第6話 勝利の美酒にはまだ早い Part4
〈2122年 5月8日 3:33AM〉
―?―
夜闇は全ての人間に平等に降り注ぐ。漆黒は人の視界を奪い、そしてその姿を覆い隠す。
月光に照らされたアミューズメントパークの屋上――影法師が一つ揺らめいた。
「――申し訳ありません、フーさん。ピオンさんを見失ってしまって……」
男はこれといって特徴のない、あっさりとした顔立ちをしていた。人畜無害そうな雰囲気で、大衆の中に存在感が溶け込んでしまいそう。しかしそれは――己の牙を隠すのに最高の条件であった。
誰も俺を怪しまない。誰も俺を気に留めない。だから俺は――影になれる。
そう、誰も見抜くことが出来ない。この俺が、これ程までに残忍非道な男であることを。
「ありがたき幸せです、フーさん。放免してくださり感謝です」
男はスマートフォンを右肩と耳で挟んで通話を続け、双眼鏡で地上を見下ろす。
「ピオンさんの性格からすれば頑張った方、ですか?いえ、そんなことはありま……あっ」
そしてようやく見つけた――今宵のターゲット二人を。
夜行バスを待つ、灰色の髪をした青年と濡れ羽色の髪の少女。
「フーさん、発見しましたよ。ええ、そうです。流魂の妹と、例の……
双眼鏡をしまい、足下の黒いガンケースに手を伸ばした。そして留め具をカチッと外し、中のパーツを手際よく組み立てていく。
一見普通の自分より若い男女だ。しかしあの二人は――星片争奪戦の勝者。
たった四人で結界内に入り、多少は損失もあったようだが、見事星片を
けれど――こうして一方的に攻撃すれば、あの二人を殺すことなど造作もない。
「安心してください、フーさん。誰にもバレていませんよ。ええ、それでは」
スクリーンをタップし通話を終えた。
組み立てた狙撃銃の
狙うのは青年、少女の順で良い。流魂の妹が何処までのやるのかは知らないが、より危険なのは青年の方で間違いない。なにせ、あのフーさんが警戒するような人物なのだから。
「ふうっ……」
あの青年が“英雄の息子”と呼ばれる所以は知らないが、それにしても大層な肩書き持っているものだ。いったいどんな異能力を持つ青年なのか、多少は興味がある。
しかし今――彼の生殺与奪の権利はこの手にある。引き金を絞れば、彼の頭に風穴が開く。
「――ねぇ、戸締まりって大事よ。もしかしたら一般人が上がってくるかも知れないから」
「っ!?」
その美声は張り詰めた空気を弛緩させ――男の意識は、否応なしに彼女へと持って行かれた。
男は振り返り、その双眸に映ったのは――微笑み一つに千金の価値はあるような、この世に舞い降りた美の女神であった。
彼女の何もかもが美しい。その瞳が、その髪が、その唇が、その身体が。
男は思った。彼女が一顧すれば城が傾き、再顧すれば国が傾くと。
「見られたからにはタダじゃおかないが……お前のような美人を殺すのは、世界の損失になる。少しの間そこで待っていろ。直ぐに終わらせる」
男は捻った首を戻し、再びスコープを覗き込む。
青年は大きく欠伸をして、少女に窘められているようだ。まったく……平和なものだ。自分たちが命の危機に瀕しているということに気が付きもしないで。
だから俺が寝かせてやろう――一生目覚めることのない眠りに。
男が引き金に人差し指をかけた瞬間――美女は不敵な笑みを浮かべた。
「ねぇ、どうしてあなたはその二人を狙っているの?」
それはもちろん、フーさんから命令されたから――いや、待てよ。どうしてこの美女は……“二人”と宣うた?
疑念が過ぎる。何故狙っているのが二人だとわかった?そもそも美女の立ち位置からでは、あの二人は死角ではないか?
けれど……今はそのようなことはどうでも良いか。さっさと仕事を終えて、この美女を手籠めにしてやろう。
こんな美女と一夜を楽しめるなら、いっそ俺は明日死んでも構わない。俺の人生は、もしかしたら彼女との一興のために存在していたのかもしれない。
それじゃあな、青年。お前には何の恨みもないが、これも仕事なんでな。どうか俺のために死んでくれ。
男が引き金を――絞った。そして、バス停看板の隣に立つ青年の頭に――
「無視は……良くないわね」
あれ……?青年が……生きている?
