第5話 洗濯とおしゃべり

 太陽が空の最も高いところを通るころ、タオルセヌフィスは大きな籠を抱えて家を出た。


「行ってきまーす!」

「気を付けてね。」


 叔母のティが赤子をあやしながら、呼び掛ける。タオルセヌフィスはそれに頷くと、ナイルの川辺を目指して歩き始めた。

 晴天のもと、鼻歌を歌いながら大通りから外れた小道を進んでいく。


「タオルセヌフィス。こっちこっち!」

 ナイル川の岸辺まで来ると、ネフェルトとネベタフがこちらに手を振っていた。それに手を振り返すと、小走りで近づいた。川辺は洗濯する人でひしめいていた。奥の方では神殿の洗濯人たちが大釜にお湯を沸かしている。生暖かい湯煙がこちらにも飛んできていた。


「ちょっと、もう少し詰めてくれない。」


 ネフェルトが傍の人に言ってくれたおかげで、タオルセヌフィスは隣を確保した。頭から重い籠を下ろして一息つく。服の量がかなりあるのを見て、ネフェルトは思わず聞いた。


「今日はあんた一人なの?」

「そうよ。今日はお客様が来るから、皆大忙しなの。」

「え!誰が来るの?」

「よく分からないけど、ギリシアから来た人だって。」

「いいな~。うちにもお客様来ないかな。まぁ、来る訳ないか。」

「うちも久しぶりだから大変。」


 タオルセヌフィスは籠から衣を取り出すと、ボールのように丸めた。それを川の水に沈める。昼間とはいえ、まだ少し肌寒い3月に洗濯はつらい仕事だ。


「冷た。」

「嫌よね、洗濯って。手も痛くなるし、重いし。」


 ネベタフは苦笑いをして、同じく水に衣を浸す。そして、ナトロンの石鹸でそれを手早く洗うと、平たい石に広げて木の棒で思い切り叩いた。水が跳ねる音があちこちでする。


「それお屋敷の分だよね。」

「そうだよ。」

「えらいな、ネベタフは。」

「そんなことないよ。」


 感心したように呟くタオルセヌフィスに、ネベタフは照れたように笑った。タオルセヌフィスやネフェルトと同い年のネベタフは、裕福な役人の屋敷に仕えていた。


「色々教えてもらえるから。」

「私の家も、洗濯をしてくれる召使が欲しいよ。」

「ちょっと、ネフェルト。」


 たしなめるタオルセヌフィスに構わず、ネフェルトは洗った衣を力強く絞りながら唸る。


「誰かやってくれないかなぁ!タオルセヌフィスの所は良いよね。お兄様、書記だしさ。出世したら、もっと良い暮らしができるでしょ。」

「うちはそんな良い家柄じゃないよ。メリトはいるけど、みんな働いているし。」

「兄さんから聞いたんだけど。うちさ、昔はめちゃくちゃお金持ちだったらしい。」

「そうなの?」


 タオルセヌフィスは石に衣を擦り付けながら、頷いた。水をかけながら石に擦って汚れを落としていく。ネフェルトは得意げに続けた。

「大きな土地を持つテーベの大金持ちだったらしい。」

「へぇ。なんでこのメンフィスに来たんだろうね。」

「さぁ。わかんないけど。」

「それより、ネフェルト。そのピアス可愛い。」


 ネベタフが何気なく呟いた言葉に、ネフェルトは目を輝かせた。見せつけるように何度も首を振る。ガラス製の飾りがキラキラと光りに透けて揺れた。


「いいでしょ。この前、貰ったの。」

「どこで?」

「歌いに行った時に。一応、最近は人気でいろいろ宴に呼ばれているんだから。」

「それ前も言っていたね。楽士をやっているって。ほんとに、そうなの?」


 茶化したように尋ねるタオルセヌフィスに、ネフェルトは口を尖らせた。勢いよく石に衣を広げると、木の棒で叩き始める。水を含んだ布が音を立てて広がっていく。

 ネフェルトは咳ばらいをすると歌い出した。


『愛の女神ハトホルのために清らかな音楽を、よろずの音楽を。あなたは音楽を愛でるお方だから、よろずの音楽を。』


 節に合わせて、ネベタフも衣を叩いていく。周りで口々に話していた女たちも声を落としたり、黙ったりして歌を聞いているのが分かる。ネフェルトは得意げに節を続けた。タオルセヌフィスやネベタフも手を動かしながら、口ずさむ。


『あなたの心の中に、あなたがどこにおられようと。愛の女神ハトホルの為に、いついかなる時も。』


 歌い終わりに顔を見合わせた3人は吹き出して笑い始めた。無性に面白くなって、そのまましばらく歌いながら洗濯を続けた。

 タオルセヌフィスは服を絞りながら「確かに上手。」と呟き、ネフェルトはにんまりと笑った。


「兄さんはあんまりいい顔をしないけど。でもね。宴に出たら、どこかのお金持ちに見初められるかもしれないでしょう。そうしたら大きな家で大勢の召使に囲まれて暮らすの。いいでしょう?」

「ネフェルトなら、美人だし。できるかもしれないね。」

「ありがとう、ネベタフ。…このままいったら、洗濯人か機織りの男と結婚させられるわ。そんなの絶対嫌だもん。財産がある男が一番よ。そうでしょ?」

「私は、まだ結婚はしたくないな。」


 最後の一枚に取り掛かっていたタオルセヌフィスは溜息をついた。

「何で?」

「だって、今の家を離れたくないし。…他の街にも行ってみたいし、書物だって読みたいし。他にも…」


 タオルセヌフィスがブツブツと理由を並べるのを見て、ネフェルトとネベタフは顔を見合わせて笑った。2人がしたり顔で衣を絞るのを見て、タオルセヌフィスは眉を寄せる。


「なによ。」

「いい方法があるじゃない。全部解決できると思うけど?」

「私も、いいと思う。」

「え?」


「タオルセヌフィス様!」


 その時、何処からか声が聞こえた。振り向くと、通りの方からメリトがこちらに手を振っている。その後ろにはレオニダスの姿も見えた。


「メリト!お兄様!」


 タオルセヌフィスは立ち上がって、両手を振る。それを聞いたネフェルトとネベタフは焦ったように手早く洗濯物を籠に戻した。


「え、レオニダスさん?」


 ネフェルトは乱れた髪を慌てて直し、ネベタフは服の裾を直すと濡れて赤くなっていた手を後ろへ隠した。


 レオニダスは神殿からの帰りなのか、腕にジャラジャラとブレスレットを通し、ガラスの指輪をしていた。普段着姿の女たちが集う川辺の洗濯場では、かなり異質な姿で皆がこちらを密かに伺っている。


「どうしたの?」

「市場に行こうかと思ってね。この間、行きだがっていただろう。…後はメリトにやってもらうといい。」


 レオニダスの提案にタオルセヌフィスは目を輝かせた。大きく頷くと、いそいそと洗濯を籠に戻して川で手を洗う。


「それじゃ。ネフェルト、ネベタフ。またね!」


 籠をメリトに渡して、タオルセヌフィスは思わずレオニダスの腕を引っ張った。レオニダスは2人に軽く会釈をするとタオルセヌフィスを伴って通りへ向かっていった。


 その姿が見えなくなると、2人はふぅと息をつく。


「びっくりしたね。」

「私、間近で見たの初めてかも。」

「格好良かったね。都会の人って感じ。」

「そりゃ、アレクサンドリアの人だもん。」


 ボソボソと呟くように話しながら、ネフェルトとネベタフは衣を川の水につけ始めた。

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