの男を見つける。

 交差して数歩は何も変化がなかった。気のせいか、と落胆するよりは早く胸元がやけに軽くて涼しいことに気づく。ブラジャーが盗まれていた。見事一本釣りに成功。

『男が逃げる、耶依!』

「任せなさい!」

 耶依は邪魔なかつらを脱ぎ捨てながら振り返り、軽やかなスタートを切った。

 角を曲がろうと急ぐ男に追いついてパーカーのポケットに突っ込んでいる腕を取る。

 猫が爪を立てるように細く強靭な指を食い込ませた。小太りの男が呻く。

「なななんっ、なんだ、き、きみ!」

「盗んだものを返しなさい。小汚い下着泥棒。あなたはここで終わりよ」

「は、はへ、へへぁ、な、何を言って――」

 脂ぎった顔に埋まりかけている小さな瞳が動揺のしすぎて四方八方に転がり回る。

 耶依は問答無用で男の手をポケットから引き出した。買ったばかりの白いブラジャーが垢だらけの手でくしゃくしゃにされている。もう言い逃れはできまい。

 小太りな体型を活かして耶依を突き飛ばそうとするが彼女は見かけ通りではなかった。

 スカートの裾を払いながら踵で男の足を狩って仰向けに押し倒す。

 迫り出した腹に馬乗りになって鞄から抜いた特殊警棒を首に突きつけた。

「ぐぐぐるじいよぉ。や、やめでぐ」

「あなたが女性たちに与えた苦痛に比べれば可愛いもんでしょ?」

 耶依の怒りが嗜虐性に変わった。能力を悪用する憑喪は、誰であれ許さない。

 憎き仇の影が重なって警棒を喉に押し込む手に力がこもる。

 これぐらいでは足りない。男が盗んだ下着で“した”ことを思えば――死んで当然だ。

『やめなさい、耶依っ』

「ふぅふぅ、ふふ、ふひっ、あへへへ」

 喘ぎながら笑う顔が憎たらしくて耶依は警棒で頬を殴りつけた。歯磨きを怠っていたのか脆くも折れた歯の欠片を吐き出す。なぜだか余計に嬉しそうだ。

「何がおかしいわけ?」

「あはっはぁ……おん、女の子が、ぼぼぼくに乗ってる、ぐふふぃっ。も、もっと! もっと殴ってっ。いいよ、殴ってよぉ、へひひ、き気持ちいいんだ」

 狂っている。耶依は望み通りに額を割るつもりで警棒をもう一度叩きつけた。

「えっ……」

 鈍い音がして“警棒”の先端が歪んだ。硬質な感触を確かめるようまた一打。

 不愉快な笑い声をあげる男を何度も、何度も、何度も、殴った。その度に警棒がひしゃげて最後に尖端が折れた。腹の下で大人しくしていた男が耶依の手を掴る。

「ぼ、ぼくは捕まえられないよ」

「触るな!」

 耶依は男の胸を押しつけながら飛び退き、渾身の一撃を男の“弱点”に叩き込む。

 相手がまともな人間であれば再起不能になっただろう。だが相手は憑喪だった。

 男の屹立した“モノ”は警棒よりも硬く、逆に圧し折られてしまう。使い物にならなくなった警棒を左手に持ち替えて軽く踏み込んだ。

 ゆっくりと立ち上がった男の顎先を狙って拳を打ち込む。鈍痛に顔をしかめた。

「ふひひ、今の僕はねえ、とってえも、硬いんだよぉ?」

 耶依は皮が破れて血が滲んでいる手を見た。鉄を殴ったような感触が残っている。

 それが能力の一部であるのは明白なのに今の彼女は冷静さを失っていた。

 間近でついさっきまで身に着けていたブラの“内側”を分厚い舌で嘗め回されれば、誰だって平常心を失う。彼女の場合、代わりに沸きあがるのは恐怖ではなく憤怒だった。

