第2話 パン作り

ダン、ダン。ダン、ダン。

中庭に響く石と石がぶつかる音。石の乳鉢の中で、叩かれた小麦が踊り出す。

ダン、ダン。ダン、ダン。

叩かれた反動で、小麦の殻が取れていく。一度に叩ける量は限られているため、取れたら籠に移し替えて次の小麦を入れる。この繰り返し。

ダン、ダン。ダン、ダン。 

ダン、ダン。ダン、ダン。ガタンッ

石の乳棒が放り投げられた音がして、傍で小麦を挽いていたタイスは何事かとそちらを見る。すると、タオルセヌフィスが乳鉢の上に覆いかぶさるようにして倒れ込んでいた。


「タオルセヌフィス。何しているの。」

「もういやぁ。疲れた、終わらない!」


こんもりと小麦が入った籠を恨めし気に睨みながら、タオルセヌフィスは駄々をこねたように動こうとしない。朝からずっとやっているのに、一向に終わる気配を見せない上に、どれだけ叩いても小麦の殻が一向に剥けない。


「全然うまく剥けないし!」


乳鉢の中にまだまだ殻がしっかりと残る小麦を睨みつける。「そんな強さじゃ、まだまだ俺の殻は取れないぜ。」なんて言う小麦たちの声が聞こえてきそうで、顔をしかめる。


「やみくもにやっても時間がかかるわ。もう少し力を込めて打たないと。」


タイスはやれやれと言ったように、乳鉢を取るとタオルセヌフィスよりも大分強い力でリズミカルに打ち始めた。タオルセヌフィスは寝転がりながら、母親の姿を覗き込む。

打つたびに黒く長い髪とそこから覗く円形のイアリングが揺れる。娘の自分が言うのも変だが、母はとても美しい人だと思う。


「ねぇ、母様。」

「ん。」

「母様は嫌だった思ったことないの。毎日、毎日ずっとパン作ったり、ビールを仕込んだり。布を織って、洗濯をして。」


タオルセヌフィスは、怒られるかなと恐る恐る尋ねたが、タイスは少し考えた様子を見せて、優しく答えた。


「そりゃ、大変よ。母様だって、裕福で沢山の召使がいたらなって羨ましく思うことも時にはあるわ。でもね。」


タイスは寂しそうに空を見上げる。イアリングが風に揺れた。


「とっても幸せなことだと思うのよ。愛しい家族の為に働くことができるっていうのは。皆が元気に生きていないと、できないことだからね。」

「そっか。」


タオルセヌフィスは、ごろんと寝そべった。

中庭から見える四角い空には、青空が広がっていた。娘のだらしない姿にタイスは、「やめなさい。」と注意をするとまた小麦を打ち始める。


「ほら、こっちはやるから。小麦を挽いて頂戴。」

「はーい。」


起き上がって、平たい岩の前に座ると円柱状の石で小麦を挽き始める。力いっぱい転がし、粉状にしていく。気晴らしに鼻歌を歌った。


**************


「ただいま戻りました。」

洗濯から帰って来たティアが加わり、作業は格段にはかどった。もう40歳になる使用人のティアはごつごつした手で手早く小麦を小麦粉に変えていく。

そうしているうちに、畑から戻った叔母のティもパン作りに加わった。この冬に生まれた赤ん坊が傍で眠っている。


「びっくりしたんだけどね。メレルカのお相手。アメンヘテプさんのところの長男の‥‥。」

「ハプさんでしょ。」

「そうそう。いくら土地を沢山持っているからって。ねぇ。あんまりいい噂は聞かないじゃない。ついこの間まで、ご親戚の中でいろいろ揉めていたらしいし。」


ティは、街で聞いた噂話を披露しながらいくつかある壺に小麦粉と水を混ぜて流し込んだ。これを寝かせて発酵させ、パン生地を作る。


「だから言ってやったのよ。そりゃ財産は大事だけど、娘が大事ならもっとお相手の家族がどんなかきちんと調べてからの方がいいってね。」

「確かハプさんの方が、メレルカさんを妻にしたいって言い出したとか。ねぇ、ティア。」

「へぇ。あたしはそう聞きましたが。」

「そうなのよ。前にメレルカが収穫祭で踊った時にね、どうも目に留まったらしいのよ。‥‥それでね。」


タイス達が噂話に花を咲かせている間、タオルセヌフィスはそっと中庭を後にした。2階に上がり、奥にあるレオニダスの寝室へ向かう。窓が小さく少し暗い部屋には、いくつかの箱とたんすがあった。その内の一番小さな、でも美しく装飾された箱を開け、パピルを数枚取り出した。タオルセヌフィスの小さな楽しみの一つだ。


