第一章――アルバイト・ヒーロー――

九十九市の由来はその昔町が九十九の区画に分かられていたことにある。

 昨今では第二の首都を目指して開発が急速に進みだいぶ整理されてしまった。だが九十九中央駅の周辺や中央公園を除けば入り組んだ路地に在りし日の名残を感じられる。

 四方八方に、場所によっては上下にも斜めにも細い道が伸びて交差していた。

 土地勘があっても隅々まで熟知している者はほとんどいない。

 それでも利便性は悪くなく、小さな商店街が点在していた。目と鼻の先にコンビニが建っている光景は都心さながら。同じ系列店が密集しているところもある。

「はあ、やっと着いた」

 善之助は四階建ての古ぼけたビルを見上げて溜息を吐いた。

 三色カラーでお馴染みのコンビニの横を通る脇道を行って五分の場所を見つけるのにどれくらいの時間をかけただろう。疲労に肩も落ちる。

 名乗りもしなかった少女に押しつけられたメモは不親切にも程がある。

 鉛筆でざっと引いた線に二つの四角。どちらにも矢印が引いてあってコンビニ、事務所と書かれていた。せめてコンビニ名だけでも付け足してくれれば迷わなかったのに愚痴のひとつもぶつけてやりたい。

 ビルの外壁は煤けていて汚いというよりも年季が入っているといった雰囲気だ。

 一階には喫茶店が入っていて店先にハレルヤと書かれた看板が出ている。

 目当ては二階だ。通りに面した窓硝子に“廿楽事務所”と記されている。古風な探偵ドラマから抜け出したセットみたいだ。階段がハレルヤの脇から伸びていた。

 掃除が行き届いていてコンクリートが剥きだしの階段に目立った汚れはない。

 手摺の上には“随時依頼募集中! 憑喪の相談、お気軽にどうぞ!”とポスターが貼ってあった。階段は暗がりなので通りすがりに目につくことはないだろう。

 高ぶった緊張感のせいで手と足が同時に出てしまって危うく踏み外すところだった。

 彼が事務所を訪れた目的はひとつ。“ヒーロー”のことを知ること。

 ドアの前に立って制服の襟を正した。背筋を伸ばして深呼吸。

 恐る恐るインターホンをつつくと大人びた女性の声が返ってきた。

『はい、廿楽事務所です』

「あああ、あのっ、僕、正部善之助と言います! ええとこの前、ぬいぐるみに襲われて」

『君が例の子ね。ちょっと待ってて』

 カメラがついているわけでもないのに善之助は慌てふためいて手足をばたつかせていた。

 そんな様子を見透かしたように小さな笑い声を残してインターホンが途切れる。

 小さな背を精一杯に伸ばして厚みのある胸を張った。昨日の興奮がまだ燻っていて鼻息が荒くなる。強引に止めようと息を吸い込んでむせ返った。

「こんにちわ。中にどうぞ」

 間が悪く玄関から綺麗な女性が出てきた。細い指でドアを押さえてくれている。

 グレーのスーツの上下を着こなしていて上側だけに銀のフレームがついた眼鏡をかけている。形のいい胸の膨らみがシャツを盛り上げ、腰のくびれも浮き出ている。肩にかかる黒髪をかきあげる仕草に心拍数が上がった。

 いかにも秘書といった格好は初心な少年の体温を急上昇させる。

「顔色悪いけど平気?」

 小首を傾げる姿も絵になっていた。善之助はぎこちなく何度も首を上下させる。

 いつまでも支えさせても悪いと小走りで事務所に入った。背中で笑い声がドアの外に締め出される。恥ずかしさに振り向けず、勝手に奥に歩いていく。

 短い廊下を抜けた先もまた探偵事務所のセットのままだった。

 壁際にファイルが収まっているキャビネットが二つ。手前が応接間代わりでテーブルを挟みソファと二脚の椅子が向かい合っている。奥にあるのは調度品と釣り合いの取れていない、高級感漂うつやつやした木製の執務机と革張りの椅子。主人の姿はない。

「さっき連絡があってもう戻ってくるはずだから。座っていてね」

「あっはい」

 促されるままソファの端っこにちょこんと腰を下ろす。

 同級生の女子とも会話することがない善之助は女性の魅惑にあてられて体を硬直させていた。背筋はものさしを入れたかのように直角になっている。

 膝に載せた学生鞄の紐を無意識のうちに握り締めていた。掌が熱い。

 女性は玄関の方に戻っていったが程なくしてお茶を淹れて運んで来てくれた。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

 他にやることもないのでお茶を一口。熱さに舌が痺れて緊張を解す。

 背後で荒々しくドアが開き、重い音を響かせて閉まった。聞覚えのある女の子の声が抗議をして、知らない落ち着いた男の声が諌める。

「どうしてまだライセンスの更新出来ないんですか!?」

「あのねえ耶依くん。君はまだ数体憑喪神を処理しただけだ。それくらいじゃあ政府は実績として評価してくれないよ。せめて憑喪の一人でも捕まえないとね」

「だったらそういう依頼を――」

 会話は善之助と耶依の視線が合ったのをきっかけに中断された。

 彼女の目が細くなってほとんど睨みつけてきていた。彼としてはどうもといった感じで小さく頭を下げたのだが、応じるどころから鼻を鳴らして壁際に寄ってしまう。

「やあ初めまして。今日はわざわざ来てくれてありがとう。ここの所長をやっている廿楽才悟(つづらさいご)だ。よろしく」

「こんにちは。正部、善之助です」

 手前にいた才悟が差し出した手を握り返す。柔らかくて冷たい。

 彼は所長というにはずいぶん若く見えた。せいぜい二十歳を越えたくらいだろう。中肉中背だが細面は均整が取れていて目立ちはしないが知的な印象を与えている。

 白い歯を垣間見せながら微笑んでいたがか細い目に冷たい眼光を孕んでいた。

 女性と同じグレーのスーツを着用しているから所長の雰囲気は十分に感じられる。

 握手を終えて才悟は革張りの椅子に静かに座った。手で促されて善之助も座りなおす。

 耶依に湯のみを渡した女性が才悟の分を机に置いて傍に立った。並んでいるのを見ると若くして成功した敏腕社長と秘書に見えてくる。スーツの魔力が惑わせるのか、若さを感じさせない。事務所の古さに似合っていなかった。

「まずは二人の紹介をしよう。彼女は秘書兼事務全般を担当してくれている豊条愛(ほうじょうあい)くんだ。私も彼女もこれでまだ大学生でね。そんなに怖がらなくてもいいよ」

「よろしくね、正部くん」

 何をよろしくすればいいのか思いつかずに善之助は黙って頷くだけにした。

 次に、と前置きして壁に寄りかかってお茶を啜る女子高生に手を向ける。自ずと視線が誘導された。彼女こそ自分をここに誘い、“ヒーロー”の道を開いてくれた人物。

「彼女が我が廿楽事務所のホープ。憑喪(つくも)の勝瀬耶依くんだ。君の“活躍”は聞いているよ。他でもない、今日来てもらったのはそのことについてだ」

 本題が始まる空気を察知して善之助は才悟を見つめた。生唾を飲み込んで喉が鳴る。

「単刀直入に言おう。君に耶依くんのパートナーになってもらいたい。“ヒーロー”として戦って欲しいのだ」

 善之助は心のどこかで彼の宣告を期待していた。確信していたといってもいい。

 “ヒーロー”になる者はいつだって突発的な事故や事件に巻き込まれて正義の宿命に導かれていく。自分もまた、人助けをしようとした結果選ばれたのだと、特撮やアニメの見すぎで正義を覚えた彼は知っていた。