「はあはあっはあっうっ……こ、こういうの興奮するなあ。う、うぅ、き、ぎもぢいいっ」

『逃げなさい耶依っ。すぐ善之助が行く!』

 耶依はフリーの警告を無視して男の変異を注視する。

 男がブラジャーを眼鏡のように自分の目に重ねると盛り上がった肉がそれを取り込んだ。丸々としていた腕や足の肉が衣服と混ざり合いながら肥大化していく。

「うぅ、ぐぅぐえええ、はあ、はあ――あ、あづぅいなあ、あへ、へあぁ」

「……これが、神化」

 人が神に化ける過程を見るのは初めてだった。

 男の背丈が3メートルを突破する。大量の血液が循環することで皮膚は色白から赤銅に変色し、太い血管がそこここに浮き出す。一歩踏み出すことに自重で地鳴りを起こした。

 皮膚から熱をもった臭気が沸き立ち、開きっぱなしの大口から白く濁った涎が流れる。

 男は“絶頂”に達したことで自身の能力の限界を越えてしまっていた。

 抑えきれぬ興奮と衝動が肉を加速度的に成長させて意識を鈍らせていく。

 目の前で怯えている少女を喰うことだけが研ぎ澄まされ、ぎこちなく笑った。

「ききききみはぁいまあ、な、なにもつ、つけてない。ち、ちいさな、おおおお、おぉぱぁい……はぁはぁ、はひぃ、い、いいよねえ!?」

「ふざけるな、化け物っ」

 近づいてくる男――【怒変態】に全力で警棒を投げつけたが胸板に当たって弾かれた。

「もっとぉもっとののしってよぉっ。まだあたりないよぉ。きみぃのぉぱんつ! ちょうだいよぉぅ、しろいのがぁぁぁ、いひぃぃぃぃひっ!」

 興奮すればするだけ肉は成長し、怒張して硬く突っ張る。

 がむしゃらに振り回した腕がブロック塀を粉砕した。耶依はスタンガンを手にしていたがあれに近づくのは勇気以上の覚悟を必要とする。そもそも電気が通るのかも怪しい。

 動きは鈍く、その気になれば逃げるのは簡単。でもこいつはここで始末する。

 耶依は脳内で喚くヒーローの声を頼りに角を曲がらずに過ぎて少しずつ後退していた。

 餌をちらつかされた【怒変態】はあへあへ言いながら彼女を追いかける。

 ちょうどT字の接点に巨漢が達したとき、ヒーローが叫びながら突っ込んできた。


「うおおおおおおおおおおっ!!」

 善之助は何千回と公園の樹相手に練習した渾身の跳び蹴りを放った。

 十分な加速、完璧な跳躍。繰り出した蹴りが【怒変態】の脇腹に抉りこむ――はずだったが鉄板を蹴っても弾かれるだけ。善之助は無様にも勢い余って転倒した。

 それでも意識を逸らすことはできた。見下ろしている顔は醜悪で恐ろしく汚い。

 全開になった毛穴から濁った汗が湧き出て白い滝になっていた。

「おどごぁぎらいだー!」

「うわっと」

 頭ほどの大きさもある鉄拳が持ち上がるのを見て善之助は慌てて走り出した。

 どごぉん。粉塵を散らしてアスファルトに亀裂が走る。生身で相手にできる類ではない。

 耶依の傍に下がった善之助は両腕を構えた。いつでも変身可能。

「耶依さんっ」

「あの変態クソ野郎をぶちのめしなさいっ」

 既に右手に握っていたストップウォッチを突き出して二人が吼える。

「絶対正義ッ」「ユウシャインッ!」

 戦いの儀式を刹那に終えて少年はヒーローに変わった。

