第4話 兄とタオルセヌフィス

「養子なんていらないから!」


妹だと紹介された少女は、目を潤ませながら言い放った。


両親が慌ててとりなしたが、タオルセヌフィスはこの“新しい兄”が気に入らなかった。

その夜はレオニダスを歓迎して豪華な夕食が用意されていたが、タオルセヌフィスは姿を現さない。


「ごめんなさいね。あの子ったら…。」


タイスが申し訳なさそうに謝った。


「いえ。戸惑うのは当然です。」

「まぁ、今日初めて会ったんだ。月日が解決するさ。」


父親のネシは笑いながら、酒宴についた。他の家族も仕方がないなと言う風に笑っている。順番に挨拶を交わす。


「ティは私の妹でクロニオンはその息子だ。それから、リュシマコスはタイスの弟。元は軍人だったんだぞ。」

「そうですか。」

「レオニダス、会えてうれしいよ。お義兄さんもこれで安心ですね。」


リュシマコスは背は低いが、元軍人らしく肩幅の大きな男だった。温和そうな笑みを浮かべてクロニオンの隣に座る。ネシは含み笑いしながら、レオニダスに囁いた。


「もうすぐティとリュシマコスは結婚するんだ。」

「それは、おめでとうございます!」

「喜ばしいことばかりだ。さぁ、食べて飲もう。」


レオニダスは、嬉しそうな様子の新しい家族を見てホッとした。どうやら、他の皆には歓迎されたようだ。


ネシが、満足そうに杯を飲み干す。宴会は、夜更けまで続いた。


*******

次の日。


「うわぁぁぁぁぁぁ!!!」


静かの朝に、レオニダスの悲鳴が響いた。叫び声に起こされたネシ達は何事かと、慌ててレオニダスの部屋へ走る。


「レオニダス!どうしたんだ!」

「起きたら、急に目の前にいて…!」

「どこだ!」

「…カエル?」

荒い息しながらレオニダスが指を指す方向を見ると、立派なカエルが2匹、眠たそうにゲコゲコ鳴いていた。ネシも後から来たタイスも首をかしげる。


「鳴き声が耳元で聞こえたので、何かと思って目を開けたら…。」

「それは、驚いた事だろう。どうしてカエルが入ったんだろうね。」

「昨日、綺麗に掃除してあったんだけどね。」


ナイルが近いとはいえ、氾濫期も終わった今の時期にカエルが家に入る事はない。

すると、後ろの方でくすくすと笑い声が聞こえた。振り返ると、タオルセヌフィスが我慢できないと声を震わせている。


「タオルセヌフィス、おまえ。」

「大の男が、カエルごときに大声出すなんて。アレクサンドリアの男ってのは意気地がないのね!」

「タオルセヌフィス!こら、待ちなさい!!」


タオルセヌフィスは、笑いながらさっさと逃げていった。怒ったタイスがタオルセヌフィスを追いかけるが、もう彼女の姿はない。

残されたレオニダスは、呆気に取られながら部屋の隅でゲコゲコ鳴いているカエルを見る。今まであったどんな女の子よりも、活発な娘だった。


「昨日、何処に行っていたのかと思ったら。カエルを取りに行ってたんだな。」


ネシが苦笑しながら、カエルを捕まえて窓から逃がした。


「悪いね、レオニダス。」

「い、いえ。……カエルごときで私も騒ぎ過ぎました。」


今更ながらに恥ずかしくなって、レオニダスが頭を下げると、ネシは「それもそうだな。」と言って朗らかに笑った。


********************

それから数日経っても、タオルセヌフィスからのイタズラは止まらなかった。

その度にタイスに厳しく叱られてはいるようだが、懲りている様子はない。