 幼稚園の頃から今でもずっと憧れ続けている“ヒーロー”になれる。

 絶好の機会を逃すまいと半立ちになったところで横合いから冷水をぶっかけられた。

「話が違います、所長。これを使ったのは責任を取らせるためです。今日来るようにいったのは黙らせるためでしょう?」

 耶依は善之助がお気に召さないらしく言葉も鋭く才悟に斬りかかった。

 才悟の気が変わらないうちに何か言わねばと餌を欲張る鯉のように口を開けては閉めてを高速で繰り返す。静観していた愛の頬を緩ませる効果しか得なかった。

「彼の性能は君が話してくれただろう。うちは今手数が足りない。いつもいつも相棒を使い捨ててくれる誰かのおかげでね。人材調達も楽じゃないんだよ?」

「相棒ではありません。道具、もしくは、下僕です」

 冷ややかな一瞥が真横から突き刺さる。ずいぶんな言い草だが善之助は底抜けに前向きで純粋だった。脳内で『彼女は一般人の僕を巻き込まないために言ってくれている』と変換して微笑みながら首を振る。安心してください、と見せつけるごとく。

 当然、彼の構造を知らない耶依は場違いな反応に余計目を細めた。

「僕なら大丈夫です。正義のために、罪なき人々を守るために力を貸させて下さい! ずっとこの日のために鍛えてきました。ヒーローになる準備は万全です。覚悟もありますっ」

 屈伸の途中みたいな格好から勢いよく上半身を起こして握り拳を高々と突き出した。

 威勢の良さと空気の温度差には才悟も細い目を開いて丸くした。三秒もしないうちに表情は薄氷に閉ざされたが多少の困惑が声の間延びに現れる。

「あー、確かにヒーローになってくれと言ったけど、それは比喩表現だよ? 実際にはアルバイトとして契約してもらって働いてもらう。耶依くんも契約社員だしね。業務内容はあとで説明するけど……分かっているのかな」

「ええもちろん。ヒーローたる者正体を隠す必要がありますからね。つまり! この事務所は世を忍ぶ仮の姿、というわけでしょう。一階の喫茶店もそういうことですね」

 スイッチが切り替わった善之助は緊張感を忘れて室内を歩き回った。

 顎先に指を添えてしたり顔でうんうんと頷いている。彼が勘違いしているのは明らかだった。耶依から昨日彼が見せた変身後の性能と人柄を聞いて引き入れるつもりだった才悟も、予想以上の意気込みに虚を突かれる。喫茶店がそういうことなのはどういうことなのか、明晰な頭脳を持ってしても答えが見えてこない。ううんと小声で唸った。

 耶依は呆れ顔で自分の世界に浸る善之助を指差して改めて拒絶した。

「本当にあれを使う気ですか?」

「ま、やる気は十分だし試す価値はある。君にとっても良い刺激になるよ」

「私は嫌です。ああいうのは暑苦しくて、使いにくい」

 前触れもなく善之介は体を反転させて耶依に歩み寄る。あまりに足早で彼女は思わず胸を後ろに引いた。無防備になった手を厚い掌が包む。

「これからよろしく、勝瀬さん――いや、耶依!」

「気安く障るなっ、呼び捨てにもするなっ」

 耶依は有無を言わさずローキックを善之助の腿に放った。大抵の男はこの一撃で膝を折るものだが、筋肉の硬い感触に受け止められる。

 痛くもないのか平然と笑う彼の両手を振り解き再三の抗議をしようと振り返った。

 言葉よりも先に才悟の人差し指が唇の前で止まる。

「人員不足は現実だ。それに彼の性能は君の目的達成に必要だろう。善之助くんに言ったようにこれは仕事だ。いいね?」

 反論は許されない。彼が笑っていても根が優しいわけじゃないことを耶依は知っていた。

 また彼の言い分にも一理あると自分に言い聞かせて矛先を収める。後ろで飛び跳ねている馬鹿を睨んで気晴らしにするくらいしか出来ないのが歯痒い。

「それじゃあ善之助くん。これから愛くんが色々と説明してくれるから全部知った上でもう一度考えて見てね。後はよろしく」

「はい、お任せください。行きましょう、上の階が研修室になっているから」

「よろしくお願いします!」

 善之助の全身全霊の斜め四十五度のお辞儀も才悟や耶依の心を動かすことはなかった。

 才悟の眼中に彼はなく、深々と礼をする愛だけを見つめている。彼女は上司の眼差しを堪能してから毅然とした態度で颯爽と事務所を出て行った。すぐ後ろを善之助がついていく。耶依は名残惜しむように留まり、才悟を横目で盗み見た。

「彼はこれまでとは“ちょっと”違うかもしれないけど怯えることはない。能力としての相性はいいのだから、いつも通り割り切って見せることだ」

 彼は引き出しから取り出した書類に目を通しながら淡々と独り言のように呟く。

 まるで心のうちを見透かされているみたいで耶依は視線を窓の外に逃がした。刻々と暮れていく空の色の移り変わりが染みてくる。

 不意に肩を二、三度叩かれて背筋が震えたが気を取り直して研修室に向かった。


☆ ☆ ☆


 研修室はこじんまりとした事務所に似つかわしくなく余るだけの広さがあった。

 五人は座れる長机が三列縦に並んでいて善之助は最前列の真ん中に、耶依は最後列のすぐ後ろがドアの端に席を取る。

 善之助の前にプロジェクターが設置されていて奥のスクリーンを照らしていた。

 席が一望できる斜め向きの壇に立った愛が手元のノートパソコンを手早く操作する。スクリーンに“諸般の説明”と見出しが表示された。

「では説明を始めます。細かい内容は手元のプリントを参照するように」

 言われるままに善之助はプリントを見るともなくめくってみた。目眩を起こしそうなほど難しげな単語が敷き詰められている。

 才悟は説明を受けて改めて考えるようにと言っていたが彼の決意は固まりきっていた。

 だからこそ一言一句逃さず吸収する。正義を全うするために。

 使命に燃え盛る少年の瞳を見とめながら愛は照明を落として説明を始めた。

「まず基本的なところを抑えておきましょう。正部くんは憑喪と憑喪神についてどのようなことを知っている? 思いつくことをあげてみて」

「はいっ」

「……どうして立つのよ」

 1+1の答えを問われた小学生のように善之助は手をぴんと真っ直ぐ伸ばして立ち上がった。勢いが良すぎるものだから押し退けられた椅子が後ろの席にぶつかる。

 片隅で零れた突っ込みに気づかないくらいに集中して答えを記憶から引っ張り出す。

 どちらも学校やニュースで“最低限”のことくらいは知っていた。

「簡単に言うと憑喪は超能力者で、憑喪神は怪物です!」

 あれこれ述べるよりも簡潔にまとめる意識が働いて子供っぽい回答が導かれる。

 突き詰めて考えれば善之助の考え方は概ね正しいが、高校生に期待した分を下回って愛も苦笑を浮かべずにいられなかった。耶依に至っては露骨に見下した眼差しをぶつける。

 不出来な生徒をあやす先生のように愛は微笑みかけて務めて事務的に頷いた。

「一般的に開示されている情報に基づけば正解といってもいいわね。ありがとう、もう座っていいわ。それと、一々立たなくていいからね?」

「はいっ!」

 皮肉を言われたことにも動じず善之助は元気に返事をして座りなおした。

 愛は咳払いを挟んでからパソコンを操作してスクリーンの表示を進めた。“憑喪とは”と打たれた見出しの下に簡素な解説が加えられている。

「憑喪について教えましょう。最近は研究が盛んになって解明が進んでいるのだけれど明確になっている部分はまだ少ない。はっきりとしているのは三つの事柄よ」

 表示が進むのに合わせてプリントをめくり、前のめりになって話に食いつく。

 初めての熱心な生徒に愛も悪い気はせず饒舌に続けた。

「一つ、憑喪が能力を使うには“媒介”が必要となる。二つ、憑喪に目覚めるのは十代から二十代の若年層に多い。三つ、能力の制御を誤ると神化(しんか)する」

「媒介? 神化?」

「媒介はあなたも見ているはずよ。勝瀬さん」

 呼びかけられて渋々耶依は立ち上がって胸ポケットに入れていた媒介を取り出した。

 スポーツ用品店ならどこでも買えるありきたりなストップウォッチを善之助に差し出す。下からぶらさがっている紐に指をかけて左右に振った。

 じいと見つめながら振り子の動きに合わせて善之助の頭が揺れる。

「媒介っていうのは憑喪が能力を使うために必要なモノってこと。私の場合はコレ」

「なるほど」

「憑喪によって媒介は様々あるけど、必ず所持はしている。でないと能力を発動できないと研究結果が出ているの。憑喪として目覚める条件が“執着するほど大切なモノ”と“人間の精神”が結びつくことなのだけれど、長くなるから後でプリントを確認してね」