 【怒変態】が地面からアスファルトの塊を掬い上げて無造作に投げつけてくる。

 避けるのは容易だが耶依がいる。【ユウシャイン】は飛び出しながら手刀で叩き割った。【怒変態】は野獣のように唸りながら次から次に塊を飛ばしてくる。

 敵の行動は単純でうすのろだ。次の弾を取ろうとする隙を衝いて正義が走る。

 夕暮れの光を浴びた白銀の装甲が煌いて空を切り裂く。

 懐に入り込んで分厚い胸板を殴り上げた。確かに硬いが彼の正義ほど硬くはない。

「おげえっ」

 手甲が鋼鉄の皮膚にめりこむ。マスクに白濁液がかかるのを恐れてすぐに飛び退いた。

 胸を掻き毟りながら蹲る巨体に追撃。ボクシングスタイルを取って両足で軽快なステップを刻みながら近づく。怒りに任せて振りぬいた腕を掻い潜り左、左、顎に右ストレート。

 骨が砕けて顎が外れた。馬鹿でかい頭がぐらついて白目を剥きながら地に落ちる。

 どれだけ重量が増していたのか倒れこんだ拍子に小さな地震が起きた。

 性能差が大きすぎた。【ユウシャイン】は余裕の勝利にVサインを作て耶依に見せる。

「正義は必――」

「どきなさい。私がトドメを刺す」

 いつのまにか折れた警棒を手に耶依が近づいてきていた。歪な眼光は鋭く危ない。

 彼女は折れて尖った先を逆手に持っている。いくら硬くなっても“目”ならどうか?

 耶依から発せられる殺気を感じ取って【ユウシャイン】がそっと手首を抑えた。

「駄目だ、耶依さん。やりすぎだよ」

「こんな奴、死んだっていい。いいえ、死ぬべき。欲望の肉塊、悪そのものでしょ」

「違う。悪は悪だ。けど、だからって殺していいってことにはならない」

『落ち着いて。善之助の言う通りよ。ライセンスは殺しを認めているわけじゃ――』

「こういう馬鹿が生きているから苦しむ人がいるのよ、分からないわけ!?」

「耶依さん……っ危ない」

 ここでこそ耶依は本性を表に出した。善之助が期待していた“正義の使徒”と正反対の人間であると見せつけ裏切る。彼女の激情は彼を戸惑わせたが、絶望させるには足りない。

 【ユウシャイン】は耶依を抱え上げて後ろに跳ぶ。強化された五感が敵の動きを感じた。

「ふぅふぅふぅふぅっ……やよ、やよりちゃんって、いうんだねえ。がわいいなあ、ぼぼぼく、きみがすぎになっだよぉ。ぱんつぅちょうだぁい」

 【怒変態】は両腕で重苦しい体をどうにか押し上げて両で踏ん張った。

 肉に食い込んだズボンから水色のパンツを取り出して口の中に放り込む。彼らは知らないが田中渚から盗んだ一枚で彼のお気に入りだった。

 下着が白濁液に揉まれて穢れていく背徳感に巨漢の全身がさらなる怒張を見せる。

 指の先から皮が捲れていき生々しい筋肉が剥き出しになる。一連の変化を見て【ユウシャイン】は不意に男の能力を察した。彼も少年とは言え男なのだ。

「こんな化け物を野放しにできるわけないでしょう。さあ、殺すのよ、善之助!」

「殺しちゃ駄目です! あと罵ったら――」

「ひあああっ!!」

 風が爆発した。【怒変態】が肩を丸めて突っ込んでくる。これでは砲弾だ。

 【ユウシャイン】は両手を広げて“イカ”臭い体を受け止める。踵をアスファルトに打ち込んだが一秒と耐えられず押し込まれた。一か八か頭突きを食らわせるが鐘の音色が響いて脳が揺さぶられる。もはや装甲よりも硬い。

