第3話レオニダスの竪琴

紀元前3世紀エジプトの古都メンフィス。


古代エジプト王朝の最初の都であり、都が別の街に移った後も重要な都市として存在した。

ナイル川に面して港があり、家々が広がる。その奥には壮大なプタハ大神殿がそびえ立ち、歴代のファラオはここで戴冠式を執り行った。


陽が落ち、わずかな灯りも少しずつ落ちて、街は寝静まっていった。

タオルセヌフィス達一家も、夕食を終えそれぞれの寝室へ入っていく。


ただレオニダスは、中庭にいた。

愛用の竪琴リュラーを何ともなくつま弾きながら、揺れるナツメヤシの木を見つめる。

ぼうっとしていると、ふと今日のことが思い出された。

上官は意地の悪い顔をしながら、大量の仕事を押し付けて、あれこれと文句を付けた。

お陰で、今日は随分と忙しい日だった。しかも、そういう時に限ってトラブルがよく起きる。


思い出すうちに段々気持ちが沈んできて、レオニダスは首を振った。何か別のことをを考えよう。

目を閉じて、風を感じる。砂っぽい、乾いた風。

故郷の風とは大違いだ。地中海に面した美しい都アレクサンドリアの風とは。


「懐かしいな。」

ポツリと呟くと、竪琴の弦を弾く。あの頃の自分には、数年後にメンフィスで書記をしているなんて想像もできなかった。


************


『至急、家に戻るように。』

アレクサンドリアの父から手紙を受け取ったのは、地中海に浮かぶデロス島で暮らして2年経った時、17歳になったころだった。デロス島はギリシアの国々や小アジア、シリア、エジプトを海路で結ぶ中継地点だった。

2人の兄がいたレオニダスは、実家の跡取りとして期待されることもなく、デロス島で商売の手伝いをしながら悠々とした生活をしていた。


手紙を受け取り、父の身に何かあったのではないか、と言いようのない不安を抱えながら帰宅したレオニダスは出迎えた父親を見て拍子抜けした。そして、夕食後に父から聞かされた話にレオニダスの想像を超えたものだった。


「養子、ですか。」

「そうだ。」

「俺が。」

「そうだ。」


レオニダスは、自分の周りの時間がとてもゆっくり動いているように感じた。アレクサンドリアの家は2人の兄に任せ、自分は商売の手伝いをしながらデロス島で悠々自適に暮らそうとなんとなく将来を思い描いていた。船乗りになり、竪琴を片手に世界を旅するのも一興だと。

それが、まさかこんな形で崩れるとは思ってもみなかった。

呆然とする息子に父は語気を強めて話をつづけた。


「知ってのように、私のお祖父様はギリシアの本土から来た人だが、お祖母様はメンフィス出身の方だった。そのお祖母様、つまりはお前の曾祖母の実家から、お前を養子に欲しいと言われているんだ。」

「メンフィスの家って。確か代々書記官を輩出していたっていう。由緒正しいエジプトの家ですよね。」

「そうだ。だが、後を継がせようと思っていた長男がこの夏に急死してな。御当主ももう年だし、近い親戚も探したが見つからなかった。最後の頼みの綱として、我々の所へ頼みに来たというわけだ。」

「……。」

「我々は、メンフィスの家に大きな恩があるのだよ。」

「恩?」

「知っての通り、お祖父様はファラオと共にギリシアからこの地へ来て、名誉なことに官職と土地を賜った。そして、できた作物や買い付けた宝石を売る商売を始めた。その商売を軌道に乗せるために、お祖母様の家がとても尽力してくれたという。私が何度も父から聞かされた話だ。」


初めて聞く話だった。そもそも曾祖母の実家がメンフィスにあるということは聞いたことがあったが、それ以降の関りは無かったはずだった。しかし、父親はすでに心を決めているようだった。


「頂いた恩には報いなければならない。」


父親は、迷いなく言い切った。

一家の主である父にそう言われて仕舞えば、自分の答えはたった1つだ。

動揺がなかったと言えば嘘になるが、発した言葉は自然と力がこもっていた。


「分かりました。」


次の日には、メンフィスから養子先の当主ネシがやって来た。厳格でガタイのいい実父とは違い、人が良さそうな柔和な印象だった。

新しい父親は、実夫に似て剛健なレオニダスを見ると目に涙を浮かべて喜んだ。何度も何度もレオニダスの手を握り、神に感謝した。


「偉大なる愛の女神ハトホルよ。息子を授けてくださり、感謝致します。どうか、どうかこの子は守りたまえ。」


その後、ネシは実父と夜遅くまで話し込み、養子についての契約書を交わした。

実家の住民台帳の全てからレオニダスの名前は消され、代わりにメンフィスの伝統ある家の台帳に書き加えられた。

1週間後にメンフィスへ行くと決まると、あっという間に時は過ぎて気がつけば生まれ育った生家を出る日になっていた。

母親は涙ぐんで何度も「体に気をつけて。」と繰り返し、兄達は少し冷やかし気味に「書記官どの」と何度も呼び掛けてきた。

無愛想な父はいつもの様に、いやもしかしたら少しぐらいは寂しいと思っていたかもしれないが、「行って来なさい」と送り出した。


風が吹く。

地中海の上を通る潮風とは違った風だ。ナイルの川を吹き抜ける風。

ナイルを登りメンフィスに行く商船に乗り込んだレオニダスは、少しずつ小さくなっていく故郷を見ていた。

あれだけ大きいかったファロスの大灯台が小さくなっていく。代わりに見えてきたのは、川沿いに広がる緑とその奥に広がる砂漠。そして、1千年ほど前に歴代のファラオによって建てられたという壮大なピラミッドたちだった。


「ヘリコン山の詩歌女神たちムーサの賛歌から歌いはじめよう。」

竪琴を取り出し、何となく爪弾く。

変わりゆく景色に、何とも言えない心細さを感じた夜だった。


******


「お兄様。眠れないの?」


いつの間にか、タオルセヌフィスが中庭に来ていた。心配そうに傍に座る。


「いや。ごめん、起こしたかい?」

「ううん。ちょっと、嫌な夢を見ただけ。」


妹の頬に残る涙の跡に気が付かないふりをして、レオニダスはゆっくりと竪琴を奏でた。


「そういえば、初めて俺がこの家に来た時のこと、覚えている?」


唐突な質問に目をパチクリさせながらもタオルセヌフィスは、少し笑って答えた。


「そんなの覚えてるに決まってるじゃない。一昨年の種まき時期ペレトの時だった。」

「あの時は、本当に酷い扱いを受けた。」

「違うの!あの時は、その、いきなり新しいお兄様って言われても…よく分からなくて。」


苦笑したレオニダスに、タオルセヌフィスは焦って言い訳をする。レオニダスは、昔を思い出しながら目の前の少女をとっくりと見つめた。

妹とこうして話していることも、あの時は想像できなかった。


2人の夜はもう少し続く。

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