俺は確かに引き金を絞ったはず。いや、そう言えば……銃声がしなかったな。
「はっ!うがああぁぁぁぁっッッッ!!」
男はようやく気が付いた。引き金を絞った感覚は――錯覚でしかなかったということに。
タイルに落ちているのは、自分の右手の人差し指の第二関節より上丸ごと。みるみる内に血が溢れ出してくる。狙撃銃を手放し、急ぎ左手でその断面を止血のために押さえつける。しかしその程度で、滾々と湧き出でる赤の泉に栓をすることは出来ない。
「ぐうっ、ううっっっ!!」
息が苦しくなるほどの激痛。それでも、この程度で人間が死ぬことはない。だから今は……何が起きたのか、冷静に考えなければならない。
千思万考。偶然にもかまいたちが発生し、人差し指が切断された――?ありえない。かまいたちは妖怪や自然現象などではない。それは生理学的現象であり、あかぎれの一種に過ぎないのだ。
それでは……突発的な暴風が発生し、吹き飛んできた鋭利な刃物により指が切り落とされた――?それもないだろう。風など今に至るまで吹いていないのだから。
その原因を自分にも自然現象にも求めることが出来ないというのなら、まさか――この美女がしでかしたとでもいうのか?
「お前が……?」
「ええ、そうよ」
酷く無愛想な語気だった。
美女の蔑むような冷たい視線が、より一層身体を凍えさせる。指が切られただけだというのに、意識が朦朧としてきた。
「お前も……異能力者なのか?」
「ええ」
「風使い……いや、真空使い…違うか?」
美女は首を横に振り――背中に隠し持っていたナイフを男に見せつけた。
ぽたぽたぽた。鮮血が滴っている。それが誰のものかなんて……考えるまでもなかった。
「あなたが狙った人はね、わたしの一番大切な人なの。だから――死んでちょうだい」
美女は無情に零し――
それはあまりにも無慈悲で、
「悪いのは全てあなたなのよ?よりにもよって彼に手を出すなんて。本当はもっと凄惨な死をプレゼントしてあげたいところだけれど……これで許してあげる」
美女は男の頸部へとナイフを3cm食い込ませ――一気に引いた。
それから間もなくして、
「ぐあああああああっっッッッッッッ!!」
男の脈動と共に血飛沫が噴出し――男は呆気なく絶命した。
誰も男を哀れんだりなどしない。彼は悪であり、美女により正義は実現された――否。
彼女もまた――己の本懐のために人を殺すような、純然たる悪の権化に過ぎない。
「さて……」
美女は手摺りへと駆け寄り、男が所持していた双眼鏡を拾い上げてバス停を確認する。
良かった……。二人は無事にバスに乗れたようだ。これから二人は飛行場に向かい、数十時間の空の旅をするのであろう。
願わくば、二人に着いていきたかった。けれど……ごめんなさい。
「――お嬢様」
凜とした声に、美女は振り返る。
「ああ、フローラ。わざわざ迎えに来てくれなくても良かったのに」
そこにいたのは――フリルがあしらわれたカチューシャで青い髪を留め、クラシカルなメイド服に身を包んだ慎ましやかな女性。
美女はフローラから差し出された純白のタオルに顔を埋めた。次にペットボトルを受け取ると、美女はキャップを開けてゴクゴクと飲み干した。
「お嬢様、“法”と言うものをご存じですか?」
「なに、フローラ?主人をバカにしているの?」
「いいえ……結界の外でまで無闇矢鱈に人を殺すのはお止めください。日本は法治国家です。殺人は厳格に罰せられ――」
フローラは主人たる美女に制止され口を閉じた。
「わかっているわ。でもね、この男は確実に殺さなければならなかったわ――今日、この場所でね」
フローラは「ええ、そうですね」と同意を示し、美女は頷いた。
それから少しして、美女は踵を返し――
「後片付け、頼んで良いかしら?」
「はい。掃除はメイドの嗜みですから」
フローラの横を通り過ぎ、屋上の出口へと向かっていった。
「ううっ……ふうっ!」
美女は背筋を伸ばし、安堵の溜息を吐いた。
昨日は本当に大変な一日だった。もちろん“戦いが”ではなく、“彼”に関して。
身だしなみを整えるのに張り切りすぎて集合時間に遅れちゃったのは、確かに
それでも……嬉しさの方が勝るわね。彼といっぱいお話出来たし、彼の表情を目に焼き付け、彼の匂いを堪能することも出来た。
それに……多少なりとも、彼にわたしを刻めたわよね?
「でも――」
これはあくまで始まりに過ぎない。むしろ、これからが本番。
P&Lが第一次星片争奪戦の勝者となったことで、多くの組織が彼らを狙って動き始める。でもあの二人なら、きっと……それに、
だからわたしは集中しなくちゃ。そろそろあの集団が本格的に動き出す頃だもの。
あの集団を食い止めるのはわたしの役割。それが一段落するまでは……彼の温もりはお預けね。
「今度こそ必ずあなたを守ってみせるわ、グラウ。そのためなら、わたしはどんな犠牲をも厭わない。この身が朽ち果てようが、いっそ死ぬことになろうが――例え……あなたを裏切ることになっても……ね」
地平線から日が差し込み始める中――彼女は悲しく独り言ちた。
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