 興奮すればするほど硬くなる分かりやすい能力に【ユウシャイン】は確信した。

「うぉおおおおおおおおっ!」

 全身が捻じ切れんばかりに力を振り絞って【怒変態】を持ち上げ後ろに叩きつけた。

 地盤沈下を引き起こして表面のアスファルトが弾け飛ぶ。超重量に腕が痺れた。

 これで少し時間が稼げる。【ユウシャイン】は脇に逃れていた耶依に近づいた。

「何やってるの、今なら――」

 また罵詈雑言を吐かれては敵を強化させてしまう。口を塞いで静かに教えを説く。

「ひとつ。憑喪、憑喪神と戦う場合は冷静に能力を見極めるべし」

「それは」

 善之助が耶依に師事してまず教えられたことだ。憑喪も憑喪神も外見や行動から能力を推察できる。敵を知れば有利に事を運べるの戦いの道理。

 自分の教えを突き返されて耶依は黙り込んだ。熱を帯びていた部分が冷めていく。

 相手は“人体怪盗”ではない。ここで我を忘れて何もかも失うのは馬鹿らしい。

 一番気に入らない相手に諭されて耶依は悔しさに唇を噛み締めたが認めはする。

「……そうね。私が熱くなりすぎていた。で、あなたは分かったの?」

「もちろん。いいですか耶依さん」

 得意気に胸を張りながら一呼吸置いた。劇的な演出効果が逆効果を及ぼす。

「男っていうのは興奮すると硬くなるんです!」

 彼が見抜いた通りに小太り男は“興奮するほど体が硬くなる”能力を持っていた。

 下着を盗み取った相手に馬乗りになって殴られるという新しい快楽に刺激されて暴走し、神化した結果が憑喪神【怒変態】。

 能力は理解できたがマスクの下で彼がふんぞり返っていることに苛立ちが増す。

「協力してください。耶依さんには囮になってもらいます。あいつが下着を盗むように興奮させるんです」

「はあ!? 絶対に嫌!!」

「大丈夫、僕がさせません。信じてください。残り時間は?」

「一分半」

「足りないな……合図があるまで解かないでください、頼みましたよ」

「ちょ、あなたっ」

「心配無用。僕はヒーローで、あなたの“下僕”ですからね!」

 彼には口を酸っぱくして制限時間を超過する恐ろしさを伝えておいたはずだ。

 だが正部善之助は、【ユウシャイン】は自己犠牲を厭わぬヒーロー。

 【怒変態】を止めるためなら喜んで我が身を差し出す。意固地な正義。

 耶依は失態を償うためと自分に言い聞かせて善之助の案に乗ることにした。

 どの道、生身の細腕であの怪物は張り倒せそうにない。

 【ユウシャイン】はようやっと起き上がった【怒変態】に飛びかかって“わざと”腕の直撃を受けて塀に叩きつけられた。最も強固な胸部装甲を歪ませるまでに成長している。

「おい変態クソ豚野郎ッ。あんたが欲しいのは私でしょ? 捕まえてみせなさいよ。そんな太ってるんじゃ一生かかっても無理だけどね。ほら、どうしたの、やってみせろ!」

 やけくそになって耶依はロングスカートを膝の上まで捲し上げた。

 引き締まった太ももに粘つく視線が絡む。怖気がしたがもっと見せつけてやった。風が煽れば下着が見えるくらいの限界で止めてひらひらと左右に振る。

「ぐふふふふふぅぅぅぅぅつ、ぱぁんつぅぅぅぅ」