ある時は、起きたら横にサソリの死骸が置いてあった。ある時は、サンダルが片方隠されていたり、また愛用のマントに見事な猫の絵が描かれている時もあった。


レオニダスは、何度かタオルセヌフィスと和解をしようと試みた。しかし、男兄弟の中で育ったレオニダスには、妹をどう扱っていいのかさっぱり分からなかった。


「大丈夫。大丈夫。そのうち諦めるさ。」

ネシはそれを見て、いつも大らかに笑っていた。


*******


「お母様!なんで、養子なんかもらうのよ。」

「何でって。じゃあ、誰がお父様の仕事を継いで、この家を守るの。」

「私がいるでしょ!」

「女の子は書記にはなれないわ。それに貴方はお嫁に行くでしょう。」

「書記官になるもん!字だって読めるし!」

「無理よ。」

「……お嫁になんて行かない!私が死んだお兄様の代わりにこの家を守るの!」


市場からの帰り道、ナイル川沿いを歩きながらタオルセヌフィスは叫んだ。道行く人が何事かとこちらを振り向く。タイスは慌ててタオルセヌフィスの口を塞いだ。


「いい加減にしなさい。お父様が決めたことよ。」


タイスは厳しい声で諭す。タオルセヌフィスは母の迫力に押し黙った。タイスはため息をついて、歩き出した。どうしてこうも頑固な娘なのか。


タオルセヌフィスもその後ろをとぼとぼと歩いていく。風に揺られて、タイスの長い黒髪が揺れた。睡蓮ロータスの香水がほのかに漂う。大好きな母の香りだ。母の諭すような声が聞こえた。


「レオニダスさんはアレクサンドリアからわざわざうちに来て下さったのよ。慣れない暮らしの中で、とても一生懸命努力されているわ。」

「……お父様達に気に入られようと必死なだけよ。そうしないと、財産が貰えないもの!」

「レオニダスさんのご実家に比べれば、ウチなんて大したものはないわ。」

「でも…!」

「一体、何が気に入らないの!」

「…だって、まともに字も書けないって!家でもずっと竪琴ばっかり弾いて。」


タオルセヌフィスはずっとモヤモヤしていたことを吐き出した。

勉強熱心だった実のとは違い、レオニダスは父と仕事から帰ってくるとふらっと何処かへ出て行くか、竪琴リュラーを弾いている。

そして、ネシの家の養子は字もろくに書けないようだという噂を最近耳にしたのだ。


「何でそんな人が養子にくるのよ!」


大声で叫ぶと、タイスが呆然とこちらを見ていた。

いや、正確にはタオルセヌフィスの後ろにいる人物を見て、固まっていた。後ろを振り返ったタオルセヌフィスは、そこに仕事帰りの父とレオニダスがいるのを見て硬直する。ネシは普段は真顔のままタオルセヌフィスの腕を掴む。


「何も知らないお前が、何てことを言うんだ。」


今まで聞いたこともない厳しい声だった。横にいるレオニダスは、少し決まり悪そうに目を逸らし家へ入っていった。


その夜、タオルセヌフィスは久しぶりに父親の説教を受けた。

*******


ナイルの水がヒタヒタと近づく音。

暑い暑い夏の氾濫期(7月~11月)。


タオルセヌフィスは、薄暗い部屋の中で兄の看病をしていた。


『私が死んだら、お前がお母様とお父様をお守りするのだよ。』

父に似て柔和な顔の兄は、かすれた声でそう告げると冥界の神オシリスの元へ旅立っていった。


「待って!お兄様!」


タオルセヌフィスは飛び起きた。荒い息を沈めながら、夢だと気が付く。

もう半年も経つのに未だに兄を夢に見る。きっと、自分を心配して近くに来ているのだろう。


(だめだめ、しっかりしなきゃ!)