「あった、あった。」

丸められたパピルスを広げながら、目的の部分を探す。それには、いくらかくだけた民衆文字で、この地ができた時からの物語が書かれていた。神殿に祀られる神々の物語だ。


「偉大なる神プタハは始まりの丘に現れた。彼は心の中にその他の全ての神々と生き物を創造し、言葉によってそれらを与えた…。」


うっとりとしながら、1文字ずつ読み進める。途中、分からない言葉にいくつかぶつかるが気にせず読み進めた。


「タオルセヌフィスー!!!」


目の前の物語に没頭していたタオルセヌフィスは、母親の声に我に返った。しまった、いないことがバレたようだ。慌ててパピルスを丸め、箱に戻して駆け足で下に降りる。残念ながら、もう夕食頃だ。続きはまた今度読もう。


「よく響く声ね。…どうせまた何か読んでいたんでしょ。」

ティが苦笑しながら、ビールの入った壺を運んできた。ティアも朝と同じようにナツメヤシの木の下にマットを敷いて、夕食の準備に取り掛かる。


「死んだあの人が悪いのよ。文字なんて教えて。書記の娘なんだから、文字ぐらい知っていても損はないって。あの子も知りたがりだから、喜んで聞いていたし。」


母タイスは悩まし気にこめかみを押さえる。


「家事そっちのけで、外に出たがるし。アレクサンドリアに行ってみたーい!大きな船に乗ってみたーい!なんて怖くないのかしらあの子。」

「お義兄さんに似たのね。そういう所。でも、良いじゃない。もう嫁にやる心配もしなくていいんでしょ。一応もう結婚しているんだっけ。」

「一応ね、あの人が亡くなった後すぐに契約書は書いたの。…でもまだ準備も何も出来ていないし、本人には伝えてないのよ。」


ドタドタと階段を下りる音が聞こえて、タオルセヌフィスがやって来た。その音で起きたのか、寝ていた赤ん坊が目を覚まし泣き出した。


「ちょっとあやして来る!」


タオルセヌフィスは赤ん坊を抱きあげると、玄関へ向かった。道に出て風に当たりながら、道行く人を眺める。畑仕事から帰って来た男達や、布をたくさん抱えた女、豪華な衣服に身を包んだ男とその従者。夕暮れ時だからか、人の往来は多かった。

しかし、お目当ての人物は中々見当たらない。

そうこうしていると、叔父リュシマコスとクロニオンが帰って来た。


「ただいま。」

「ただいま、レオニダスはまだ帰っていないのかい。」


見透かされたように言われ、タオルセヌフィスは真っ赤になった。


「べ、別に。お兄様を待っている訳じゃないの。この子が泣いちゃったから、風に当たっているだけよ。」

「そうかい。」


リュシマコスは少し笑って、タオルセヌフィスから赤ん坊を受け取った。それでも家に入ろうとしないタオルセヌフィスに「ほどほどにして戻って来るんだよ。」と言い、クロニオンと家に入っていく。

タオルセヌフィスはまた道行く人を眺めながら時間を過ごした。もう日が傾き始めた。風も冷たくなってきた。今日は遅いな、なんて思いながら土の上に絵をかいて気を紛らさせる。太陽が西の空に少し沈んだ頃、急に大きな影がタオルセヌフィスを覆った。


「風邪にひくだろう。いつからいたんだ。」

「お兄様!お帰りなさい!」


影の主がレオニダスだと分かると、思わず駆け寄った。心なしかいつもより疲れているように見えた。


「ただいま。」


レオニダスは苦笑しながら、タオルセヌフィスを連れて家へ入った。

中庭から香ばしい匂いが漂う。今日の夜ご飯は、焼き肉のようだ。


「お兄様、今日は何をしたの?」

「何って、そうだな。もうすぐ収穫期だから、貯蔵庫の穀物の集計と管理文書の整理と‥。」

「それで、それで?」


尊敬の念と好奇心の交じった目で見上げてくる妹を見て、レオニダスはなんだか可笑しくなった。腹から笑いがこみあげてくる。笑われたタオルセヌフィスはキョトンとした。


「何がおかしいのよ。」

「いいや。…そんなに大したことはやっていないぞ。残念ながら。」


レオニダスは、笑いながらタオルセヌフィスの肩を叩いた。笑ったら、昼間の疲れが吹き飛んだ気がする。

肉焼ける良い匂いがした。ビールを飲んだら、きっと旨いだろう。


「さ、皆でご飯だ。」


妹であり、将来の妻でもあるタオルセヌフィスの手を引いて、レオニダスは中庭に向かった。

太陽はすでに西の砂漠に消えかかり、辺りは夜の闇に浸食されようとしていた。

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