 ひっかかった。【怒変態】が手を精一杯伸ばしながら転がるように近づいてくる。

 臭い、汚い、気持ち悪い。見ているのも不愉快ですぐに逃げ出したい。

 耶依は善之助に負けたくないと自分を強く持った。この醜悪な怪物を倒すために乗り越える。ここで負けるようではない“人体怪盗”を殺せない。

 一歩も退かなかったのは無意識に“ヒーロー”を信じていたからだと彼女は後に気づく。

 これまでの下僕の言葉と違う、真っ直ぐで正直な気持ちを頼ってみたかったのだと。

 眼前まで【怒変態】が迫る。体中から噴出す白濁液が歩くたびに飛び散った。

 直視できない。指かかかるかどうかの刹那、彼女は空を舞う。


 やられた振りをしていた【ユウシャイン】は背面の噴出孔を展開、加速した。

 崩れかけの塀を完全に破壊しながら一直線に飛んで二人の間に割り込む。

 咄嗟の出来事に対応できる迅速さを【怒変態】は持ち合わせていない。

 筋肉剥き出しの太い指が装甲に触れてトランクスの感覚が失せた。同時に耶依を抱いて空へ。体操選手の技の如く綺麗に回転しながら着地。10点満点。

「へへへへへえぱあんつ……ん? んんぅ、ごごれ、……う、うぅ、うわああああああああああああああああ!!」

 戦利品を鼻先に近づけて【怒変態】は狂乱に陥った。

 ヒーローの刺繍入りというおよそ高校生に相応しくないトランクスを目視して絶叫。

 全身から熱が抜けて靄に包まれた。盛り上がった鉄の肉が萎びて余った皮が垂れる。

「あなた、いい年してあんなの履いているの?」

「一番のお気に入りだよ」

 【ユウシャイン】は両手を腰にあって胸を張った。羞恥心など微塵もないと示す。

 耶依はうんざりしながらストップウォッチを見やる。残り時間がもうない。

 ストップに指をかけたがヒーローが首を横に振る。親指を立てて駆け出していった。

 喉がつぶれるほど叫んだ【怒変態】は柔らかくなるのと引き換えに理性を取り戻す。憎き男をぶち殺すために萎え続けていく腕を伸ばした。

「おばえええええええっ!」

 成されるがままに【ユウシャイン】は【怒変態】に捕まる。装甲を潰そうとする指は皮が元通りになり、つるつると表面で滑っていた。筋肉が皺を刻んだ皮になる様子が秒刻みで観察できる。小太りというよりも皮のコートを被った痩せっぽちになってしまった。

「今だ!」

 合図に遅れることなく耶依の指がストップを必要以上に押し込む。十秒の超過。

 【ユウシャイン】から善之助に戻りながら彼は引き絞った右腕を解き放った。

「シャィィィィンブゥレィカァッー!」

 生身版必殺技――つまりただの正拳突きを鳩尾に突き刺す。

 赤子のように柔らかい体をくの字に折って男が倒れる。能力を酷使した弊害もあって泡を吹きながら気絶していた。

「いいですか耶依さん。男っていうのは萎えると柔らかくなるんです!」

「馬鹿」

 駆け寄ってきた耶依のデコピンを額に受けただけで全身に激痛が走った。

 声を失った彼は目を見開いて耶依を凝視する。我が身に起こった事態を理解できていないようだ。耶依は溜息を吐きながら指先で軽く小突いた。悲鳴を飲み込みながら背筋を伸ばす。ささいな接触も変身時間を超過した彼には致命傷に近い。