タオルセヌフィスは、風に当たろうと階段を降り中庭に出た。

すると、中庭に誰かがいた。レオニダスだった。

わずかな月明かりを頼りに、真剣な面持ちで何かを書いていた。


「何してるの?」

「うわ!何だ!」

「それはこっちの台詞よ。こんなところで何してるのよ。」


訝しげに近づくと、レオニダスの周りには沢山の陶器の破片オストラコンが散らばっていた。そこには、無数の神聖文字ヒエログリフが書かれている。


「これ、全部神聖文字ヒエログリフ?」

「そうだよ。下手な字だけれど」


レオニダスは、少し恥ずかしそうにそれを見た。


「実はね。俺の実家は、ずっと昔にギリシアから来た人の子孫で。普段は皆、ギリシア語を話して暮らしている。」

「…でも、エジプト語を話してるじゃない。」

「そりゃ、勉強したからね。商売をする為には必要だったから。エジプト語も、民衆文字デモティックもある程度はできる。でも…」

「でも?」


突然、レオニダスはがっくりと肩を下ろした。疲れ切ったような様子で、溜息をつく。


神聖文字ヒエログリフはダメなんだ。全然書けない。読むのも難しい。」

「そんなに違うの…?」

「君は、文字を習ったんだっけ?」

「…簡単な民衆文字デモティックだけは…。」


実のところ、タオルセヌフィスも神聖文字ヒエログリフはさっぱりだった。何となく、絵柄で想像するしかできない。


民衆文字デモティックは、神聖文字ヒエログリフを簡単にしたもの。基本的には言葉を文字に起こしたものだ。商人たちも使えるような読みやすく、書きやすい字になっている。」


レオニダスは、陶器の破片オストラコンに縮れた毛のような文字をサラサラと書いた。


神聖文字ヒエログリフは違うの?」

「これは、神に捧げるモノだ。今よりもずっと遥か昔にできた文字だ。正直、今の言葉とはかなり違うし、文字数もかなりある。」


陶器の破片オストラコンには、コブラやハゲワシをした字が沢山並んでいた。

ペンで何度も書き直しをした跡が、彼の練習時間を物語っていた。月明かりを頼りに、この人は毎晩こうして無数の文字を書いていたのだろうか。


「今日、君が言っていたことは正しいよ。」


レオニダスは静かに切り出した。


「俺は、書記官に必須の神聖文字ヒエログリフすらまともに書けない。…出来の悪い跡取りだ。隠れて練習していたけど、噂になってたみたいだね。」

「…。」

「でも、ここに来たからお義父上のような立派な書記官になる。そして、君のお兄さんの分も家族を守るよ。…その為には、どんな努力も惜しまない。」


優しいが力強い言葉に、タオルセヌフィスは何だか肩の力が抜けていくのを感じた。

気恥ずかしげに言うレオニダスの姿が、亡き兄のものと重なっていった。

ずっと体の芯を通っていた緊張が少しずつ解れていく。


「本当に、本当にあなたも守ってくれるの?」

もう1人で頑張らなくて良いのか。

兄から託されたあの言葉を一緒に守ってくれるのか。


「勿論、君も守るよ。大切な妹だからね。」


散々な嫌がらせをしたにも関わらず、優しく頭を撫でられてタオルセヌフィスは涙が止らなくなった。


「ありがとう。…お兄様。」


本当は、ずっとこう呼びかけたかったのかもしれない。レオニダスは、照れたように笑った。


*******


タオルセヌフィスの家に、竪琴リュラーの音が響く。

思い出に浸っていたタオルセヌフィスにレオニダスは笑いかけた。


「ここに来た頃よりは、神聖文字もだいぶ出来るようにはなったけどね。」


タオルセヌフィスは今でもこっそりと夜に兄が練習をしている事を知っていたが、何も言わなかった。


「お父様も、きっと喜んでいるわ。良い跡取りを持ったって。」

「…そうかな。」


レオニダスはおもむろに、タオルセヌフィスの頭に手を置いた。

大きな目には、溢れそうなほど涙が溜まっていた。

妹が夜中に中庭にやってくる理由は、2つに1つだ。

きっと懐かしい夢を見たのだろう。穏和な父親ネシが亡くなってから、まだそう時は経っていない。


タオルセヌフィスは、せきを切ったように大きな手にすがって泣いた。

亡き父を思い出して。

レオニダスは、彼女が疲れて眠るまで優しく頭を撫でてくれた。


夜明けはもうすぐそこに来ていた。

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