 頑なにストップウォッチの動きを追ってしまったために善之助は目を回していた。

 純粋というか、馬鹿というか、彼の無邪気さに耶依は笑いを噛み殺し冷たい仮面を被りなおして大切な媒介を胸にしまった。ふらつきながら彼は前に向き直る。

「憑喪という名称の由来は“付喪神”から来ている。長い年月を経て古くなった依り代に神や霊魂が宿ったもののことよ。それがいつしか人間自身が依り代――今でいう媒介を通して神や霊と結びつくようになって“憑く”と名称が変じた。だから憑喪にとって媒介は神や霊の力を発現するために必須なわけ。分かった?」

「分かりました! 悪の憑喪と戦うときはその媒介を壊せば止められるんですねっ」

「……まあ、間違ってはいないかな」

 あくまで憑喪という存在について教えただけなのだが善之助は先走って遠くの答えに辿りつき、自慢げに口角をあげていた。机の下でガッツポーズを決める。

 助けを求めて耶依に視線を送ったが彼女は興味ないと主張して俯いている。

「いいわ次に行きましょう。二つ目は後回しにして憑喪神と神化について教えます。憑喪神というのは――」

「媒介が怪物化したものってことですね。元々の付喪神のように」

 中途半端な自信を掴んでしまった善之助が割り込んで答える。うんうんと勝手に納得しているが愛の咳払いと、射るような一睨みに負けて大人しく口を噤んだ。

「正部くんの言う通り“一般的”にはそう思われている。昨日のくまのぬいぐるみを例にあげましょう。あれは端的に言うなら捨てられた怨みで憑喪神となったのよ。捨てられたり壊されたり、疎かに扱われたモノの怨念ね。それだけじゃなく使っていた人間の感情の影響を受ける場合もある。でもね、それだけじゃない。問題なのは“神化”よ」

 スクリーンに表示されたのはデフォルメされた人間と怪物だった。大きな×を書かれた人間から怪物に向かって太い矢印が向けられ、その上に“神化”の言葉がある。

 愛は懐から抜いた差し棒を伸ばしてこの矢印を何度も叩いた。

「神化とはこの図の通り、憑喪が憑喪神に変わることよ」

「……へ? 人間が、怪物に?」

「そう。それこそヒーローが倒す悪役のように。さっき説明したように憑喪は媒介を通じて超常の力を得ている。これの制御に誤ると暴走した力に“憑かれて”しまう。ただ影響力も個人差で自然と力が尽きて戻る場合もあるし、他者の介入が必要な場合もある」

「まさか、殺すってことですか!?」

 物語の中で良くあることだった。怪人に、怪物に変貌してしまった人を戻す術がなく殺してしまう。そうすることでしか正義を貫けぬのならば。

 早くもヒーローの壁にぶつかって善之助は声を荒げた。

 果たして自分に手が下せるのか。この手は人を殺せるのか。自分の掌をまじまじと見つめて何度も握っては開く。妄想に浸った行為への反応は二重の溜息。

「正部くん、少し落ち着きなさい。多くの場合は媒介を破壊すれば人間に戻る。そうでなくとも死ぬ前に大抵は力が維持できなくなるのよ。これまで人間が完全に憑喪神になったという話はないわ。ありえない、とも言えないけど」

「もしそうなったらヒーロー様は殺せるのかな」

 嘲笑に喉を鳴らしながら耶依が言う。廿楽事務所はあくまで仕事として憑喪や憑喪神と戦っている。遊びでもなければ慈善でもない。それを彼は分かっていなかった。

 彼女もまた出会って間もない善之助の性質を分かっていない。

 彼は椅子を蹴倒して立ち上がり真顔で耶依に語りかける。

「僕は正義を全うします。神化してしまった人だって助けて見せますよ!」

「……私が馬鹿だった。愛さん、お願いします」

「そうね、先に進めちゃいましょうか。最後に憑喪は若年層に多いって話だけれど、これが私たちの業務にとって大きな意味を与えているから、黙って、大人しく、座って、聞いてくれる? 聞き分けのないアルバイトは雇わないわよ」

「ふんぅ、はい、すませんでしたっ」

 空回りするやる気を鼻から噴出して善之助は頭を下げた。

 愛も、耶依も、徐々に彼の面倒な純粋さに気づく。下手に関わるだけ時間の無駄、と。

 スクリーンを先に進めながら愛はピッチをあげて喋る。隙を与えないように。

「憑喪は若年層、特に未成年の発現率が著しく高い。これは思春期の不安定で多感な精神が様々な要因で刺激されやすいからと言われている。当然憑喪の犯罪者というのも未成年が多くなってしまう。ただでさえ日本の警察は武力の行使を極力認めていないのに、特別な能力を持った、それも未成年にどう対処すればいいのか、幾度となく議論があった。そうした中で政府が行き着いた答えがこの“憑喪対策特別措置法”」

「憑喪同士共食いさせようってわけ。馬鹿馬鹿しい」

 吐き捨てたのは耶依だった。善之助がそっと後ろの様子を窺うと刃の如く鋭き眼光に切り返されて瞬間的に首を戻した。今は勉学に勤しもうとプリントを埋め尽くす小難しい条項に目を通す。細々と2ページに渡って連なっていた。米神がしくしく痛む。

「これによって政府に申請を出して認可を受けた憑喪には“ライセンス”が発行されるようになった。アメリカの探偵みたいなものね。このライセンスを持っている憑喪は、突発的に発生した憑喪神や犯罪者となった憑喪と“戦える”権利を持つ。倒した数や相手、捕まえた憑喪の危険度によって報酬が支払われ、実績を積めばライセンスのランクがあがっていく。詳細は家でプリントを読み込んで」

 愛はペットボトルの水を口に含んで一呼吸置いた。善之助は真剣にプリントの文字を追っている。スクリーンは次に進んでいった。

「廿楽事務所の業務内容はもう察しがつくでしょう。主な仕事は野良の憑喪神を迅速に処理すること。また憑喪絡みの事件に関する依頼の解決よ。憑喪が関わっているというだけで警察の対応はひどく鈍くなるからね。あなたには勝瀬さんと共に戦ってもらう。これはあくまで仕事で報酬のため。それに彼女のライセンス昇格のため。理解できた?」

「ヒーローごっこしてるんじゃない。命の危険だってある。あなたのせいで私は死にたくない。……ちょっと、聞いている?」

 すっかり意気消沈しているのか肩を小刻みに震わせたまま善之助は俯いている。

 プリントを握る手に力が入りすぎて端からくしゃくしゃになっていた。強がっていてもまだ高校二年生の少年なのだと愛も、耶依も誤解してしまう。

 彼はただ、強い感動に、感激に、歓喜に言葉を失っているだけだった。

「説明は以上よ。非常に危険な、仕事、だっていうことを忘れないで。あなたの決意が変わらないのなら契約書にサインをして明日持ってきなさい。仕事の内容は他言無用よ。受けるにしても、受けないにしても。いい?」