「制限時間を超えた負担の大きさが理解できた?」

 気を抜いたら意識が飛ぶ。善之助は最小限の動作で首を振った。

 これで善之助は邪魔できない。耶依は手に隠していたスタンガンを素早く男の首筋にあてる。出力は最大だ。死ななくても流し続ければ障害のひとつくらい残せるだろう。

 スイッチに指をかけた腕が動かない。顔をあげると善之助の引き攣った頬が見える。

 触れただけでも全身が泣く痛みに堪えてまでなぜ止めるのか、彼女は理解ができない。

「駄目、ですよ、耶依さん。それじゃあ、こいつ、と、同じになり、ます」

「こいつはあなたの嫌いな悪よ。性欲のために女性を弄ぶクズ。死んでも誰も悲しまないし困らない。悪が減る。いいことじゃない」

「もう悪は倒れた。殺したら、耶依さんが悪になる。だから、僕は止めます」

 喋るのも辛いだろう。一言一句を噛み締めて吐き出し、声は震えている。

 腕を止める手にも力が入っていなかった。簡単に振り解ける。

 そもそもスイッチを押す邪魔になっていない。押せるのに押さないのは彼女の意志だ。

『もう十分でしょう。さあ二人とも帰ってきて。愛が迎えに行く』

 善之助と耶依は遠くから近づいてくるサイレンを聴きながら見つめ合った。

 照れて逸らすことはない。お互いの意見を心まで届かせるために絶対に退けない。

 勝ったのは頑固な善之助だった。先に目を伏せた耶依はスタンガンの電源を切った。

「今日はあなたのおかげで勝つことができたた。だから言うこと聞いてあげる」

「ありがとう、耶依さん。僕はあなたの正義を、信じています」

 耳の先まで赤くなった。期待を裏切るはずがこれでは期待通りに演じている。

 見られたくなくて善之助から距離を空ける。彼は悲鳴を一気飲みしながらしゃがみこんで何やら男の体を探っていた。

「やっぱり」

「……そういうこと」

 善之助がシャツを捲り上げると薄汚れたブラジャーが胸を締めつけていた。続いてズボンを脱がすと同じくらい汚れたパンツ。どちらも女性物だ。

 遠目から覗いていた耶依にも理解できた。あれがこの男の媒介なのだ。

 目が覚めて抵抗しないように善之助は下着を取り外そうとしたが指がうまく動かない。

 痺れが隅々まで広がっていて刻々と体が重くなっていた。懇願するように耶依を見る。

「私にやれっていうの!? 冗談でしょ」

「でも……」

「いや、触りたくない。絶対に、いや」

『そのことはこちらで警察に伝えておくから早く移動して。少し距離があるから。善之助、歩けそう?』

 優しく声をかけてくれるのはフリーだけだった。善之助は気丈な笑顔を浮かべてみる。

 きっとどこか陰で見守っていてくれたのだろう。

「ああ、僕なら平気さ、フリー。よし、いごっ」

 強がってみたものの体は正直だった。一歩目で何も無いのに躓いて倒れる。

「もう手間がかかるわね」

 受身を取る余力もなくアスファルトとキスをする寸前で腕が引っ張られた。痛いは痛いが、鼻が潰れるよりはマシだ。

 耶依は善之助の肩に腕を回して小柄で重い少年を支えて引きずるように歩く。

 兄以外の男と密着するのは本望ではない。どういう気分なのか色々感情がせめぎあっていて自分でも分からないくらい体も心も熱かった。顔を見ないのが唯一の自衛手段。

「耶依さん」

「黙って。特別だから。変なところに触ったりこっち見たら捨てるわよ」

「……ふふ、ありがとう」

「どう、いたしまして」

 善之助は痛みが逃げ出すほどの喜びに満ちた。やはり、彼女は優しく正しい。

 そして年頃の女の子と密着している事実に遅れて気づき血液が沸騰した。

 見るなといわれるまでもなく見れるはずがない。振り向けば唇が頬をかすめてしまう。

 善之助は左を、耶依は右を向いたまま寄り添って歩いていった。


☆ ☆ ☆


 ベッドに仰向けになって善之助は天井の模様をじっと見つめていた。

 壁紙のわずかな皺が際立って見える。真冬の早朝よりも目が冴えていた。

 憑喪という“人間”との戦いを思い返す。必死で、夢中で、緊張している余裕なんてなかった。落ち着いて考えてみれば恐ろしいことをしたように思えて手が震えだす。

 あれから善之助は事務所の四階の部屋に運ばれて休養を取った。

 そこは小さな病室みたいで可動式のベッドや点滴もあった。彼は綺麗に整えられた白いベッドの上に横たえられ栄養剤を打たれた。しばらく寝ると痛みと疲れが和らいだ。

 意識が曖昧になっていたがずっと傍に耶依がいてくれたのを覚えている。

 夜になって動けるようになると愛に家まで送ってもらった。数日は安静らしい。

「入るぞ、善之助」

 ノックに応じる間もなく父、正継が入ってきた。重い体を起こしてベッドの縁に座る。

 父は学習机の椅子を引いて息子の前に座った。警察官に相応しい肉体は善之助の憧れでもある。逞しい太ももに肘を立てて大きくて厚い手を組んだ。

 間近見る父は決して大きくない。背の低さは親譲りといってもいいだろう。

 だが善之助には何倍にも偉大に見えている。背は問題じゃない、父の精神がそうさせた。

「どうしたの、父さん」

 派出所勤務の警官にヒーローじみた活躍の機会はない。父は平凡な警官だ。

 でも一つだけ違うところがある。父は正義に忠実で嘘を見抜く。実直な瞳は心の奥底を覗き込んでくる。深くて、広くて、見つめられると真実を話してしまう。

 父に捕まったこそ泥や非行少年たちもこの瞳の前に敗北してきた。父の誇りだ。

 今まさに、善之助は真実の瞳に晒されている。正継は黙って息子の目を覗き込んだ。

 逸らしてしまえば後ろめたさを証明する。善之助は背筋を伸ばして真摯に見返す。

「最近帰りが遅いらしいな。アルバイトを始めたと聞いている。母さんが心配していた」

「……ごめんなさい。ちょっと、忙しくてさ」

「善之助。正直に答えるんだ。いいな」

「はい、父さん」

 厚い手に握り締められると温もりと力強さに心が解されていく。この手も大好きだ。

 感情を表に出さない父は褒めてくれるとき、大きな手で頭を撫でてくれる。

 許されない時は頬を叩かれた。たった一度、嘘を吐いた時の痛みがぶり返す。

「どんな仕事をしている? 母さんは友達の手伝いと言っていたが、本当のことを話せ」

 善之助は唾を飲み込んだ。どちらに誠実になっても嘘を吐くことになる。

 廿楽事務所との契約内容で仕事の詳細は口外無用。言えばヒーローはクビだ。黙っていれば分からないように思えても常にフリーが耳をぴんと立てている。

 かといって誤魔化せば父に嘘を吐く。そして一目で見抜かれるはずだ。真実を伝えたとして、父と母が憑喪と共に戦うことを喜ぶはずがない。

 父から目を逸らさず、むしろ跳ね返すくらいの眼力をこめた。厚い手を握り締めながら。

「人助けをしているんだ。友達と一緒に、正義の味方をやっている」

 彼は真実だけを話した。詳細は語らない、でも本当の仕事内容だ。彼にとっては、だが。

 普通の親なら冗談に怒るか、呆れるかどちらかだろうが正継は正真正銘善之助の父親だ。

 厳しく躾けた息子の目を見れば嘘でも冗談でもないことが伝わってくる。

 正継は手を離して肩を優しく叩いた。家族だけが分かる程度に頬が緩んでいる。

「そうか。あまり母さんを心配させるな」

「うん、気をつけるよ」

「一つだけ私から忠告をしておくぞ」

 立ち上がった父が両手で肩を押さえつけてきた。重みに骨が過労を訴える。

 まだ全身の筋肉は張り詰めていて神経は逆立っていた。彼は決して表情を変えない。

「正義は難しい。人それぞれにある。お前は、お前の正義を信じろ。迷っても嘘は吐くな」

 胸を節くれだった指で突かれる。父の言葉が染み込んでいくのが分かった。

 善之助の正義に波紋を広げている耶依の言葉が、衝動が思い出される。

「もちろんだよ、父さん。僕は僕を信じている」

「それでいい。疲れているようだから早く寝るんだぞ」

「はい。おやすみなさい」

「おやすみ、善之助」

 正継はドアの傍のスイッチを切って妻の待つリビングに戻っていった。

 口数の少ない父が語る言葉には必ず力がある。人それぞれの正義。まさに悩みの種だ。

 深く息を吐きながら体に衝撃を与えないようにベッドに横たわる。暗がりに各々のポーズを決める歴代のヒーローたちの姿が浮き彫りになっていた。

 憑喪と対峙したときの耶依の憎悪は烈火の如く激しかった。

 怪物を前にしても冷静で判断力を失わず、度胸を見せた彼女とは違う。

 耶依の言い分も理解できる。数多のヒーローも正義の下に悪を断罪してきた。

 そういえば、とケースの最上段で剣に手を置き威風堂々と立つフィギュアを見上げた。

 黒衣の騎士の名は“断罪者エクゼグター”。罪を断つ剣を持つ者。

 まさに彼は作品の中で容赦なく悪人を罪ごと断ち切っている。手にする大振りの剣で悪に満ちて変貌した怪物を駆逐する、ダークヒーローと呼ばれる種類の一人だ。

 彼は最後に己の罪、大勢の罪人の命を奪った償いのためにその剣で殺されてしまう。

 どんな悪にも物怖じせずに戦う姿が格好良くて善之助は大好きだった。

 間違った正義感だとは思わない。でも自分は現実の“ヒーロー”。戦う世界が違う。

 耶依が言うように罪人だからと人間をこの手で殺すことはできない。

 甘いのかもしれない。手を汚したくないだけなのかもしれない。善之助は掌を握った。

 償いは人としてさせるべきだ。己の正義がそう叫ぶなら、それを信じるだけ。

 父の言葉を胸に抱いて善之助は眠りついた。深く深く、夢もみないような泥の眠りに。

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