「……はい。今日は、ありがとうございました」

 契約書を恭しく受け取って折り目をつけないよう気をつけながら鞄にしまいこむ。

 皺だらけの資料を突っ込み力なく立ち上がって愛に一礼。幽霊になってしまったように儚げな、無気力な歩きで耶依の傍を通ってドアを開ける。

 振り返ってもう一度礼。耶依のことは視界に入っているだけのようだった。

 ばたんとドアが閉まったのを見届けてから耶依は愛を顔を見合わせた。

「駄目そうね、彼」

「私はそのほうが気楽でいいです。才悟さんに次の相手を探してもらおうっと」

 こんな会話は一段ずつ踏みしめながら降りていく善之助の耳には入らない。

 もしも部屋の中にいても気にも留めなかっただろう。彼は外の通りに出てしばらく歩いてから小さくなった廿楽事務所を見た。改めて込み上げた気持ちが口から飛び出す。

「きゃっほぉっー! 僕は、僕はっ、ヒーローになれるんだぁぁぁー!」

 十六年間燻り続けてきた正義感が爆発するのを抑えられずに大声で叫び拳を突き上げる。

 鞄を振り回しながら満面笑顔で入り組んだ街路を疾走していく。

 幸せいっぱいな後姿を塀の上で一匹の蒼い目をした白猫が見送っていた。


☆ ☆ ☆


「ただいま!」

 善之助は脱いだ靴を揃えて向きを整えてからリビングに向かって大きな声をあげた。

 おかえりなさい、と母香子(きょうこ)の柔らかな声を背中で確かめつつ自室に入る。彼の部屋は玄関のすぐ傍にあった。

 天井に届きそうな背の高い本棚と大型のアクリルケースが肩を寄せ合っている。本棚は天辺から足元までぎっしりと本が詰まっていた。取り易い下段には彼にとって聖書に等しいヒーロー漫画の数々が、中段と上段には格闘術の実用書や格闘家、武道家の手記があった。彼の自信の素でもあり物言わぬ師匠たちだ。

 冷めやらぬ興奮に疲れさえ覚えた善之助は棚の対面にあるベッドに身を投げ出した。

 愛用の抱き枕を引き寄せながらにんまりと頬を弛ませてアクリルケースを眺める。

 媒体を問わずに活躍してきた歴戦のヒーロー達が思い思いのポージングを決めて並んでいた。長年集め続けているフィギュアの数々の中で今一番のお気に入りは最上段にいる。

 広いスペースを独り占めするのは無骨な鎧に黒衣を羽織った騎士だった。

 刀身の歪んだ大剣を突き立てて両手を柄に載せている。よく見れば片側が少しだけへこんでいた。これこそ、昨日彼が後生大事に抱えていた“宝物”だ。

 一人の可憐な少女を守るべく己を犠牲にした名誉のヒーロー。

 瞼を閉じれば勇敢にも巨大なくまのぬいぐるみに飛び掛る姿が思い出された。

 実際フィギュアは箱に入ったまま善之助によって投げ出されたのだが、犠牲を強いた本人は都合よく展開を塗り替えている。

 幸いにも外箱がクッションになって踏まれたもののフィギュアは原型を保っていた。

 自分が初めて変身した記念日を飾る意味でも生涯忘れられない存在だろう。

 ケースに並ぶフィギュアの大半は“ツクル”という個人モデラーによって作製されたものだった。常に刺々しく、刃を纏っているような鋭角的なデザインを好み、格好良さと強さを引き立てている。彼の好きなヒーローの幾らかも“ツクル印”のフィギュアがあった。

 これから眺めるばかりだった彼らの仲間入りをする。そう思うと体が疼いてしまう。

 枕に顔を埋めて足をばたつけているとドアがノックされた。

「ごはん出来たわよ。何をしているの、善之助?」

「今行く。ちょっと嬉しいことがあってさ」

 跳ね起きてリビングに行くと四人がけのテーブルに二人分の料理が並んでいた。

「父さんは?」

「今日は夜勤よ」

 椅子に座りながら何気なく薄型テレビの傍にある小物入れの棚の上を見る。

 警察官の制服のまま照れくさそうにはにかむ父に腕を絡ませる満面の笑みの母。二人の間に割り込んでそれぞれの足に片手ずつしがみつく幼い善之助。

 しばらく見ていると向かいの席に座った香子の視線を頬に感じた。

「何かあった?」

 本人が気づいていない癖で善之助は悩み事があると家族写真を見つめてしまう。

 親として、男として、身近なヒーローとして尊敬する父正継(まさつぐ)に救いを求めていた。

 口を半分まで開いて出かかった言葉を飲み下す。帰り際に言われた愛の忠告を思い出したのだ。父に厳しく嘘を吐くなと躾けられているから、不用意なことを言えない。

 香子は先を急かさずに息子が思い悩むままにして箸を取った。

「「いただきます」」

 親子は声を揃えて言ってからお手製のハンバーグに箸を入れた。善之助はどう言えば嘘にならないかああでもこうでもないと手を動かしながら頭もフル回転。

 彼の自然な返事を待って香子は垂れ流しになっているテレビのニュースを見た。

「やだ、またなの。お父さん、大丈夫かしら」

 母の声音に宿った不安を敏感に察知して善之助もテレビに目をやった。

 最近世間を騒がしている“人体怪盗”がまた罪を重ねたらしい。

 この一年の間に九十九市内で“体の一部”が盗まれる事件が起きていた。猟奇的な響きを含んでいるが、何も大鉈で切断して持っていくわけではない。

 襲われた被害者は脚や腕や指といったパーツを体から“分解されて”奪われたという。

 警察はこれを憑喪の犯行と断定したが、それ以上の進展はなく犯行は繰り返された。

 目撃情報もなく、手がかりもなく、相手が憑喪であることで棚上げにされている。政府や警察への批判非難は高まる一方で“憑喪対策特別措置法”の見直しも叫ばれた。

 絶対的な“悪”の存在。憑喪と対等に戦えるのもまた憑喪だけ。

 こんがらがっていた思考が途端に一本の筋になった。善之助は確信を得る。

 箸が折れる寸前で力を抜いてニュースから目を離せない母に強く言い張った。

「母さん。僕、友達の紹介でアルバイトをしようと思うんだ」

「……アルバイト? でも確か」

 校則では特別な事情がない限りアルバイトは禁止されている。長年警察官の妻でいる香子も些細な不正でも見逃さない。それを理解したうえで善之介は頷いた。

「禁止されているよ。けど僕じゃなきゃ駄目なんだ」

「どんなお仕事?」

 耶依を友達というのは無理があるが善之助にしてみればあれだけ至近距離で会話をした相手は友達の範疇だ。アルバイトなのは本当だし、これから言うことも真実だ。

 自分が耶依と組んで“ヒーロー”となり大勢の人を恐れさせる“悪”と戦う。

「正義の味方!」

 テーブルから身を乗り出して言い切った。普通の高校生の普通の母親なら冗談と笑うか、悪ふざけをするなと怒るかだろう。しかし彼は普通ではないし、彼女はその親だ。

 ずっと正義の味方に憧れていることも知っているし嘘を吐かないことも信じている。

 何より息子に友達が出来たことが嬉しくて頭ごなしに否定する気にはなれなかった。

「なら力をつけなくちゃね。たくさん食べなさい」

「うん。僕がみんなを守ってみせるよ!」

 親心に気付けるほど善之助は大人ではなかった。ただ無邪気に、ただひたむきに、自分の正義の道を突き進むべく、今は母の愛情たっぷりのハンバーグを頬張る。


☆ ☆ ☆


 九十九市の中心部に縦横に広がる巨大な公園があった。

 アメリカのセントラルパークをモデルにした九十九中央公園には四季の違いを存分に味わえる草花が咲き誇り、逞しい木々で区分けされたサイクリングやランニング用のコースが外周を取り囲んでいる。運動場はもちろん、小規模の動物園や美術館も備えられていた。

 春から夏に移ろう境の朝はかすかな熱気を孕むものの清々しく空気が澄んでいる。

 善之助は胸の昂りに叩き起こされて普段よりも一時間早く公園にやってきた。

 火照った気持ちを落ち着かせようと日課のトレーニングにも力が入る。

 ヒーローたるもの常に肉体を最高の状態にすべし。彼の持論だった。

 一周が目標だったが今日は調子が良い。もっと汗を流そうとに二周目を走る。

 身なりを気にしない彼は学校指定のジャージを着ていた。シャツもトランクスもびしょ濡れで肌に吸いついて気持ちが悪い。

「はっ、はぁっ、はぁはっ、はぁっ……」

 次第に呼気が乱れてきた。一周に慣れているせいかペースがうまく掴めない。

 息苦しさを感じてきたところに脇を颯爽と駆けていく痩身があった。

 ちらりと視界に映ったのはサングラスをかけた無表情。小さな唇は薄く閉じられていて乱れがない。トレーニングジャージの上からでも肢体のしなやかさに目を惹かれる。

 ダイエットに励む女性の姿なら善之助も何度か見かけたことがあった。

 だが彼女は違う。もう無駄のない体つきをしているのだから。

 あれは鍛錬の走りだと確信した善之助は共感を得て嬉しくなった。

 同時に闘争心に火が点く。抜かれっぱなしでは情けないと背中を追いかけて加速する。

 緩やかなカーブを終えた直後に追い抜かした。すれ違い様に顔を盗み見たがサングラスに隠れてよく分からない。ただ、唇がへの字に曲がったようにも見える。

 直線に入って数十秒。満足して少しだけ速度を落とした隙に女性が抜き返した。

 勝ち誇った薄い笑みを残してさらにペースをあげていく。

 二周目という言い訳を彼女は知らない。意地になって善之助も体に無理を強いる。

 抜きつ抜かれつを繰り返しているうちにもうランニングではなくなっていた。体力をつけるにしろ鍛えるにしろ過度に走りこむのは効果的ではない。

 二人ともそのことよく知りながらも負けず嫌いが意地を張っていた。

 お互いに息も荒く限界が近いと悟る。次の直線が最後の勝負。

 女性が内側を取り善之助は大きく外側に逸れた。カーブが終わり二人とも前に出る。

 視線の先にはゴールテープのようにコースを横断する車道があった。

 あそこを越えたほうの勝ち。示し合わせなくても二人の考えるゴールは同じだ。

 半分を過ぎて互角。ここで善之助は残った体力の全てを発揮する。小柄でも彼は一人の男だった。同等に鍛えていても根本的な体力で負けるはずがない。

 顔を見る余裕もなく女性を抜いて一足先にゴール――の手前で一陣の風が吹く。

 温存していたのは彼女も同じようだった。すれすれを通り抜けた女性の軌跡に覚えのある甘い香りが残る。

 負けを認める前に善之助は振り切った女性の腕を空中で掴み取った。

 体勢を崩しながら思いっきり体を引っ張り込み、悲鳴がクラクションに消し飛ばされる。

 二人は重なり合って倒れこんだ。乱暴な運転のトラックが車道を爆走していく。

 善之助が最後に足を緩めたのはトラックが見えていたからだった。もしも咄嗟に腕を取らなければ女性は見るに堪えない無惨な姿に変わっていただろう。

 正義の実行に満足していると怒声が耳を殴った。

「いつまで触ってんのっ」

「あっ、こここ、これはちが、違います!」

 弁明虚しく肘撃ちが鳩尾に刺さる。不意打ちの痛みに手を離すと女性が飛び起きた。

 無理に引き寄せたものだから善之助が下、彼女が上で肌をぴったり触れ合わせていたのだ。命を助けても痴漢と罵られたら言い逃れもない。

 恥ずかしくなって正座の姿勢を取りながら善之助はひとつの事実に気づいた。

 冷ややかな棘のある声。横柄な態度。女性ながらに背は善之介よりも拳ひとつ高く、無駄のない豹のようなしなやかな体つき。髪から漂うシャンプーの甘い香り。

「もしかして、耶依?」

「呼び捨てにしていいって言った?」

「ご、ごめんなさい、耶依さん」

 耶依はサングラスを取ってジャージのポケットにしまいこんだ。

 忌々しそうに悪態を吐きながら善之助を無視して足を引きずってベンチを目指す。

 意外な場所で意外な形で意外な人物にあったことを善之助は嬉しく思っていた。呼ばれてもいないのに彼女の後にくっついていく。

 これから共に戦う仲間もまた鍛錬に余念がないと知って頼もしかった。

「足、大丈夫? 結構無理を――」

「してない。あなたが急に引っ張ったから捻った」

「ほんと!? 見せてみてよ。ああ、僕のせいだ、こんな」

 ベンチに座った耶依の足元に善之助は跪いた。投げ出された足首に手を伸ばして冷ややかな侮蔑をぶつけられる。

「変態」

「えぇっ。そ、そうじゃなくて」

「最低」

「……ちょ、ちょっと待っててね!」

 具合を確かめようとしただけなのを分かりながら耶依は彼を突き放した。

 どこに体力が余っているのか善之助は慌てて走っていってしまう。

 耶依は情けない自分に向けて舌打ちをした。彼の顔を認めて先に意地になったのは自分で強気に無理をしたのに、危うく死にそうなところを助けられてしまった。

 彼が善之助でなければ素直にお礼を言えた。それよりも意地を張ることもなかった。

 熱を持った痛みに眉をひそめながら空を見上げた。どこまでも抜けて広く高く青い。

 いくらか休めば治るだろうと身を風に委ねていると善之助が戻ってきてしまった。

 両手にスポーツドリンクを持っている。片方をタオルと一緒に笑顔で差し出す。

「はい、これ。お詫びの印。あとこれ、タオル濡らしてきたから使ってよ」

 変態と罵られないように善之助は自分で巻かずに彼女に渡した。

 目を細めてタオルを確認していることに気づいて親指を立てて突き出す。

「大丈夫! しっかり洗ったから汚くないよ」

「余計なお世話」

 無造作に突き返したドリンクもタオルも善之助は頑なに受け取らなかった。

 首を横にふりふり。青空のように済んだ笑顔で恥ずかしい台詞を躊躇いなく口にする。

「遠慮しないで。僕たち仲間じゃないか」

「……仲間じゃない」

「でも」

「あなたは下僕。私の能力を使うための道具よ」

 切り捨てるように語気を鋭くしてみたが耶依は諦めていた。彼の決意の固さは本物だろう。今日の午後にでも事務所にいって契約を果たすはずだ。

 であればここで言い争っても仕方がない。下僕だと割り切って接すればいい。

 冷たいタオルを足首に巻きつけてドリンクに口をつけた。見る見るうちに善之助の笑顔の輝きが増していく。彼は黙ってベンチの端っこに座ってドリンクを流し込んだ。

 気まずい沈黙を嫌ったのか善之助が何気ない話題を出す。

「僕はあっちの方のマンションに住んでいるんだけど、耶依さんもこの近く?」

「教えない」

「足速いんだね。驚いたよ。毎朝ランニングしているけど、耶依さんくらい走りこめる人見たことないな」

「馬鹿にしているんでしょ」

「違うよ!」

 今さっき走り負けたついでに死に掛けた身から耶依は嫌味と受け取った。善之助の性格上あり得ないことと知るにはまだ時間がかかる。

 彼は鼻で笑われても気にせずに彼女の前に立って真摯な瞳で訴えかけた。

「僕は嬉しいんだ」

「何が」

「これから共に戦う仲間が、同じように鍛えていることが。とっても頼りになるし、心強い。耶依さん、格闘技もやっているでしょう」

「……なんで言い切るのよ」

 耶依は胡散臭い少年を睨むようにして見上げた。確かに毎朝トレーニングを続けて独学ながら護身術も覚えている。見透かされているのが気に入らなくて簡単には頷けない。

 善之助は鼻の下を指で掻きながら自慢げに胸を張った。

「投げられたり殴られたりしたときに分かったんだ。この動きは素人じゃないってね」

 誰かに師事したわけでも道場に通ったわけでもないのだから二人とも素人ではある。

 あえて突っ込んでも彼は動じないだろうとこの短期間で耶依は理解した。面倒事を避けてそっぽを向きドリンクを飲み干す。空の容器を汗の浮かぶ胸に押しつけた。

 真っ直ぐに褒められて薄く赤らんだ顔を見られたくないと足早に立ち去る。

「ありがとう」

「へ?」

 下僕に感謝を述べるのはらしくない。でも咄嗟に出てしまったものは止められない。

 耶依は振り返らずに優しさが染みる足首を引きながら善之助から遠ざかった。

「また、後で! これからよろしく!」

 見ていないと分かっていても彼は全力で手を振りながら小さくなる背に叫ぶ。

 この短期間で善之助もまた耶依を理解した。実のところヒーローは聴力も優れている。

「良い人みたいでよかった」

 呟きは風に流されて消えていった。


☆ ☆ ☆


 善之助は言われた通りにサインをして印鑑を押した契約書を愛に手渡した。

 彼女が流し読んで頷いただけでヒーローの契約が果たされる。所長の才悟は一目も読まずにとってつけたような微笑に拍手を添えた。

「これで君もヒーローになれた、というわけだ」

「はいっ。未熟者ですがよろしくお願いします!」

 彼にとって皮肉は素直な賛辞に他ならず照れくさそうにはにかみながら背筋を伸ばした。

 才悟が珍しく本物の苦笑いを浮かべたのを見て愛は正部善之助という存在に注目する。男を道具にしか見ていない耶依の戸惑いも頷けるというものだ。

 少年は己の影響力を知る由もなく辞令を待って直立不動の姿勢を崩さない。

 そわそわと動く瞳と締まり切らない口元が彼の心情を晒していた。

「焦りは禁物だよ善之助くん。まずまだ紹介をしていないメンバーを紹介しよう」

 浮つく気持ちを見透かされて善之助は恥ずかしくて視線を足元に落とした。

「……猫?」

 いつのまにか足の間に赤い首輪をした白猫がちょこんと座っている。

 細い首を伸ばして顔を覗き込んできた。瞳は海を凝固したように深く蒼い。

「彼女の名前はフリー。実に優秀な調査員であり、頼れる連絡係だ」

「にゃあ」

「この可愛い猫がメンバー、ですか」

 いくら善之助が子供っぽくても猫が正式なメンバーと言われたら戸惑う。

 撫でてみようと手を伸ばすとフリーは柔らかな肢体をくねらせてすり抜ける。一足跳びで執務机に上がった。才悟は咎めることなく触り心地の良さそうな毛並みを撫でた。

「この子はとても珍しい憑喪になった猫なんだ」

「憑喪!?」

「そう。私が知る限り人間以外の憑喪は彼女しか実例がない。はいこれが契約した証。嵌めるといい。邪魔にはならないから」

 言いながら才悟がフリーの真っ白な毛を数本引っこ抜いた。むず痒そうに白猫は身悶えたが気持ちいいのか喉を鳴らしている。

 抜かれた毛は発光して細く赤い腕輪に変化した。受け取って表も裏も確認してみる。

「つけてみれば彼女の能力が分かる。ほら私も愛くんもしているよ」

 確かにスーツとシャツをめくった二人の手首にも赤い輪っかがあった。

 見ていてもしかたがないので善之助も腕輪に右手を入れてみる。肌に触れると腕輪は徐々に薄くなっていって消えてしまった。腕をよく見ても変化らしい変化はない。

『能力については私が説明しましょう』

「うわぁっ」

 どこからともなく澄んだ高い声が聞こえてきた。頭に直接流れ込んでくるように。

 驚いて辺りを見回しても含み笑いをする才悟と愛がいるだけだ。

『どこを見ているの。私なら目の前にいるでしょう』

「……フリーの声?」

『そうよ。あまり間抜けな顔をしないで、笑ってしまうから』

 よっぽど可笑しい顔をしているのか白猫の小さな口が笑みを浮かべた、ように動く。

 声こそ聞こえるのだがフリーの口は言葉を発していない。となれば答えはひとつ。

「テレパシーだ!」

『その通り。私の能力は思考の共有。毛から出来た腕輪を身に着けている者同士のテレパシーを仲介することが出来る。範囲は私を中心に九十九市内全域といったところね』

『だからこうやって私の声を聞かせることも出来る』

 今度は才悟が口を結んだまま語りかけてきた。おお、と心で驚くと愛がくすりと笑う。

『慣れれば声の送受信の切り替えもできるから早く覚えることね。ただ優先権は私にあって私が望んだ声は拒否できない。緊急時は急に呼ぶけど一々驚かないように』

 外見は普通の綺麗な可愛い白猫なのにずいぶんと流暢な日本語を話す。

 憑喪というよりも憑喪神なのかなと過ぎった疑問にフリーが頷いた。

 心の声は駄々漏れになっているようで善之助は首の後ろを掻いて誤魔化そうとする。

『本当の私はもう死んでいます。確かに憑喪神か化け猫といったほうが正しいでしょう。この肉体も首輪と結びついた私の心が再現しているに過ぎません』

「それは違うよ。憑喪神というのは怨念や欲望、力が暴走しているに過ぎない。人よりも思慮に富み、自分を理解しているフリーは、立派な憑喪だ」

「才悟さんの言う通りだよ。正義のために力を貸してくれるフリーは心強い味方さ」

 憑喪神は倒すべき悪、倒すべき怪物。同一視してしまったことを善之助は詫びた。

「変なこと考えてごめん。これからよろしく、フリー」

『あなたは生真面目で面白いのね。気に入った、頑張ってね善之助』

 少年と白猫の微笑ましい握手の光景を見て愛が才悟の耳元に呟いた。

「彼女がああ素直に触らせるのは珍しいですね」

「フリーは私たちと違って素直で真面目だから彼に共感するのだろう」

 悪戯っぽいウィンクを送られて愛は疼くものを感じ努めて冷静に姿勢を正した。

 すっかり善之助はフリーが気に入り、彼女も撫でられるまま丸くなっている。

『話が終わったなら早く来てくれます?』

「やっ耶依さん!?」

『大声を出さないでよ。頭に響く」

 慌ててドアのほうに振り返ったが当然姿はそこにない。テレパシーが届いたのだ。

 才悟が話は終わりとばかりに手を叩いて革張りの椅子から立ち上がる。目配せを受け取った愛が事務所を出て行く。

「それじゃあ行こうか」

「行く? ああそうか、そうですよね! これから怪物退治に――」

「いきなり実戦投入させるほど私は愚かじゃないよ。これから君の“性能”をテストしに行くんだ。耶依くんが待っている場所に行ってね」

 わざとらしく意味深ににやりと唇を釣り上げて才悟は善之助の肩を軽く叩いた。

 問う暇を与えず彼も出ていく。後について机から飛び降りたフリーが振り返った。

『置いていかれるわよ』

「あ、ああ、待って!」

 訊きたいことは山積みだったが大人しく従うしかなさそうだ。

 事務所の前に停まった高価そうな車に目を丸くしながら善之助は後部座席に滑り込む。


☆ ☆ ☆


 後部座席のサイドガラスにはスモークフィルムが貼られていて景色が霞んで見えた。

 おかげで車が停まるまでの道のりがまるで分からない。誘拐されてきたような不安感に外に出るなり善之助は呟いた。

「どこなんですか、ここ」

 周囲の建物はどれも色褪せていて事務所のビルよりも古そうだ。窓硝子が罅割れていたり蔦に飲み込まれていたり、人が住んでいるとも思えない。

 車は高級車に似つかわしくない取り壊し寸前のビル前に停められていた。

 助手席から降りた才悟が首をビルの玄関に向けながら言う。

「君好みに言うなら秘密基地かな。行こう、耶依君が痺れを切らす前に」

 二人と一匹に先導されて善之助も続いた。入ってすぐのところにあるエレベーターに乗って地下へ降りる。

 外壁に比べてエレベーターは整備が行き届いているらしく問題なく稼動していた。

 数字は地下一階から省略されて表示されていない。相当深い場所のようだ。

 才悟が言う“秘密基地”らしさに不安は興奮に上塗りされた。

 ドアが開いた先に伸びるのは電光の白色を照り返すリノリウムの床。

 コンクリートが剥きだしの壁には等間隔に電灯がついている以外の飾り気がない。

 愛の履くヒールが奏でる高音に善之助は自然と足踏みでリズムを合わせた。

「ずいぶん楽しそうだね」

「とっても! 本当に秘密基地みたいで感動しているんです。ああ、やっぱり」

「正義の味方は関係ないよ。憑喪の能力を使って訓練しようと思えば人目につかず迷惑がかからない場所が必要だからね」

 いち早く善之助を理解した才悟が機先を制したが彼はお構いなしに頷いている。

 少なくとも“秘密な基地”と思い込んでくれているなら廿楽事務所にとって問題もないので放ったまま才悟は説明を加えた。

「この一帯の土地はうちの所有だからこうした好き勝手も出来るのさ」

「へえそうなんですか……え、この辺り全部!?」

「廿楽家は九十九市では由緒ある家柄で所長は次期当主なのよ」

「やめてくれ愛くん。父さんはあと百年は生きるつもりみたいなんだから」

 ははは、ふふふ、と冗談を交わしながら笑いあう二人はさながら恋人だった。

 才悟の底知れぬ財力、権力を知った善之助は強い尊敬の念を抱いた。彼は私財を投げ打って九十九市の平和のために活動している。なんと司令官に相応しいことか。

「どうしたんだい? ついたよ」

「僕、感激しましたっ。どこまでもあなたに従い、正義を全うしてみせますっ」

 行き止まりで立っていた才悟に足早に駆け寄って手を握り締めようとして避けられた。

 顔は笑っているが目は沈んでいる。善之助の瞳は光り輝きすぎてそれに気づけない。

「面白いね、君。愛くん」

「はい。後で君にも同じ物をあげるわ」

 愛は懐から取り出したIDカードを壁の切れ込みに通した。

 これまた秘密基地らしき演出に善之助は感嘆の溜息を漏らす。行き止まりだった壁が左右に開かれて広い空間が露になった。

 まず目に入ったのが壁の奥にある積み重なったサンドバック。

 どれも破裂していて中の砂が一面に広がっている。中央には無事なサンドバックが転がっていて傍に不貞腐れた顔の耶依が立っていた。

「お待たせ耶依くん」

「遅いですよ所長。そこの馬鹿が手間をかけさせたのでしょうけど」

 露骨に蔑まされても善之助は相好を崩して頭を掻いた。

「ごめんなさい。秘密基地に感動しちゃって」

「……まあいいわ。さっさと終わらせましょう」

 善之助以外は仔細承知の上らしく、愛はノートパソコンを立ち上げて何やら準備を行っている。耶依もシャツの胸ポケットから媒介であるストップウォッチを取り出した。

「ええと、いったいこれから何を?」

「君に変身してもらう。彼女の能力は癖があってね。能力を使う側と使われる側の相性によって変身後の外見も性能も変化するんだ。制限時間もあるからいきなり実戦で使うのは危険でね。今後の研究のデータ取りも兼ねているけど」

 愛の合図を受けて才悟は戸惑う善之助の背中を軽く押しやった。

 心の準備をしていない彼が抗議の声をあげようと口を開き――無情にも変身させられる。

 弱々しい光が明滅して善之助の“服装”が変わった。

「どういうこと?」

「あれ、この前と違う」

 変わった善之助の姿を見て二人が声を重ねた。

 今の彼はヒーローの“変身前”の姿を連想させる。擦り切れて穴が空いていた革ジャンに派手な赤いシャツ。両手にこれも革製の指貫グローブを嵌め、色落ちした薄いGパンは傷らだけ。彼の描く褪せたヒーロー像が反映された結果だ。

 現代の美的感覚から言えば指を差されて笑われるか写真を撮られるかだろう。

 善之助は服装自体に文句こそなかったが“これ”ではなかった。

 初めて変身したあの日あの時。くまのぬいぐるみと戦った自分は立派な“ヒーロー”だったのに。納得がいかず何度も体を触って確かめる。

 疑問を感じているのは耶依も同じだった。これではただのコスプレイヤーだ。

「うーん報告とはだいぶ違う気がするけど……とりあえずそれ、殴ってみてよ」

 才悟に指示されて耶依がサンドバックを立てた。善之助は目の前で拳を構える。

 どうも釈然としないせいで気合が乗り切らない平凡なストレートを放つ。分厚いサンドバックが鈍い音を立ててくの字に折れ2メートルほど後ろに転がった。

 常人に比べれば十分強化されているが明らかに物足りない性能に耶依がキレる。

「あんたいったいどういうつもり!? あの時の性能があるから我慢して付き合ってやろうと思ったのに。普通は三分以上ある制限時間も一分半しかないのよ? こんなんじゃ意味ないでしょっ。用無し、クビ、今すぐクビ!」

「ままままま待ってよ!」

 耶依は問答無用で彼の胸倉を掴んで前後に揺さぶった。

 初めての変身ながら圧倒的な力で憑喪神を粉砕した“ヒーロー”に期待したからこそ、気に入らない性格の善之助でも渋々受け入れたというのに。彼女の怒りが増していく。

 脳をシェイクされながらも彼は必死に弁明した。

「あの時は助けるのに必死だったし、敵が目の前にいたしさ!」

「精神の影響を大きく受けるから仕方がないにしても、これだと、ねえ」

 作り笑いも忘れて呆れている才悟を見て危機を察知して善之助は耶依の手を跳ね除けた。

 そして握り拳を振り回して“最重要”な部分が欠けていることを高らかに叫ぶ。

「そもそもヒーローの変身には掛け声とポーズが必要じゃん!!」

「はあ? あんた何を言って」

「いい!? 変身っていうのは戦いを前にして行う儀式なんだよ。日常の自分を捨て去って悪と戦う決意を漲らせて、迸らせる瞬間なんだ! そんな“変身しなさい”“はいわかりました”って簡単には行かないんだ! 力が出せるわけないじゃないか、常識だろ!」

 噴火した火山のように顔を真っ赤にして唾を撒き散らす。いつになく語気も鋭く言葉遣いも男らしい。豹変した少年を前にして三人は言葉を失った。

 ここまで思い込めるのも一つの才能だろう。善之助は芯までヒーローなのだ。

 言い争っているうちに時間が過ぎて彼の変身が解ける。

 善之助と耶依の間で視線が火花を散らした。先に仕掛けたのは耶依だ。

「じゃあどうしたらあの時の性能を出せるっていうの? 出来るならやってみせなさい」

 この時の発言を彼女は苦々しく後悔するはめになった。

 待ってましたとばかりに善之助はぱっと顔を輝かせて制服の上着の胸ポケットから使い古した手帳を取り出して突き出す。“正義の心得”と表紙に書かれている。

「何よそれ」

「僕が小さい頃から考えてきたヒーローネタ!」

「だから何」

「この中から僕が変身するヒーローを選ぶ。で設定にある変身ポーズと掛け声を言いながら変身する。これで大丈夫!」

 自信満々に言い切る善之助から手帳を受け取って中身を読んだ。

 確かに小説の設定の如く一人からチームまで様々な“ヒーローネタ”が綴られている。変身方法から武器、能力、敵……ある意味で耶依は彼の才能を認めた。

 どうしたものかと善之助の背後で腹を抱えて笑っている才悟に視線を送る。

 膝を叩いてまで感情剥き出しに笑う才悟を見るのは愛も初めてだった。誰も声がかけられず彼が呼吸を整えるまで数十秒、嫌な空気が充満した。

「はぁーあぁ、久しぶりに大笑いさせてもらったよ。本気なところが特に可笑しい」

「所長、笑ってないで彼をクビにしてください」

「駄目駄目。まだ彼のやり方を試してないんだから。付き合ってあげるんだね、耶依くん」

「試すんですか!?」

「ありがとうございます!」

 耶依の能力は一度変身する度に約一時間程度の間を空ける必要があった。連続変身は肉体への負担が大きく、ストップウォッチも作動しない。

 善之助に与えられた時間は十分過ぎて彼は手帳をにらめっこをして真剣に考えた。

 その間中耶依は才悟に文句を言い続けているが彼は取り合わない。

 しまいには彼女も諦めて胡坐をかいて唸っている善之助の背後に立って嫌味をぶつける。

「せいぜいカッコイイのを選びなさい」

「うんっ、もちろん!」

 馬鹿を見たのは耶依のほうだった。溜息も出ずに壁に寄りかかって目を瞑る。

 才悟はフリーと戯れ、愛はノートパソコンで作業中。時間は緩やかに伸びやかに過ぎた。

「決めた!」

 膝を叩いて善之助は立ち上がった。大切な手帳を内ポケットにしまう。

 耶依は嫌々ストップウォッチを取り出して経過時間を確かめた。一時間経過している。

「それで、どうすればいいのよ」

「えっと耶依さんにはこうして欲しいんだけど」

 なぜか彼は耶依の耳元に手を当てて内緒話をした。生暖かい息がくすぐったい。

 兄以外の男に許していい距離感ではないと気づいて耶依は善之助を押し退けた。何度もシャツの袖で耳を拭う。

「あんたね、子供じゃないんだから。高校生でしょ? 本気でやらせる気?」

「大丈夫大丈夫。やってみれば気持ちいいよ。ほら、変身しよう!」

 善之助は軽快な足取りで耶依から離れた。才悟が興味深そうに腕組みをして眺めている。逃げ場はどこにもない。耶依は深く息を吸い、吐き、わだかまりを切り離した。

 目的の為に手段は選ばない。決めたはずだ。言い聞かせてストップウォッチを構える。

「これでしょうもない性能だったら絶対に許さない」

「任せて!」

「ふぅ――……行くわよ」

 高校生の女子が叫ぶような台詞ではない。恥ずかしさを出来る限り押し殺した。

 そして越えたくない一線を思い切って飛び越える。

「絶対ッ正義ッ!」

 耶依の合図に合わせて善之助が叫ぶ。

「ユウシャイン!」

 “ユウ”で右手の正拳突きを繰り出し、“シャイン”で左手の正拳突きを右手に重ね、同時に腰に引き戻した。戦士の儀式を経て正部善之助は“ヒーロー”に変身する。

 地上まで貫通しそうな強烈な閃光に全員が目を閉じ、ゆっくりと開けた。

 佇む異形の戦士の頭部はフルフェイスマスクに覆われていて菱形のバイザーが両眼を隠している。バイザーに一筋の切れ込みがあって瞬きをするように赤く点滅していた。ボディは黒地のスーツを基本に胸、肩、腕、太ももに白銀の装甲が装着されている。ブーツ状となった足の爪先を床に打ちつけ、指先まで包み込む手甲をかち合わせた。

 Y字に開けた胸元は黒い下地が浮かびあがりネクタイのような模様になっている。

 自身の姿を隅々まで確認して善之助――いや【ユウシャイン】は満足気に頷く。

 口を半開きにしている観衆に性能を見せつけるべくサンドバックを手にとる。

「はあっ!」

 気合を乗せた拳がサンドバックを炸裂させた。吹き飛ぶどころか衝撃の強さに弾けて千切れてしまう。吐き出された砂が降りかかったが耶依は何も言えずに立ち竦んでいた。

 さらに【ユウシャイン】は性能をひけらかすように跳躍する。

 7メートルはゆうにある天井を蹴って再び跳躍。広々とした空間を縦横無尽に駆けた。

 耶依は脇を掠める荒々しい風を感じて我に返り容赦なくストップボタンを押す。

「ううぅぅぅぅあああああっー」

 急激に変化したせいで善之助は受身も取れず床を転がっていった。

 壁に激突してようやく止まる。目を回しているのか立ち上げれないようだ。いい様。

『危ないわよ、耶依。酷いじゃない』

「ふん。調子乗るからよ」

 フリーは冷ややかに言いながら床で伸びている善之助の頬を舐めてあげた。

 ざらざらとした舌の感触に彼は呂律の回らない下でお礼を呟く。

 才悟も満足してやり切れない苛立ちを抱えている部下の肩を叩いて励ました。

「良かったじゃないか。あれだけの性能があれば近いうちにランクアップできるだろう。私も楽しみだ。君がしっかりと制御しないといけないよ」

「本当に雇うんですか……?」

「相性の良さは君が一番実感しているはずだ」

 次に才悟はなんとか立ち上がった善之助に賛辞の拍手を送った。これは本音だ。

「驚いたよ。君の性能は素晴らしい。是非ヒーローとして悪と戦ってくれ」

「もち、もちろろ、もちろんです」

「ところでさっきの“絶対正義ユウシャイン”って何だい?」

「正義に目覚めたある企業の社長が作り出した強化スーツを身に纏って戦う勇気ある社員。それがユウシャインです。変身後の僕のことはユウシャインと呼んでください!」

「はは、いい名前じゃないか。ぴったりだ。じゃ、あとは二人で頑張って。愛くーん」

 実のところ由来などどうでも良かった。近未来的なヒーローの姿は何かと利用できそうだと探りを入れたに過ぎない。善之助は素直に喜んでいるようだったが。

 呼ばれる前から愛は片付けを終えて扉を開けておいた。

「ちょっと所長!?」

「せっかくだから訓練でもして仲を深めなよ。帰りは愛くんを寄越すから。フリー」

『私は残って見てるわ』

 それに頷きを返して才悟と耶依は寄り添って出て行ってしまった。

 二人は未成年だから帰りはいやでも徒歩になる。耶依はこの鬱憤を善之助にぶつけることにした。彼は訓練と聞いていてもたってもいられず小躍りしている。

「変身時間が回復したら特訓。空きの時間はトレーニング。文句は聞かない」

「望むところでぇっ」

 拳を振り上げようとして強かに打ちつけた脇腹がずきんと痛んだ。

 心配そうに寄り添うフリーと親しげな善之助に言い知れぬ嫉妬心が芽生える。

 彼女は耶依にはあまり懐いていなかった。ふんと鼻を鳴らして距離を空けて休憩を取る。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る